30
「ラズウェルのことはとても心配していたから、あの子があなたと婚約すると言いだしたときは本当に驚いたのよ」
おっとりと微笑むのは、クレアの向かいに座ったロジャース公爵夫人だ。ラズウェルとそっくりな目元をしている。彼とは違って、夫人は本当に優しそうな面持ちである。
公爵夫人の隣で、厳めしい顔の眉間にさらにシワを寄せているのがロジャース公爵その人だ。こちらはラズウェルにもリリアンにもあまり似ていない。強いていうならば、その体格の良さがラズウェルに表れているだろうか。
「しかしそれもリリアンのことがあったからだろう。あれは昔からリリアンのことばかりだからな」
「それでも、ラズウェルがほかの異性に興味を持ったことには間違いないわ」
「どうだか。どうせそれにも理由があるのだろう」
興味というか殺意……とクレアは心のなかで反論した。
それにしても、夫人はともかく、公爵は本当に呆れた様子である。親に嘆息されるほどのシスコンとは、ラズウェルも筋金入りだ。
(でも、リリアンとふたりきりで暮らしていたのよね)
となると、リリアンの実質の保護者はラズウェルだろう。彼はいささか度が過ぎているが、多少の過保護は仕方がない気がする。いや、あのシスコン野郎を擁護する気はさらさらないが。
「最初はわたしとクレアお姉さまの些細な諍いが原因だったかもしれませんが、最近のお兄さまとお姉さまは、少しずつ仲良くなってきてるんですよ!」
「些細な?」
とんでもない単語が聞こえた気がしてリリアンを見たが、彼女はすでに自分の世界に浸りはじめていた。
「舞踏会でだって……」
祈るように両手を組んで数時間前に思いを馳せはじめたリリアンに、クレアはげんなりした。聞く気にもなれない。窓の外に視線を逃がす。
ちかっとなにかが光った。
(なにか見え――)
轟音とともに馬車が跳ねた。
「きゃあっ!?」
リリアンがクレアの背に突っこんでくる。馬車の壁とリリアンに挟まれた。視界いっぱいに、窓に映った石畳が見える。
馬車が横倒しになった。
地面が馬車の側面を削る。馬のいななきが聞こえた。
馬車はしばらく地面をすべって、止まった。
「おまえたち、大丈夫か」
夫人を抱えたロジャース公爵が、真っ先に口を開いた。クレアはからだを回して上を向きながら、何度か頷く。声が出せなかった。
「だ、だいじょうぶです」
クレアの胸に顔を埋めるかたちになったリリアンが呟いた。
「舌を噛みました……」
「それで済んでよかったわね」
クレアは慌ててリリアンを引き剥がした。
心臓の音がうるさい。全身の血管が脈打っているのがわかる。
(よ、余計なことを思いだしたわ……)
ラズウェルとは平気で対峙することができるようになったが、さすがに馬車がひっくり返ると、どうしてもあの日の映像が脳裏によみがえる。
大丈夫、落ちてない。ひっくり返っただけだ。
繰り返し自分に言い聞かせて、クレアはようやく心臓をなだめた。
外が騒がしい。
怒号が飛び交っていた。悲鳴も少々。誰かが交戦している。
「姫さまが乗ってるんだ! あまり乱暴には――」
(姫さま?)
クレアが瞬いた。
手のひらが石畳を触っていた。腹の上にはリリアンを乗せたままだ。しかし、その向こうに夜空が見える。
「お、お姉さま、わたしたち」
馬車の外に、転移させられていた。うしろを見れば、横倒しになったクレアたちの馬車が見える。なかにはまだ、ロジャース公爵夫妻がいるはずだ。
前方では光がさく裂していた。うちのひとつ、青い光はラズウェルのものだ。
「降りなさい、立って!」
クレアとリリアンは慌てて立ちあがった。
すぐにこの場を離れるべきか、それとも。
クレアが判断する前に、ふたりの前に誰かが降り立った。見覚えのあるローブ姿。リリアンの前に跪いたその誰かは、自らフードを取り去って顔を月光の下に表した。
「シャロン・サラ・ティザシオン皇女殿下。お迎えにあがりました」
男だった。艶のある黒髪が、背中に流れる。
リリアンを見つめるその瞳は燃えるような赤。
魔族である。




