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馬車を下りたクレアが真っ先に思ったのは、
(戻ってくることになるとは思わなかったわ)
である。
開いた門の奥に見える、恐ろしくまっすぐな石畳。シンメトリーに設計された庭。つる草の絡まるアーチ。屋敷の目前に居座る噴水。
マーフィー家本邸だった。
「まいりましょうか、お嬢様」
「ええ」
先導して歩き始めたトーマスに続いて、クレアも敷地に足を突っこんだ。
ラズウェルと婚約してから一度も実家に帰らなかった前世と合わせて、だいたい半年と二か月が経つ。クレアがマーフィー家に入るのも、アイスブルーの瞳にその屋敷を映すのも、実に久しぶりのことだった。
懐かしいとは思わない。
ラズウェルに帰宅を禁じられたときだって、実家に帰れない不安を感じたわけではなかった。ロジャース家に閉じこめられることに不満を抱いたのである。
覚えているようで覚えていない玄関扉をくぐり、ホールを抜け、薄暗い廊下を進んで、応接室まで案内された。
「失礼しますよ」
軽いノックとともに、トーマスが扉を開ける。
クレアは反射的に視線を床へと落とした。毛並みやわらかな赤い絨毯。
そういえばクレアが応接室に入ったのは、ラズウェルが婚約の話を持ってきたときが最初で最後だった。
咄嗟に浮かんだのがラズウェルのことなのは、応接室のなかにいたのが元婚約者だったからだろうか。
目を逸らしても、耳は声を拾い上げる。
「来てくれたか、クレア」
クレアは諦めて、顔を上げた。
待っていたのが父親じゃなかったことに、驚きもしなかった。応接室というあたりで予想はついていた。
間違いようがない。いままさに行方不明だと騒がれているカインだ。
かつては名を呼ばれるだけで震えるほどの喜びに満たされた相手だった。いまは不快でしかない。クレアが名前を呼んでも文句を言わないのは、いまやロジャース兄妹と、ベサニーと、ロジャース家の者たちだけだ。
ああ、そういえば、ラズウェルもいつの間にか、クレアの名を呼ぶようになっていた。
それに思いあたると、クレアの口調は自然ときつくなった。理由はわからない。ただ、カインに対する不快感が増したのはたしかだ。
「名前を呼ばないでくださいと、何度も申し上げています。お忘れですか、カイン殿下」
「つれないことを言うな。おまえも、以前のように気楽に呼んでくれていいんだ」
「カイン殿下」
クレアはあえて繰り返した。カインがわがままな子供を見るように、肩をすくめる。じわりと、クレアの内に苛立ちが宿った。
執務室には入らないまま、言葉を重ねる。
「騎士団があなたを探していましたわ。早く知らせてあげてはいかがかしら」
「黙って出てきたからな。悪いが、もう少し探し回ってもらうことにするさ。いまはまだ戻れない」
「どうしてかしら」
「決まっているだろう。おまえと話がしたいからだ……トーマスといったか、君、下がってくれ」
扉を開けてその場にとどまっていたトーマスが、静かに礼をした。わずかにクレアを気遣う視線を残して、応接室から離れる。
カインがふたたび口を開いたのは、トーマスの足音が完全に遠のいてからだ。
「こちらに来て座ったらどうだ。立ち話も疲れるだろ」
「結構ですわ。わたくしはここで」
「いいから入れ!」
脈絡もなく荒げられた声に、クレアはびくりと足を引いた。
カインが立ちあがっている。肩を上下させて、必死に自分をなだめているようだった。彼は首を振りながら、こちらへ歩いてくる。
「ああ、悪い。そんなつもりじゃないんだ。誤解しないでくれ、クレア。わかってくれるよな? おまえなら」
「わからないわよ。わかりたくもないわ」
踵を返して廊下を走ろうと思ったが、間に合わなかった。カインの手に、二の腕を捕らえられる。
彼の手のひらは、じっとりと汗をかいていた。服越しでもわかる。
踏ん張ってはみたが、カインとクレアでは力の差がありすぎた。
なす術もなく応接室に引きずりこまれ、背後で扉が閉まる。
鍵のかかる音がした。
助けはない。ラズウェルもベサニーも、もちろんリリアンも、クレアについてくることは許されなかった。
(そういえば、ラズウェルさまも、最初はわたくしを部屋に閉じこめようとしたわね)
ああ、まただ。ラズウェルのことばかり思いだしてしまう。一種の現実逃避なのだろうか。カインよりもラズウェルの方がマシだと。
そんなわけがない、どっちもどっちだ。
だって、ラズウェルはクレアを殺すし……しかし、その理由もいまでは消えた。やっぱり、カインよりもラズウェルの方がいいのかもしれない。
駄目だ。動揺と緊張で混乱している。
カインに触れられているのが良くない。自由な方の手でカインの手首を掴んで、力いっぱい引いた。
「……レディに対してずいぶん乱暴なことをなさるのね」
「こうでもしないと、おまえは俺の話を聞いてくれないだろう」
部屋に入ればそれでいいのか、案外あっさり拘束を解かれる。
それが逆に不気味だった。
「まあ、座ってくれ」
「……仕方ないですわね」
毒を食らわば皿までともいう。
どうせ閉じこめられてしまったのなら、部屋のどこにいようがそう変わらないだろう。クレアは渋々足を進めて、ソファーに……ただし、カインが最初に座っていたソファーの向かいに、身を沈めた。
カインもまた、もとの場所に腰を落ち着ける。彼の前にはお茶が用意されているが、この様子ではクレアには出されないだろう。いや、ここまで来てもてなしを要求する気にもなれなかったが。
それよりも、話とやらをとっとと終わらせたい。
クレアは肩のあたりでたわんだ自身の髪をつまんで、くるくるともてあそんだ。視線はテーブルに落としたままだ。
「それで、なんの話ですの。早くわたくしを解放して、家に帰してくださる?」
「おまえの家は、ここじゃないか」
「かつてはね。無駄話はよろしくてよ」
「ああ、そうだな……その、おまえが」
カインが言葉を詰まらせる。どう言うべきか、選んでいるようにも聞こえた。どっちみち、クレアに彼の表情は見えない。
「おまえを、ロジャース家から救いに来たんだ」
しかし、それもほんの束の間。
クレアはうっかり、顔をはね上げてしまった。
普段は艶を保っているはずのカインのブロンドの髪が、いまは濁って見えた。その金の瞳に、暗い光が宿っている。
奇妙に歪んだ口角に、クレアの背筋が粟立った。




