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この日のクレアは運が悪かった。
荒々しく芝生を踏んで玄関へ向かったところで、バスケットを抱えたリリアンと出くわしたのである。出かけるところだったらしい。
「あら、クレアさま」
ふたつ結びにした白金の髪が、肩の上でふわふわと揺れている。ラズウェルと同じ色だった。クレアの真っ黒な髪とは違う。陽の光でこそ映える色だ。かつて何度、引きちぎってやりたいと思ったかわからない。
「お兄さまが、お話があると言っていましたが」
「そんなもの、とっくに終わったわ」
ちょこちょこと歩み寄ってきたリリアンは、あれ? と首を傾げた。
「でも、先ほどお庭に出ていかれたばかりでは」
「うるさいわね」
リリアンのふたつ結びを掴んで、左右に引っ張ってやった。ほんのりと赤みの乗ったリリアンの唇から、情けなくも可愛らしい悲鳴が上がる。
「な、なにをなさるんですか!」
その肩がこわばったところで、クレアはぱっと手を離した。
(いままでのわたくしなら、それこそ髪が抜けるまで力をこめていたわね)
それがわかっているから、リリアンも怯えたのだ。
「あの、クレアさま?」
困惑したようにこちらを見上げるリリアンを、クレアはじっと見つめた。
クレアの心は、凪いでいる。いままでは、そのワインレッドの瞳を正面から見るだけではらわたが煮えくり返ったものだ。
本当に、クレアは変わってしまった。
「……少しやりすぎだったのは認めるわ」
「え……えっ!?」
ふん、と鼻を鳴らして、クレアはリリアンの横を通り抜けた。
◇ ◆ ◇
いろいろつっこみたいところはあるが、とにかくクレアには、ラズウェルと婚約してからの半年をやり直す機会が与えられた。それは間違いない。
(とにかく死なないのが第一だわ)
問題は、そのためになにをするか、だった。
前回と同じように行動していればクレアの死期のは自動的に半年後になるが、これは本末転倒なので論外である。
そもそも、前回殺された半年後を突破したからといって、その後の命の保証があるわけではない。
むしろ逆だ。半年を過ぎてからは、いつ殺されるかわからない恐怖に怯えることになるだろう。
ひとつ屋根の下で暮らしている以上、ラズウェルがクレアを殺す機会はいくらでもあるし、いくらでも作ることができる。そしてクレアは逃げることができない。
(婚約破棄も視野に入れないといけないようね)
王太子との婚約破棄に加えて、ラズウェルとの婚約までなくなったら……将来のことを考えると気が重くなるが、背に腹は代えられない。
(でも、ラズウェルさまは絶対に認めないわ。わたくしが逃げるために、婚約を破棄したがるのなんてわかってるでしょうし)
手っ取り早いのは、ラズウェルと同じ手段を取ることだ。ラズウェルがいなくなれば、クレアの命が脅かされることは今後一切なくなる。
しかし――自身が殺されたときのことを思い返す。
あれを、自分の手でやるというのは。
(冗談じゃないわ。わたくしは人殺しになるのはごめんよ)
そう、人殺しには――。
「ああっ!?」
それで思いだした。思いだしてしまった。
クレアは一度だけ、リリアンの命を狙ったことがある。クレアの精神が最も限界を迎えていた時期――カインに捨てられ、リリアンを恨み、ラズウェルに目をつけられ、婚約をして、住まいまで移すことになった――いま、この時期である。
リリアンと、そして彼女をこよなく愛するラズウェルと、毎日顔を合わせることになるのが耐えられなかった。
そしてクレアは、怒りに任せて暗殺者の集団に手紙を出したのだ。
決行日は、クレアがロジャース家に入る日。
つまり、今日だった。