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「わたくしが、カイン殿下の気を?」
胸のなかにあったもやが一気に吹きとんだ。代わりに、冷たいものがすべり落ちていく。
「誤魔化すなよ。リリアンのときだってそうだった。彼女に嫌がらせをして、俺のことを諦めさせようとしたんだろう」
諦めさせるもなにも、リリアンはもとからカインのことが好きではなかった。クレアだって知っている。
「俺とリリアンを引き離しさえすれば、俺がおまえのもとに戻るとでも思ったか? 残念だったな、俺はそんな浅はかな考えには乗せられない」
カインが口を開くたび、クレアの体温が一段下がる。
「ラズウェルのことだってそうじゃないか」
「私ですか?」
すっとんきょうな声を出したのはラズウェルだ。たぶん、アルバートとダンスを踊るリリアンに気を取られていた。見なくてもわかる。
ベサニーの挙動がおかしかった。うしろを向いているが、腹を抱えて笑っているのがバレバレである。
クレアはちょっとだけ気を取り直した。
「当てつけみたいにリリアンの兄に近づいて、婚約までするなんて。そんなに俺のことが好きなのか」
不快そうな口調なのに、カインの頬は上がっていた。
クレアが己のことを未練たらしく引きずって、その一挙手一投足をカインの気を引くために使っているのだと信じて疑わない。優越感に浸っているのが丸わかりの顔だった。
(なにを言っているのかしら、この人)
クレアは心の底から思った。そう思える自分に安堵した。
いまわかった。クレアはもう、カインのことを欠片も好きじゃない。
もやもやしていたのは、クレアを理不尽に捨てておいて、自分はのうのうと好きな人のことだけ考えて生きている、その能天気さが許せなかったからだ。
「クッ……」
背後から変な声が聞こえた。振り返れば、ラズウェルが口を押さえて、肩を震わせながら笑いをこらえている。
おまえもか、とクレアは彼を睨めつけた。
(他人事だと思って……!)
こいつも巻きこんでやる、という強い気持ちを固め、クレアはきっぱりと口にした。
「お言葉ですが、婚約の申し入れをしてきたのはラズウェルさまの方ですわ。わたくしからはなにも言っていません」
「わかりやすい嘘をつくな。どうしてラズウェルがおまえに婚約を申し込むんだ。リリアンをいじめた女だぞ?」
(わたくしを殺すためよ)
叫んでやりたいのをぐっとこらえて、クレアはにっこりと微笑んだ。
「わたくしと……いえ、マーフィー家とロジャース家が和解したと、内外に示すためですわ。婚約というのは、これ以上なく都合のいい示しになります」
「御託はいい。そんなに俺を想っているなら仕方ないな。おまえを側妃にしてやってもいいぞ」
周囲がざわめいた。いつの間にか、多くの耳目がクレアたちに集まっている。
ほんの少し、クレアの口の端がひきつったのはご愛敬だ。
ベサニーはさらにからだを折ってひいひい言いながら笑っていたが、反対に、ラズウェルは静かになった。
その顔から笑みを消したラズウェルが、す、と一歩前に出る。クレアは必然的に、彼の背中に隠れるかたちになった。
「おや、殿下……もしや、私の婚約者を奪うとおっしゃっているのですか」
「おまえをクレアから解放してやろうと言ってるんだ。悪い話じゃないだろう?」
「マーフィー嬢が何度も言っていましたが、婚約を申し入れたのは私です。私が選んだ相手から、どうして私が解放されたがっていると思えるのです」
クレアは目を白黒させた。
ラズウェルがクレアを援護している。自分の耳がいかれたかと思った。
(いえ、わたくしを手放してしまったら、殺すことができなくなるからだわ)
それなら納得できる。わざわざ婚約までしておいて、道半ばで手放すつもりはないだろう。
「自分以外の男を想っている女なんて傍に置きたくないだろう? 安心しろ、おまえの名に傷がつかないよう、俺が手配してやる」
「結構です。だいたい、殿下の言っていることは本当なんですかね。マーフィー嬢が未だに貴方に想いを寄せているとは」
ラズウェルがクレアを振り返った。目が合う。
(ああ、なるほど)
彼はリリアンの方を気にしている。一曲が終わって、アルバートと揃ってこちらに戻ってくるのが見えた。
(さっさと話を終わらせろってことね)
クレアは息を吸った。そして、できるだけ響くように、お腹に力をこめてきっぱり言いきる。
「わたくしは、カイン殿下をお慕いしていると申し上げた覚えはありません。殿下とわたくしの婚約が破棄されたとき、わたくしの気持ちも一緒に捨ててまいりましたわ」
これは、馬車での問答の続きだ。クレアは気づいた。
「わたくしはラズウェル・ロジャースさまの婚約者です。カイン殿下のもとへ参ることは、いまも、これからも、金輪際、絶対にありませんので」
ラズウェルはクレアを殺そうとしている。クレアはラズウェルから逃れようとしている。
その関係に、カインの入る余地はない。
「わたくしとは関係のないことですわ。殿下は殿下で、お幸せにどうぞ」
クレアは最後に指先まで気を張り詰めて、渾身のカーテシーをカインに向けた。
これで話は終わりだ、と。
あたりが静まり返った。
しかし、それもほんのしばしのことだった。やがて、舞踏会に招かれている者たちの勝手なささやきがさざ波のように広がっていく。「嫉妬に狂ってロジャース家のご令嬢に酷い仕打ちをしたと聞いていたが」「どうやら違うらしい」「殿下のあのご様子……」「マーフィー家のご令嬢から、婚約の解消を望んだのでは?」「相手に断られたと知られれば、王家の立場が」
勝手な憶測は、瞬く間にその場の空気を満たした。
誰もがカインに憐れみの目を向けた、そのとき。
「関係ないとはなんだ!」
周囲の者がびくりと肩を震わせ、足を引くほどの声量だった。




