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鏡のなかに、クレアの浮かない顔が映っていた。
「わたくしが婚約破棄したら、ベティはロジャース家に残るのかしら」
「は?」
クレアの髪を梳っていたベサニーの手が止まった。艶やかな黒髪が指からこぼれ落ちて、薄い寝間着をまとった背中に落ちる。
ぱさり。その音は、静かな室内でよく響いた。
「婚約破棄って、あの魔導士との?」
「それ以外になにがあるのよ」
「どうしたんだよ急に。もう殺される心配はないんだろ? 婚約破棄なんか、する必要がないんじゃねぇの?」
あのねぇ、とクレアはベサニーを振り返った。ベサニーの腕は、クレアの髪をすくいあげていた動作のままで固まっている。
「そもそも、ラズウェルさまが婚約を申し込んできたのが、わたくしを殺すためなのよ」
そんな婚約、続けられるわけがない。
いまはリリアンのこともある。新たな「クレアを殺す理由」を与えないうちに、さっさと去らなくてはいけないのだ。
クレアが力説しても……むしろ力説すればするほど、ベサニーの顔には訝しげな表情が刻まれていく。
「最近は、皇女サマとも魔導士ともうまくやってるじゃねぇか。俺はてっきり、あんたは魔導士とふたりで皇女サマを護るつもりなんだと思ってたが」
「誰があのシスコン野郎と!」
「怒るのそこかよ」
「当たり前じゃない!」
「あーあー、わかったわかった」
だん、と鏡台を拳で叩いてみせると、ベサニーは観念したように首を振った。
「前向けよ……ずっと前にも言ったが、俺の命を助けたのはあんただ。いますぐ死ぬか一緒に死ぬかってあんたに脅されたときに決めたことは変わんねぇ。あんたが魔導士から離れるっていうなら、俺はあんたについていくだけだ」
「そう、てっきりリリアンの傍につくんじゃないかと思ったのだけれど」
「皇女サマには魔導士がいる。十分だろ」
たしかに、味方としてラズウェル以上に絶対的で心強い相手はいないだろう。
「てか、王サマとの謁見でなにがあったんだよ。いい加減教えてくれねぇ?」
「……ああ、それね」
ベサニーの手がふたたびクレアの髪を解きはじめる。
「どこから聞きつけたのか、リリアンがいるって聞いて、カイン殿下が乗りこんできたのよ」
かつて婚約者を捨ててまで言い寄った情熱はどこへやら、手のひらを返してリリアンを罵るカインの姿を思いだす。
じわり、と滲んだ怒りに、クレアの顔は自然と歪んだ。
向き合った鏡に醜悪な己の顔が映って、短いため息をつく。
話をすべて聞いたベサニーが、今度は櫛を取り落とした。
こもった音を立てて絨毯の上に転がる櫛には見向きもせず、クレアを凝視してぽかんと口を開けている。
「……あのクソ野郎」
第一声はそれだった。
「か、仮にも一度は惚れた女だろ! んで、そんな汚ぇ暴言吐けるんだよ!?」
「わたくしが聞きたいわよ」
カインのことは本当によくわからない。舞踏会のときから、支離滅裂なことを言っていた。プライドが高い人間だとは以前から思っていたが、それがまさかこんなマイナス方向に働くとは思わなかった。
いつから変わってしまったのか。
問いかけても答える者はいない。しかしクレアも、探ろうと考えるまでは興味を持てなかった。
「で、皇女サマは大丈夫だったのか?」
「そうね……傷ついている、なんてことはなかったようだけれど」
いままで自分を好いていた相手から突然嫌われた、という受け取り方はしていなかった。自身との関係を邪推されたラズウェルの身を案ずるくらいだ。
(わたくしの嫌がらせに動じなかったのと同じ理由よね、きっと)
本気のリリアンの手にかかればカインなんて一瞬で消し炭だ。その上、リリアンは魔族の皇女。時と場合が揃えば――たとえばティザシオン皇国との戦争とか――カインをその手で亡き者にすることも許されてしまう。リリアンは、本能的にそれを理解している。
「さっすが皇女サマ。格が違うね。俺だったらその場で首をねじ切ってた」
機嫌をよくしたベサニーが、やっと落とした櫛を拾った。軽く拭って、ふたたびクレアの髪をすくい上げる。
「あのクソ野郎が王太子じゃなくなるってんなら、ざまぁみやがれだな。あんなのに王サマになられちゃたまったもんじゃねぇや……となると、次ってやっぱりあのすかした第二王子か?」
「ええ、アルバート殿下ね。陛下から直接お言葉をいただいたみたいだし、間違いないわ」
「そいつは大丈夫なのかよ」
「どうかしら」
アルバートに告げたのは、リリアンとラズウェルの血は繋がっていない、その一点だけだ。そこだけ見れば、カインのときのような事態にはならないといえる。
それに、アルバートは――。
「リリアンとの仲は良好みたいよ。わたくしもさっき初めて知ったのだけれど、舞踏会のあとから手紙のやり取りをしているらしくて」
クレアから見ても、舞踏会の晩のふたりの雰囲気はとてもいいものだった。少なくとも、カインとリリアンの組み合わせよりは断然マシだ。
「魔導士はそこまで予想して――た、わけがねぇよな」
「王族に対抗できるのは王族だけ、っていう苦肉の策でしょう。仮に、リリアンとアルバート殿下が恋仲になったりしたら、発狂するわよ」
ラズウェルが自分で蒔いた種だ。まさか引き離すわけにもいかず、ただ黙ってどす黒いオーラをまき散らし、場合によってはクレアに八つ当たりをしてくる様子が易々と想像できた。
……冗談じゃない。
「この話はやめよ、やめ。ろくなことにならない気がしてきたわ」
「違いねぇ。明日も朝早いんだろ? とっとと寝ないとな」
明日は、クレアのエメラルドのブローチを取りに、例の老婆のもとへ行くことになっている。王都にあまり長く滞在できないからと、最優先で直してもらえることになったのだ。リリアンのコミュニケーション能力と交渉の賜物である。
代わりに行き先は、店があるいつもの露店街ではなく、老婆の家。
クレアたちがそこまで足を運んで、受け取りに行く手筈となっていた。




