32
「ラズウェルお兄さま」
リリアンの両手が、きつく拳を握っていた。
「わたしは魔族なんですか?」
ラズウェルは答えなかった。
「わたしは、魔族の……ティザシオン皇国の、皇女なんですか?」
ラズウェルが、リリアンに向けた手を下ろす。代わりに、杖を握る指に力がこもった。
「お兄さまはぜんぶ知っていたんですか? お兄さまと……お兄さまと、わたしは」
「兄妹です」
彼ははっきりと言い切った。そこに迷いはない。
「血は……繋がっていないかもしれませんが。私は、あなたの、リリアンの兄です。家族です。それは絶対に」
「嘘よ!」
リリアンが絶叫した。
ラズウェルも、クレアも、ベサニーまでもがびくりと肩を震わせる。
「どうして黙ってたんですか!? ロジャース家の娘どころか、人間ですらなかったのに! 嘘つき!」
「嘘じゃない!」
ラズウェルがリリアンの肩を掴んだ。
ばしん、と派手な音がして、その手が叩き落とされる。
リリアンの目には、涙が浮かんでいた。ワインレッドの瞳に映るものは、悲しみとも、怒りともつかない。混乱しているようだった。
「触らないで。あなたなんか、兄でもなんでもないわ!」
ラズウェルは、はっきりと傷ついた顔をした。
見ていられない、とはこのことだ。流麗な眉を歪めたその表情は、いまにも泣きだしそうだった。
彼のこんな顔なんて、見たくなかった。
クレアはたまらず、ベサニーをつつく。
顎でリリアンを示すと、それだけで通じたようだ。
「おら、とりあえず落ち着け。リリアン……それとも、シャロンか? どっちがいい?」
ベサニーがリリアンの腕を取った。つられてリリアンは、素直に立ちあがる。
リリアンが一番信頼していたのはラズウェルだ。手ひどい裏切りに遭った気分だろう。クレアはどうかわからない。
しかしクレアは、ラズウェルと同じ人間だ。
(ここはベティに任せた方がいい)
同じように正体を隠して人間の傍に侍っていたベサニーは、この場で唯一、いまのリリアンが心を開く可能性がある相手だ。
ベサニーと目が合ったクレアは、こくりと頷き返した。
「おい、魔導士。家に連れて帰るぞ。いいな?」
この場合の家というのは、王都の本邸ではない。普段生活をしている別邸の方だ。
ラズウェルが黙って首を縦に振った。
それを合図に、ベサニーが姿を消す。リリアンと一緒にだ。
その場に残された生きものは、クレアとラズウェル……それから、おそらく横転した馬車のなかで息をひそめているであろうロジャース公爵夫妻だけだった。
通りの向こうで明かりがちらちらとうごめいていた。大勢の足音も聞こえる。
騒ぎを聞きつけた騎士団が駆けつけてきているのだろう。
(このままじゃ駄目だわ……ああもう、しゃべれないのがもどかしい)
クレアは芋虫のようにもぞもぞと動いた。殴られたときに下敷きになった右腕が動かない。痛みもない。ただ、痺れたような感覚があった。
仕方がないので口元を押さえていた手を離すと、ぼたぼたと血が落ちる。
動かせる片腕だけを使って、クレアはどうにか身を起こした。そして血まみれの手のひらで、目を伏せたまま動かないラズウェルを叩く。
緩慢な動きで顔を上げたラズウェルに、クレアは頬が腫れ、片目が潰れ、歯が抜け、血にまみれてぐっちゃぐちゃの顔を見せつけた。屈辱である。
口元を指さすと、ラズウェルはようやく理解したらしい。
「動かないで」
そっと頬に手のひらが添えられた。手袋がないので体温がそのまま伝わる。
ラズウェルの手は、ひどく冷えていた。
「……とんだ恥をかいたわ。いまのわたくしの顔、二度と思いださないでちょうだい」
痛みも腫れも綺麗に引いた。クレアは悪態をつく。ラズウェルの反応がない。手も頬に添えられたままだ。
「口を開けてください」
今度は顎を掴まれた。ラズウェルが杖を置いて、血だまりに浮いたクレアの歯を拾う。
クレアの顔は、ヘロデに殴りつけられる前の状態に戻った。
「ほかには?」
「腕が動かないわ」
ラズウェルは、クレアの右手を取った。撫でるように、手のひらを肩の上まで滑らせる。
じんとした痺れがなくなった。試しに手を閉じたり開いたりしてみる。問題ない。
「大丈夫そうですね」
ええ、とクレアが答える前に、口元にハンカチが当てられた。
ラズウェルが黙ってクレアの血を拭う。
呆けたクレアは、しばらくされるがままになってしまった。
ラズウェルがクレアに優しい。いままでにないほど甲斐甲斐しく世話を焼いている。
(いえ、魔物にやられたときもつきっきりで看病をしてくれ……じゃないわ、調子が狂うわね!)
こんなのラズウェルじゃない。
クレアは治ったばかりの右手で、ラズウェルの手首を思いきり掴んだ。
「それくらい自分でやるわよ!」
「そうですか?」
「そうですか、じゃないわ! 本当に……!」
言葉が出ない。クレアは彼の手からハンカチを奪ってやった。
ばたばたと走る足音がすぐ傍にきたのはそのときだ。




