39
ラズウェルが、軽々と宙を舞って床に落ちた。
青い宝石の杖は、濁った色で廊下に転がっている。
(わざと手放したわね)
でなければ、ラズウェルがこんなに一方的にやられるわけがない。
彼が緩慢な動きで身を起こすと、すかさずリリアンが胸倉を掴んで引き上げる。
「そんなに後悔してるなら、どうして言ってくれなかったの! わたし、いままで自分がなにかも知らなかったのに! 十七年も! このままずっと黙ってるつもりだったの!?」
されるがままのラズウェルは、悲痛な表情で首を振った。その頬に、いくつも赤い線が走っている。
「リリアン、私は」
「わたしはリリアンじゃない! シャロンよ! リリアンはわたしと入れ替えられたあなたの本物の妹の名前だわ!」
リリアンがぐっと歯を食いしばった。
振り乱した黒髪は、ラズウェルの白金の髪とは似ても似つかない。
「わたし、なにもわかってなかった……お父さまとお母さまが別邸を訪ねてきてくれないのは、わたしが実の娘じゃなくて……魔族で……本物のリリアンを失うことになった元凶で……それなのに」
クレアは咄嗟にベティを見た。
「ちょっとベティ、まさか」
「全部話したよ。俺が先にバラそうが、魔導士があとから話そうが、結果は変わんねぇ」
クレアは舌打ちした。
(ベティの言い分は間違っていないわ、けれど……)
いや、と首を振る。やはりベサニーが正しい。ラズウェルは自分の口から説明することなんてできなかっただろう。余計にこじれるのが想像できた。
リリアンが引きこもった原因はこれだ。
舞踏会の帰り、馬車での様子を見れば、クレアにもわかる。
なにも知らないリリアンは、ラズウェルにはもちろん、両親にも無邪気に懐いていた。彼らが自分にどんな感情を抱いているのかわからずに。
ロジャース公爵夫妻は、意図的にリリアンを避けていた。
では、リリアンを妹だと言って大事にするラズウェルは。
自分の正体と、ロジャース家で育つことになった経緯を知ったリリアンは、彼をどう思っただろう。
「お兄さまがわたしを大切にしてくださったのは……わたしを、リリアンの代わりにしていたからだわ……」
リリアンの声は震えていた。
いつの間にか吹き荒れていた風がおさまって、静かになっている。
息が詰まるほどの沈黙。耳鳴りがした。
(……当然だわ、わたくしだって同じことを考えた)
ラズウェルの両親もそうだったが、当事者なら簡単にたどり着く考えだ。いや、誰だって思うだろう。傍から見れば、やっぱりラズウェルは、どこにいるかもわからない本物の妹の代わりに、魔族の皇女を妹として可愛がっている男だ。
クレアに言われたときは我を忘れて怒りを爆発させた。
しかし、なにより大事にしていたリリアンから、それを言われてしまった彼は。
「……えっ」
リリアンが目を見開いた。
ラズウェルの襟を掴んだリリアンの手の甲に、雫が落ちる。
ラズウェルが泣いていた。
そのエメラルドグリーン瞳からあふれる涙はとめどなく、なめらかな頬をすべって顎を伝い、次々と落ちていく。
クレアの目が、ラズウェルに釘付けになった。
「なんて顔してんだよ」とベサニーにつっこまれたが、ほとんど耳に入っていない。
リリアンも、思わずといった様子で手を離す。
突然解放されたラズウェルは、その大きな手のひらで目元を覆った。
「どう……伝えればいいか、わからなかったんです」
小さな声だった。
「どうあっても傷つけてしまう。リリアンに……あなたに、嫌われるのが怖くて。先延ばしにしているうちに、こんなことになってしまった」
ごめんなさい、といっそうか細く呟いた。
「十七年前、魔族に連れ去られたリリアンのことは忘れていません。忘れられるはずがない。でも、あの子とあなたは違う」
血が繋がっているのは、ロジャース公爵夫妻の実子であるリリアン・ロジャースだ。
でも、ラズウェルが十七年をともに過ごしたのは、いま彼の目の前にいるリリアンである。
「私が大事に想っているのは、魔族の皇女で、私の妹の、リリアンです」
「信じてくれとしか言えません。そんな簡単に信じてもらえないのもわかっています。私はあまりにも長く、あなたに隠し事をしすぎた。それでも、私は……私があなたを、十七年顔も見ていないあの子の代わりにしたことは、一度もない」
「私の顔を見たくないというなら、どこか遠くの地で不自由なく暮らせるようにします。祖国に帰りたいと言うなら、私がなんとかしてみせましょう」
ラズウェルの頬に、涙のあとが残っていた。
しかし、手を降ろして目元をあらわにした彼は、もう泣いていなかった。
迷いもない。動揺もない。揺らぐことなく、まっすぐにリリアンを見上げる。
「それでも、できれば、受け入れてくれるというのなら……兄妹として、ここからやり直してくれませんか。もう隠し事はしない。人間の兄と、魔族の妹として」
――今度は、リリアンが泣く番だった。
ぱっちりした目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。
「……お、お兄さまの、ばか!」
「はい」
「絶対に、許さないんだか、ら」
「はい」
「う、うぅ、もぉー!」
顔をぐしゃぐしゃにしたリリアンが、どかっとラズウェルに飛びかかった。
鈍い音が響く。
「あだっ」
押し倒されたラズウェルが後頭部をぶつけたようである。
「お兄さまのばか! あほ! おたんこなす!」
「はい、ごめんなさい」
そっとリリアンを抱き返したラズウェルの頬が、緩んでいる。嬉しそうだった。仰向けになっているので、クレアからもよく見える。
「解決した……ってことか?」
子供のように、ラズウェルにしがみついたままぎゃんぎゃん泣くリリアンを見て、ベサニーが息を吐く。
「まったく、手のかかる兄妹だわ……」
それにあのシスコン、とクレアは唸った。
ラズウェルの泣き顔が、脳裏に染みついて剥がれない。
「夢に出そう……」
クレアは腕をベッドの上に投げ出して、脱力した。




