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これ以上ラズウェルに噛みついても、クレアが苛立つだけである。べりっと彼から視線を外して、応接室の惨状に意識を向けた。
なかなかひどいものだった。
ずれたテーブルに、濡れて染みのできた絨毯。飛び散るティーカップの欠片。おまけに、この国の王太子が倒れている。
言葉にならない言葉をうめきながらもぞもぞとうごめくカインに、クレアはぎゅっと眉を寄せた。
いやな感触が、唇によみがえる。
押し倒されたこととか、絞められた首よりもよっぽど、無理矢理合わされた唇が尾を引いていた。どれだけ擦ったところで、あれはなかったことにならない。
それが余計に腹立たしい。
「……もう一発くらい叩いておけばよかったかしら」
「そういえば殿下の頬が腫れているようですが。彼があんなに興奮していたのは、それが原因ですか」
「興奮とか言わないでちょうだい」
この場での言葉選びとしては最悪である。
ますます強く口を拭ったクレアに、ラズウェルが首を傾げた。その動作に合わせて、顔の横で切りそろえられたサイドの髪がかたむいて、胸元に流した結い髪がばらばらと流れる。
彼があまりにも熱心に見つめてくるので、つい手を止めて、クレアはたじろいだ。
口を開けばクレアの神経を逆なですることしか言わないが、静かに見つめられても困る。
「……なによ」
「口づけでもされましたか?」
「なっ」
「図星ですか」
返す言葉もない。クレアの肩がわなわなと震えた。改めて言われると、余計に胸のうちにどす黒いものが湧いてくる。いま目の前にカインを差しだされたら、往復びんたをかましているところだ。いや、それでは済まないかもしれない。
むしろ誰かに殴ってほしい。そうすれば記憶が飛んで、こんなに悶々とすることも、解消されない怒りを抱くこともなくなるだろう。
「ずいぶん不快な思いをされたようで。すごい顔をしていますよ、クレア」
「うるっさいわね! あ、あなたには関係ないでしょう!」
「これでも一応、婚約者なんですけどね」
「ペラ紙にちょっとサインしただけじゃない! わたくしが誰になにされたって、別に――ンっ」
口を塞がれた。
擦りすぎてヒリヒリしていたクレアの唇に、やわらかいものが押しあてられている。
目の前に、エメラルドグリーンの輝きがあった。
咄嗟に身を引こうとしたが、顎を掴まれている。
触れられた箇所がひどく熱い。その熱は、瞬く間に頬まで伝染した。
間近で交わされる吐息。
重なった唇がゆっくりと離れ――。
「……は、はぁあ!?」
クレアは絶叫した。
「さて、とりあえず出ましょうか。この場の処理はマーフィー公爵に丸投げしてしまいましょう。状況はどうあれ、娘を見殺しにしようとした……いえ、場合によっては殺人ほう助だと捉えられますかね。とにかく、責任は取っていただきましょう」
「ちょっと待ちなさいよ! な、な――」
「もちろん殿下もですよ。私の婚約者を手にかけようとしたんです。いいですね」
ラズウェルに吐いてぶつけようとした文句が、胃のなかに逆戻りした。クレアが慌てて振り向けば、いつの間にか起き上がったカインが、絨毯の上でへたり込んでいる。
親に見捨てられた子のような表情だった。
放心したように、クレアとラズウェルを見つめている。
――もしや、いまのを目撃されたのか。
二重の羞恥が、クレアの顔をさらに染めた。首まで熱い。鏡で見なくたってわかる。真っ赤になっている。
「……返事がないようですが、まぁいいでしょう。クレア、出ますよ」
ゆったりと扉の前に歩んだラズウェルが、杖でこんこんと扉を叩いた。鍵が回る音がして、施錠が解かれる。
クレアは慌てて、廊下に出たラズウェルを追いかけた。
カインのことなんて、三秒で頭から飛んだ。
「だから待ちなさいってば! わ、わたくしに言うことがあるでしょう! なによ、いまの!」
「は?」
「は? じゃないわ!」
「殿下よりはマシだったでしょう」
「それは――」
言い返そうとして、クレアは愕然とした。
嫌じゃ、なかった。
嫌ではなかったのだ。ラズウェルのキスが。
カインのときは間髪入れずに叩いたのに、ラズウェルにされたときは、そんなこと考えもしなかった。
触れた唇の感触とか、意外とかさついているのねとか、初めて間近で見た瞳の輝きとか、そんなことばかりに意識が向かってしまって。
「……なんて顔をするんです」
「黙ってちょうだい」
クレアは目元を手のひらで覆った。また別の意味で、涙がこみ上げてきたのである。
だから、こちらに背を向けて歩きだしたラズウェルの。
その耳がほんの少し赤く染まっていたことに、クレアは気づかなかった。




