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 部屋に入ってきたときとは打って変わって、リリアンはすっかり萎縮していた。

 ラズウェルが見たらまた誤解しそうな状態である。クレアはため息をついて、ホットミルクのカップを持ちあげた。


「なによ」


 ミルクのあたたかさが身に染みる。ほんの少しだけ気が緩んだ。

 だから、この次のリリアンの言葉でミルクを噴きださなかったのは、褒めてほしい。


「あの、カイン殿下のことで」


 クレアは慌ててカップを置いた。ちゃぽんと白い雫が跳ねる。


「……殿下の話を、わたくしに?」


 苛立ちと非難の色が混ざったのは仕方がないだろう。よりによって恋敵――だとクレアが一方的に思いこんでいただけだが――に好きだった人の話を持ちかけられるなんて。


「ちがうんです、その……殿下は、クレアさまが思っているような方ではないと、それを言いたくて」


 ――殿下はクレアさまが思っているような方ではない。


 聞き覚えのある言葉だった。いまのクレアがまだ経験していないこれからの半年……前世か、それともラズウェルと婚約する以前か。たしかにリリアンに言われたことがある。


「わたしが原因で、クレアさまと殿下の婚約のお話がなくなったのはわかっています。言い訳のように聞こえてしまうかもしれませんが、聞いてくださいますか?」


(これは……きっと)


 クレアがずっと考えている思いだせない部分に繋がる話だ。

 直感した。


「いいわ、聞いてあげる」


 リリアンの顔が、明らかにほっとした。ふん、と鼻を鳴らして、クレアは先を促す。


「カイン殿下は、わたしと初めて会ったとき、偽名を使ってらしたんです」

「……は?」

「ケイ、と名乗っていました。成り上がりの伯爵家のひとり息子で、お兄さま……王宮付き魔導士とは、仕事の関係で知り合いなのだと」

「ちょっと待ちなさい、偽名? どころか、身分も偽ってるじゃないの」


 そうなんです、となぜかリリアンが申し訳なさそうにうつむいた。


「なるほど……そういうこと」


 クレアが忘れていたのは、これだ。前世で崖から落とされる直前、ラズウェルから言われたこと。


 ――そういえば、リリアンと初めて出会ったときのカイン殿下ですが。


 あの続きは、「偽名を使っていらっしゃいましたよ」である。


 王太子という身を明かしてしまえば、婚約者がいることも知られてしまう。カインは意図的にクレアの存在を隠してリリアンに近づいたのである。


 もとから、カインの心にクレアはいなかった。リリアンに奪われたのではない。クレアは初めから、持ってすらいなかったのだ。リリアンがいなくても、遅かれ早かれ、クレアは捨てられていたことだろう。


「わたくしと殿下の婚約が解消されたとき、殿下はまだリリアンさんに身分を明かしてなかったのね?」


 リリアンは頷いた。

 それなら、カインがリリアンに振られたのも頷ける。


「殿下とクレアさまは、ずっと前から婚約されてましたから」

「あなたが断るのも当然ね」


 他人の仲を引き裂いてまで自分の恋を成就させたいなんて、リリアンは考えない。「すでに婚約を解消したあとだ」と言われたとしても、受け入れたりしないだろう。それはクレアにだって、充分わかる。


 クレアとの婚約をなかったことにしたのは、カインの早とちりだ。


「それに、わたしは……」


 リリアンが急に口ごもったので、クレアは眉をひそめた。


「なにをいまさら、ためらうことがあるのよ」

「その、殿下のことを……あの頃はケイさまでしたけれど、お慕いしていると申し上げたことは一度もなくて」

「好きじゃなかったの!?」

「はい……」


 色々な意味でショックだった。リリアンの話をまとめると、カインは「リリアンと両想いだと勝手に思いこんで婚約者を捨てた男」なのである。


(そんな愚かな人だったの、カイン殿下という方は……)


 そしてそんな男のために必死に頑張って、片想いをこじらせた揚げ句、見当違いの恨みでリリアンを目の敵にしたのがクレアである。

 クレアは、自分の心がかつてない速さで冷めていくのを感じた。


 馬鹿にも程がある。カインも、クレアも、どちらも馬鹿だ。


(いまからでも、リリアンと出会う前に戻れないかしら)


 ラズウェルとの婚約が成立したあとだと知ったときよりもよほど、過去に帰りたい気分だった。


「勘違いさせてしまったのはわたしですから、クレアさまにも申し訳なくて」

「なんであなたが負い目を感じる必要があるのよ」


 むしろ、クレアに怒ってもいい立場である。リリアンはただの被害者だ。


「悪かったわね。許さなくていいのよ」

「そんな! もちろん辛いときもありましたが……過ぎたことですし、いまこうして、クレアさまはわかってくださいましたから」

「あなた、本当に甘いわね」


 ラズウェルが溺愛……もとい、過保護になるのもわかる気がした。リリアンはいつか、この甘さで身を滅ぼしそうだ。ラズウェルがいなければ、おそらくクレアの手で命を落としていただろう。


 それこそ、今夜決行される暗殺の計画によって。


(いけない、おしゃべりに夢中になってる場合じゃないわ)


 すでに日付が変わろうかという時刻である。すでにことが起こっていてもおかしくないが、生憎と、部屋にも外にも変化はなかった。


(依頼主が同じ部屋にいるからって諦めてくれたなら、それはそれでありがたいのだけれど)


 ラズウェルにバレないように暗殺の計画を止める。大成功である。

 時計を見つめるクレアの視線を追ったのか、リリアンが「あら」と声を上げた。


「ごめんなさい、こんな時間まで。そろそろお休みしないとですね」


 腰を浮かせたところを、クレアは慌てて止めた。


「待ちなさい」


 いま帰られては困る。本当に暗殺が中止になっているのだとしても、まだ判断するには早かった。


「聞きたいことがあるの」


 どうにかして話を引き伸ばさなければならない。クレアは頭をフル回転させる。クレアのこと、カインのこと、リリアンのこと――。


「ラズウェルさまは、カイン殿下が偽名を使ってたって、ご存じだったの?」


 思えば、そうだ。ラズウェルはその事実を、クレアを殺す直前に口にしていた。


 最初から知っていたのなら、それをクレアに告げて心を折るのが、リリアンを守る一番の方法だったはずだ。そうしなかったということはやはり、知らなかったのだろうか。


(でも、なにか違和感が)


「お兄さまは……」


 部屋の窓が粉々に砕け散ったのは、そのときだった。


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