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生き物のように輪を描いた白金の束が、青い光を反射してきらめいた。大きなリボンが肩の上で弾む。
かすむ視界でカインの肩越しに見えたのは、エメラルドグリーンの瞳。
「遅いので迎えに上がりましたよ、婚約者どの」
耳に心地いい声は、たしかにラズウェルのものだ。
抱えた杖も、白い外套も、目に馴染んだものだった。
呼吸困難に陥っていることも忘れて唖然としたクレアと対照的に、カインは驚いたように背後を振り仰いだ。
「な、ラズウェル!?」
ほんの少し、クレアの首を閉める手が緩む。
我に返ったクレアは、咳きこみながらも、膝を振り上げた。カインの気が逸れていたおかげで、その腹に綺麗な蹴りが入る。
低くうめいたカインが、顔を歪めた。今度こそ、クレアの細い首が解放される。
しかし、カインがクレアの上から退いたわけではなかった。
首絞めの代わりにと言わんばかりに、空中で握られた拳。クレアに避ける術はない。
「このっ……!」
それでも、ためらいもなく振り下ろされたそれが、クレアにあたることはなかった。
カインの姿が、突然クレアの視界から消えたのである。
目を丸くしたわずかな間に、ティーカップが割れてお茶をまき散らす音と、大きなものが落ちたような鈍い音が聞こえた。
目を向ければ、反対側のソファーの前、テーブルとの隙間に、カインが倒れている。
「殿下!?」
相手は仮にも一国の王太子だ。これはまずい。
叫んだクレアの上から、腕が伸びてきた。ラズウェルだ。彼はクレアの腰を抱き寄せるようにして立ちあがらせる。
そのまま腕のなかに閉じこめられても、クレアはなにも疑問を抱かなかった。
まだ脳に酸素がいきわたっていないのかもしれない。視界が不安定だ。
「安心してください。死んではいませんよ」
「そ、そういう問題じゃ……けほっ、ごほっ」
むせたクレアの背を、ラズウェルの大きな手のひらが撫でた。一回、二回とぬくもりが往復するたびに、呼吸が楽になる。
「落ち着きましたか」
「ええ……でも、なんでラズウェルさまがここに?」
「これですよ」
ラズウェルが引っ張りだしたのは、見覚えのある腕飾りだった。
彼が普段身につけているもの。お手製の追跡魔法がかけられている。いつぞやの外出時に、クレアがベティとお揃いでつけさせられたのは、いまだにはっきり覚えている。
「これ、追跡魔法のやつ……? っていうか、あなた、いまどこから取り出して」
「貴女のスカートのポケットです」
「いつの間に……」
「念のため、ですよ。一応、正攻法でマーフィー家に乗りこもうともしたんですが、門前払いをくらったもので」
それで、腕飾りのあとを追って転移したということだ。
しかし、クレアが驚いたのはそこではなかった。
「……わたくしのあとを追ってきたの? どうして」
クレアだけを連れていくと言っていた。追ったところで入れてもらえないのは、わかっていたはずだ。
「なぜ、って」
わずかに眉をひそめて、ラズウェルが指を伸ばした。クレアの頬に触れる。
濡れていた。
クレアはそこで初めて気づいた。視界がぼやけたままだったのは、クレアがずっと泣いていたからだ。さっきは呑みこんだはずの涙がすべり落ちて、雫を落とす。
――泣いてしまった。よりによって、ラズウェルの前で。
「ついてこいと言ったのは貴女でしょうに」
静かに泣き続けるクレアの顔を見て、ラズウェルは目を細めた。ぐ、と彼の指が頬を拭う。
「……ふ、泣き虫」
「あなたに言われたくないわよ!」
派手な音を立てて叩き落としてやった。
ついでに胸板を拳で殴って、腰に回した腕をほどかせる。
「リリアンに嫌われたってめそめそしてたじゃないの!」
「いつの話をしているんですか」
「ついこの間よ! あのときのラズウェルさま、本当に気持ち悪いったら」
一瞬前のしおらしい気持ちもどこへやら、である。クレアはハンカチを引っ張りだして、目元を乱暴に拭った。「腫れてしまいますよ」という忠告もきっぱり無視して、これでもかと力をこめる。
ぐちゃぐちゃになったハンカチをポケットに詰めこんで、クレアは乱れた髪を撫でつけた。まとめた髪がひどいことになっている。いっそ解いてしまえ、とクレアは髪紐を引っ張った。
ぱさり。ほどけた髪が背中に落ちる。
「でも、助かったわよ。あなたが来てくれなきゃ、わたくしはいまごろ死体だったわ」
「笑えない冗談ですね。死ぬなら私との婚約を破棄してからにしてもらえませんか」
「あなた、自分がわたくしを殺そうとしていたのは覚えていて?」
「そんなこともありましたね」
涼しい顔で答えたラズウェルに、思わずキィッ! と声を上げてしまった。
 




