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「いま……いま、カイン殿下になにかしたら……リリアンが」


 考えろ。考えろ考えろ考えろ。

 ラズウェルが杖を引いた。あと少しだ。次の一言で。


「……リリアンの立場が、危うくなるわ」


 効果は抜群だった。


 突然毒が抜けたように、宙を舞っていたラズウェルの髪が、彼の背中に落ちる。魔力の反発でばちばちと鳴っていた火花も、ひとつふたつと消え、やがて完全に落ち着いた。

 ラズウェルはクレアから視線を外し、その奥……カインも通りすぎて、廊下を見た。ラズウェルの目になにが映ったのかはわからない。

 しかしおそらく、廊下に立ち尽くす騎士や使用人だろう。


 ラズウェルは最後に、己の背を振り返った。


「……リリアン、もう大丈夫です。少々頭に血がのぼってしまいました」


 必死にしがみついているリリアンに、微笑みかける。

 後ろに突っ張っていたラズウェルの外套が緩んだ。


「あんなことされたって、わたしは嬉しくないです」

「すみません」


 もう大丈夫、その言葉どおり、ラズウェルは冷静さを取り戻したようだ。


 クレアはほっと胸をなでおろした。

 からだじゅうに響く心臓の音は、しばらく落ち着きそうにないが。


(カイン殿下の巻き添えで、今度こそ死ぬかと……)


 ラズウェルに殺される理由候補のなかでも、絶対に避けたい筆頭だ。

 カインを庇って死ぬ。これほど不名誉な死があるものか。


「陛下の御前で、大変失礼なことを」


 ラズウェルは、国王に向かって深々と頭を下げる。

 それで我に返ったらしい。彫像のように動かなかった国王は、静かに首を振った。


「気にするな。おまえの怒りももっともだ。……カイン」


 その場の耳目が、床にひっくり返ったカインに集中した。


「私のあとを継いで国を導くには、おまえはあまりにも足りなすぎる」


 皆が息を呑んだ。


 これは、事実上の……王太子の座のはく奪だった。

 ラズウェルの剣幕にすっかり仰天していたカインは、見開いた瞳に絶望を乗せる。


「ど、どうしてですか父上。俺はなにも間違っていない!」


 膝をついて、ふらつきながら立ちあがった。頭上に輝くシャンデリアが、なめらかな石の床に、カインの姿をぼんやりと反射させる。

 

 謁見の間が明るいのにも関わらず、床に映ったカインは影のように暗く、重く、ねばつくように彼の足に絡みついているようだった。

 もっとも、カインを侮蔑の目で見つめるクレアの心が、そんな幻覚を見せただけなのかもしれない。


 カインはすがるような、震えた声音で、言葉を吐きだした。


「そいつが怒ったということは、図星をつかれたということでしょう! どうして俺が」

「黙れ」


 有無を言わせぬ声音だった。

 国王が腰を上げ、玉座から離れる。


 廊下にわだかまっていた騎士たちが慌ててクレアたちの傍を駆け抜けた。国王を護るように、彼の周りを囲む。


 床に反射したクレアたちの影のなかに、国王と騎士たちが加わった。かつん、かつん、と足音を響かせた国王は、ラズウェルの横で足を止める。


「愚息が重ね重ね、失礼をした。これがこんな風に育ってしまったのは、私の責任もある。本当にすまない」


 陛下が謝ることはない、とラズウェルが謙遜することはなかった。顎を引いて、薄い唇を開く。


「王位継承権からはく奪することをおすすめします」


 ラズウェルが冷ややかに告げると、国王も黙って頷いた。そっと撫でつけられた髭が、わずかに震える。


 顔を上げて廊下を見据えた国王が、声を張り上げた。内臓に直接命令するような、威厳に満ちた重い声である。


「皆の者。今日ここで見たものは決して他言せぬように。安心しろ。不安に思うことなどなにもない。私を信じるのだ」


 間髪いれずに、は、と応える声が揃った。

 目を細めた国王は、ふたたびラズウェルに……いや、リリアンやクレアにも目を配った。


「シャロン皇女のことは、もはや個人間で済ますことのできる問題ではない。私もできる限りのことをしよう」


 力強い言葉を最後に、国王は謁見の間を出ていった。

 カインには一瞥もくれないまま、「連れていけ」とだけ残して。


 また別の騎士たちが、カインの両脇を抱えて持ち上げた。そのまま引きずっていこうとするも、突然、カインが足に力をこめて抵抗する。


「殿下、お部屋に戻りましょう」

「……クレア、おまえは」


 騎士たちの声にも耳を貸さず、クレアを見たその表情。舞踏会のときにも、見た記憶がある顔だ。


「おまえだけは俺を」

「馴れ馴れしく呼ばないでくださいと以前も申し上げたはずですわ、殿下」


 だからクレアは、その台詞を遮って、カインを突き放した。


「私たちも帰りましょうか」


 今度こそおとなしく連れていかれたカインを見送り、ラズウェルが嘆息した。廊下にはもう誰もいない。国王の一声で散ったらしい。


「いやなものを耳に入れてしまいましたね」


 ラズウェルがリリアンの頭に手を置いた。烏の濡れ羽のような髪をかき混ぜる。あっという間に色が抜け落ちて、リリアンの髪は、ラズウェルと同じ白金色になった。


 そのひと房をそっとつまんで、リリアンが呟く。


「……血が繋がっていないってわかったら、わたしとお兄さまは、あんな風に思われてしまうんですか」


 ラズウェルが彼女の頭から手を離した。彼は答えない。


(呆れた)


 気にするのはそっちか、と思った。


「誰でも一回は考えるでしょうよ、そんなこと」


 リリアンの疑問は、あまりにもいまさらすぎる。


 明らかに異常すぎるラズウェルの妹愛に、邪推する者がいままで一度も現れなかったなんて、そんなはずがない。あれだけ溺愛していれば、その間に兄妹以上の関係があるのではないか、と疑うのは当たり前のことだ。


「ラズウェルさまがずっと黙らせてたのよ、周りを」


 流行りもしなかったくだらない噂でクレアを殺そうとしたラズウェルなら、下卑た考えを粛清するのもわけないだろう。できるとわかれば、シスコン野郎は絶対にやる。

 この話に、リリアンが傷つかないわけがないからだ。


「……クレア」


 低い声で咎めたラズウェルに、クレアはひらりと手を振った。


「勘違いしないでちょうだい、わたくしがそんなこと考えるわけがないでしょう」


 ラズウェルとリリアンが恋愛関係にあるなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。そんなもの、傍で見ていたクレアが一番わかっている。


 ラズウェルとリリアンの間にあるのはたしかな愛で、絆だ。


 恋愛でも性愛でもない。本当にそんな色めいた関係なら、一緒に暮らしていたクレアがその片鱗でも感じないことがおかしい。リリアンの部屋にも、ラズウェルの部屋にも、クレアは何度も足を踏み入れている。ふたりの部屋から、互いの気配は感じられなかった。


 彼らの愛は、家族の間に生じるそれの延長線上にあるものだ。


「疑われることはあるかもしれないけれど、別に、わたくしはふたりが兄妹以外のなにものかなんて、考えたことはないわよ」


 ラズウェルが兄で、リリアンが妹。

 前世もいまも、クレアがふたりに見出す関係に変わりはなかった。


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