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リリアンの白金の髪が、とろりと溶けだした。
毛先の方から、まるで宵闇へと流れだしたように、色が落ちていく。
「もはや隠す必要もありません。髪を染めるなんて品のないことはしなくていい」
「あの、わたし……」
リリアンが戸惑っても、抜ける色は止まらない。
陽の光のなかで輝く色から、より暗く、深く。街灯が落とす影に沈むように。路地裏の闇に吸いこまれるように。
ラズウェルと揃いの、白金の髪は跡形もなくなってしまった。
「くろ、かみ」
クレアは思わず呟いた。
リリアンの黒い髪は、夜の街にしっとりと馴染んでいた。
「お姉さま、いったい」
すがるようにこちらを見られても、クレアにはわからない。
ただ、リリアンの瞳はワインレッド――赤だ。
クレアは口を開いたまま固まった。その一言を発するのは憚られた。クレアでさえ、言う勇気はなかった。
(まさか、リリアンが)
言ってしまえば、なにかが崩壊する。
「ずっとお探ししておりました」
跪いた魔族の男は、リリアンに手を差しだした。
「シャロン皇女殿下。祖国に貴女さまの脅威となるものはなくなりました。不肖このヘロデが、ティザシオン皇国お供させていただきます」
リリアンは動かない。ラズウェルがクレアたちに気づいたのか、ベサニーの名を叫ぶのが聞こえた。
(そうだわ、ベティが言って……)
ベサニーの組織は、権力争いで消されそうになって外の国へ逃げた皇女を探して、各地を転々としていた。つい先日、聞いた話だ。
まさかそれが、リリアンのことだというのか。
「殿下、あまり時間がありません。お早く」
魔族の男――ヘロデが、リリアンの指先をすくおうとする。
クレアは思わずリリアンの腕を引いた。
「だめよ」
なにが駄目なのかはクレアにもわからない。とにかく、ここでリリアンを行かせてはいけない。
ヘロデの目が、はじめてクレアを見た。
ベサニーの話が本当なら。クレアは息を吸う。
「十七年も放置していたくせに、いまさら突然現れて連れていくなんて、そんな勝手は許さないわ」
視界が反転した。
石畳が見えて、咄嗟に腕で庇う。真っ先に地面に叩きつけられた腕が、いやな音をたてた。
「クレアお姉さま!? なにをするんですか!」
殴られたのだとクレアが気づいたのは、血を吐いてからだ。白いかたまりが混ざっている。
クレアの奥歯だった。
頬が燃えるように熱い。左目が潰れてほとんど見えなかった。
「ニンゲンごときに我らのなにがわかる」
「……かっ」
わかってたまるもんですか、と言い返せたらどんなにいいことか。生憎、クレアはもうまともに話せなかった。
「お姉さま、大丈夫ですか!」
屈もうとしたリリアンのからだが止まる。ヘロデがその腕を掴んでいた。
「そのような者など気にすることはありません」
「離してください! わたしはあなたたちなんか知りません! わたしは、わたしは」
リリアンが必死に腕を振っているようだが、ヘロデはびくともしない。
そのうしろを、ずたずたに裂けたローブをまとった魔族が吹っ飛んでいった。石畳の上で何度も跳ねたあと、ぴくりとも動かなくなる。
「ヘロデ様! お早く――ぐぁっ」
ヘロデに声をかけただれかが、そのあとを追うように地面を転がった。断末魔の悲鳴。半身が抉れるように消し飛んでいた。
クレアは歪んでぼやけた視界のなか、青い輝きがこちらに向けられているのを見た。
ラズウェルが石畳を蹴り、白金の長髪とマントが翻る。
とにかくリリアンとヘロデを引き離さねばと思ったのか、杖を振る間も惜しんで、その膝をヘロデの横顔に叩きこんだ。
ヘロデが舌打ちをして、リリアンから手を離す。
蹴りは避けられたが、距離をとらせることには成功した。ラズウェルがヘロデの前に立ちふさがる。
「お姉さま!」
リリアンがクレアに手を伸ばして――やめた。傍に屈んだまま、ただ倒れ伏したクレアを見る。
「……わたし」
もうひとつ、傍に立つ者の気配があった。
「悪い、足止めくって間に合わなかった」
ベサニーだ。クレアは黙ってその脛のあたりを叩いた。ベサニーがラズウェルに呼ばれたのはずいぶん前だ。あれがクレアとリリアンを助けろという呼びかけなら、本当に遅すぎる。
「にしても、とうとうバレたか」
リリアンを見たベサニーが嘆息する。クレアとリリアンは、揃って彼女を見上げた。
「ベティさん、知っていたんですか……? その、わたしが」
「魔族だって? ああ、知ってたさ。というか、魔族なら同胞はひと目でわかる」
ベサニーがさっと手を振って明かりをつけた。
魔法を解いたようで、照らされたその髪は漆黒だ。リリアンが息を呑んだ。
「あんただけじゃねぇよ、リリアン」
「クレアお姉さま」
ベサニーを睨みながら、クレアは首を振った。知らない。本当に知らなかった。
(こいつ、わたくしに黙ってたのね)
「でも、じゃあ、お兄さまは……?」
リリアンの疑問はもっともだ。クレアだって考えた。
(ラズウェルさまはリリアンのこと)
知らないわけがないだろう。ずっとリリアンの傍にいたのは彼だ。それに、リリアンの白金だった髪。色を変えて隠していたのはラズウェルに違いない。
「魔導士、皇女殿下をお守りしていたことは褒めてやろう。しかし、その役目はここまでだ」
「貴方がたのためではありませんよ。自惚れないでいただきたい」
クレアやリリアンの位置からは、ラズウェルの表情が見えない。
しかしその声はひどく硬質だった。
魔族に襲われた、リリアンが魔族の皇女だった、それがすべて暴かれた……この状況にしては、あまりにも静かすぎる。
いや、彼の声だけじゃない。その場が静まり返っている。
(まさか、全員――)
「これだけの騒ぎです。間もなく騎士団も駆けつけるでしょう。貴方ひとりでどうにかできるとは思わないことです」
ラズウェルは、襲ってきた魔族の全員を叩きのめしてしまったようだった。ヘロデ以外に立っている者が、誰ひとりとしていない。
「お引き取りを」
ラズウェルに杖を突きつけられ、ヘロデはようやく諦めたようだった。苦々しい顔を浮かべて、ラズウェルを睨み――リリアンを見る。
「近いうちにふたたび、お迎えに上がります」
ヘロデは石畳を蹴って飛びあがった。
建物の屋根に着地し、そのまま闇に溶けて姿を消す。
「ベティ」
「ああ、もういねぇ。大丈夫だ」
ほう、とその場の空気が緩んだ。窮地は脱したということだ。
「マーフィー嬢……は無事ではないのでともかく。リリアン、怪我はありませんか」
口元を押さえて、クレアは今度はラズウェルを睨んだ。それを一瞥すらせずに、振り返ったラズウェルが膝を折る。
彼がリリアンに向けて伸ばした指は、避けられた。




