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「俺が関係ないだと? おまえに? そんなわけがないだろう! 十年だ! 十年一緒にいたんだぞ! おまえはずっと俺を追いかけていたはずだ! 婚約破棄をしたあとだって、おまえは手紙を送ってきたじゃないか!」
顔を真っ赤にしたカインに気圧された。クレアの舌がもつれる。
「それは、突然のことだったので……納得が」
「ほら! やっぱりそうじゃないか!」
「違いますわ! わたくしは」
思ったようにしゃべれない。先ほどまでは饒舌に言い返すことができていた。いまはできない。どうしてだ。
話が通じない、言っている意味が理解できない。意思の疎通がとれない。
破綻した理論で怒鳴ってくるカインが怖かった。
「クレアサマ」
ベサニーが前に出た。ラズウェルの背に半ば隠れるようにして立っていたクレアをさらに隠す。カインがこの剣幕では、さすがに笑ってもいられなくなったらしい。
それでも、カインの目はしっかりクレアを見ている。獲物を定めた獣のように、その金の瞳がギラついた。
ずっと前、クレアはカインの瞳に自分が映るのを期待していた。
彼の心を、クレアがひとり占めすることを望んでいた。
クレアが求めたものは、こんな恐ろしく歪んだかたちをしていたのか。
ほしかったものがこれならば。
(……なんて醜いの)
この男が好きだった自分に、吐き気がした。
「そうか、拗ねているんだな? 俺がおまえから離れたから。ずっと前からリリアンのことを相談しておけばよかったんだ。そうしたら、おまえもおとなしく受け入れてくれたんだ」
目の前に立つラズウェルも、ベサニーも見えていないようだ。カインがクレアだけをまっすぐに見て、手を伸ばした。
「そうだ、リリアンより先に、おまえと踊ってやってもいい! 嬉しいだろう? これで機嫌を直すか」
「カイン殿下」
しかし、その指がクレアの手を掴むことはなかった。
ラズウェルの手が、カインの手首を押さえていた。
「お戯れもほどほどになさってください」
「戯れなど」
「ベティ」
はいよ、と返事をしたベサニーに、ラズウェルは自分が持っていたケーキの皿を押しつけた。次いでクレアの手からも皿を取り上げ、ベサニーに渡す。
「次の曲が始まります」
そしてクレアの腰を抱いた。空いた手でクレアの手をすくって、その甲に口づける。
きゃーっと、どこかで歓声が上がった。リリアンの声だった。
「お付き合いいただけますか、クレア」
返事をする間もない。
引きずられるようにして、クレアはその場から連れ出された。
◇ ◆ ◇
ワルツには慣れている。長い時間をかけて、からだに叩きこんだステップだ。半分呆けたような状態でも、問題なく踊ることができる。
クレアが我に返ったのは、うっかりラズウェルの足を踏んだときだった。
「これで長年王太子の婚約者を務めていたとは……何回カイン殿下の足を踏んだんですか、貴女は」
「……うるさいわね」
ようやく、正面からラズウェルの顔を見た。
目が死んでいる。
おそらく先ほどの、クレアを連れだしたときの言動が原因だろうが……クレアも思いだしたら寒気がしてきた。いますぐ手の甲を拭きたいが、まさかホールのど真ん中でハンカチを取りだすわけにもいかない。
「本番で人の足を踏んだのはいま、あなたが初めてよ」
「そのうすら寒い言葉選びをやめていただけますか。さっきの今では別の意味に聞こえてくる」
「どういうことよ」
「あなたが私を……いえ、言葉にするのも気色悪い」
「もう一度踏んでほしいのかしら」
クレアの今日の靴は、普通は舞踏会で選ばないような細く高いヒールだ。渾身の力をこめれば、足の骨を折ってやることくらいはできる。
「私は構いませんよ。あなたのダンスがいくら下手だろうと、きちんとフォローしてあげましょう……いたっ」
代わりに二の腕のあたりをつねってやった。
それでもステップを乱さないのはさすがというべきか。いや、全然感心しているわけではまったくないが。
「あなたのせいで余計な誤解を招きそうだわ」
「というと?」
「あなたとわたくしが、心から……その……やめましょう、気持ち悪くなってきたわ」
「賢明な判断ですね。うっかり貴女の足を踏んでしまうところでした」
「あら、レディの足を踏むだなんて、はしたなくってよ」
近づいてみればこの有様でも、遠目から見れば息ピッタリで踊っているようにしか見えないのが見事である。その証拠に、先ほどから両手を握り合わせてきらきらした目でクレアたちを見つめるリリアンの姿が視界に映る。
「いいのかしら、勘違い代表はあなたの妹のようだけれど」
「リリアンに誤解されるぶんには……嫌われる心配もなくなりますし」
「実情を知ったら嫌われそうな自覚はあるのね」
「リリアンは優しい子ですからね、ほら」
ラズウェルが手を離す。つられてクレアはくるりと回った。喉元までせり上がってきたシスコン野郎の一言が、胃のなかに落ちていってしまった。
ぼうっとしたままでもクレアがまともに踊れていたのは、案外この男のおかげかもしれない。リードが上手い。
カインを相手にしていたときよりもよほど踊りやすかった。
それが余計に悔しい。
悔しいついでに、ラズウェルに助けられてしまったことにも唇を噛んだ。
ラズウェルが手を出さなければ、クレアはもっと怖い目に遭っていた。あのカインの剣幕なら、最終的に叩くか突き飛ばすかくらいはしていそうだった。
「……正直助かったわ。ありがとう」
ものすごい渋面で、クレアが呟く。
えっ、と小さな声のあと、ラズウェルがクレアの足を踏んだ。




