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あの日から、ふざけるな、と何度思ったかわからない。
最初はカインが「ほかに好きな人ができた」と言ったときだった。
「君との婚約を破棄したい。問題ない。彼女は優しくて、心根がまっすぐだ。君に負けない良い王妃になるだろう」
ふざけるな。
幼い頃からすべてを妃教育に捧げてきたクレアの十年はどうなるのか。カインを慕うクレアの気持ちは? 王太子に婚約破棄されたクレアの未来は?
心の中でぐちゃぐちゃになった感情はすべて怒りに変換され、その矛先はカインの心を奪ったリリアンに向けられた。
ぜんぶあの女のせいだ、と。
特に気に入らなかったのは、リリアンがカインと結ばれなかったことだ。
そう、リリアンは、カインのことをあっさり振ったのである。
クレアがふたたび、ふざけるな、と思った瞬間だった。
自分が必死に追いかけていた相手が、ほかの女に振られた。惨めな気分だった。
その次は、ラズウェルと婚約したときだろう。
妹に仇なす女を見張るためだけに、婚約を申し込んできた男。リリアンに嫌がらせを仕掛ける機会が減ってしまった。なのに、リリアンと顔を合わせる回数は増えた。
拍車をかけたのは、リリアンがクレアに構おうとしてきたことだ。何度も何度もしつこく話しかけてきて「誤解を解きたい」「殿下はクレアさまが思っているような方ではない」
ふざけるな、と。
最後は、崖から落とされる直前、ラズウェルに告げられた事実だった。
ラズウェルと婚約する以前の数か月。婚約してからの半年。
胸のうちで煮えたぎらせたリリアンへの憎悪は、すべて意味のないものになってしまった。
だって、リリアンと出会ったとき、カインは――。
リリアンは、カインのことを――。
どうしてだろう、先ほど聞いたばかりなのに、よく思いだせない。
■ ◇ ◇
クレアの手が、カップを掴もうとしたかたちのまま止まっていた。
テーブルクロスに広がっていく琥珀色の染みの上で、倒れたティーカップがころんと一回転する。
「マーフィー嬢、怪我はありませんか」
聞き覚えのある声。低くて落ち着いていて耳心地はいいはずなのに、クレアのからだからは一気に血の気が引いた。
おそるおそる顔を上げれば、向かいに座っていたラズウェルが腰を浮かせていた。肩からこぼれた白金の髪が、ぱさりとテーブルを叩く。
「だい、じょうぶですわ」
しぼり出した声は震えていた。どうしてこんなところで座っているのだろう。
だってクレアは、ついさっき崖から落ちて死んだ。
ラズウェルの手で、殺された。
「それならよかった。気をつけてくださいね」
ラズウェルがこちらに人差し指を向けた。素手ではない。真っ白な手袋に覆われている。
なんの前触れもなくその指先が光って、思わずクレアは凝視した。
ラズウェルが軽く笑う。
「そんなに怯えずとも、片づけるだけですよ」
彼の指先が、つい、と宙をすべった。
倒れていたカップがひとりでに起きあがってソーサーに戻る。茶色く染まったテーブルクロスから、紅茶の染みがぷつりぷつりと浮きあがった。
なんてことない、簡単な魔法だ。一瞬でも身構えた自分が恥ずかしい。
「こんなものでしょうか」
ラズウェルが使用人を呼んで、クレアのお茶を片づけさせた。こぼれたはずの紅茶はすべてカップのなかに戻って、テーブルクロスも真っ白に戻っている。
使用人の背中を見送って、ラズウェルが椅子に腰を下ろした。長い脚をゆったりと組んだ彼は、クレアの動揺を微塵も気にしていない。
(いいえ、そんなことはどうでもいい)
みたところ、ここはロジャース家の庭の一角だ。ラズウェルと婚約してから半年、嫌というほど見たので間違いない。
クレアはテーブルの下で、こっそり自分の手の甲をつねった。
たしかに痛みが走る。クレアがいまラズウェルと向かい合ってお茶をしているのは、現実らしい。
しかし、馬車の扉にからだを打ちつけたときの痛みを、崖下の河に叩きつけられたときの痛みを、なす術もなく水に沈んで息ができなくなる苦しみを、クレアは覚えている。
あれも絶対に、夢などではない。
(まさか……まさか時間が)
巻き戻ったとでもいうのだろうか。でも、どうして。
(いえ、理由も原因もどうでもいい。大事なのは……いつに巻き戻ったかだわ)
その答えは、案外すぐに与えられた。
「話を続けましょうか」ラズウェルが口を開いたのである。
「先ほども言いましたが、実家に帰ることは基本的に認めません。次に帰れるのは貴女の身内に不幸があったときだと考えておいた方がいい」
「ちょっと待って。なんですって?」
「実家に帰るのは認めない、と」
クレアは口を開けたまま固まった。
この会話の流れ、身に覚えがある。
(わたくしが、ロジャース家に来た日だわ!)
クレアとラズウェルの婚約には、特別な取り決めがあった。
クレアがロジャース家に住まいを移すこと。
同じ屋根の下で暮らすことで、クレアとリリアン、およびラズウェルの間にはもうなんのわだかまりもないと周囲に示す――名目上は、和解の証として。
ラズウェルたっての希望だった。婚姻前の婚約者同士がひとつ屋根の下で暮らすなんて、よほどの理由がなければあり得ないことだ。絶対に嫌だとクレアはずいぶんごねたのだが、通用しなかった。
王太子との婚約を破棄されて実質王家から見捨てられた上、リリアンの件でロジャース家に対して立場が弱いマーフィー家が、断れるわけもない。同じ公爵家として、身分上は立場が対等だったとしても。
かくして、クレアはロジャース家で暮らすことになってしまったのだ。
(それが、今日からなのね……!)
一言で表すなら、最悪、である。ラズウェルとの婚約もすでに成立していて、クレアは居を移した直後。「天から与えられたやり直しのチャンス」として、これ以上嫌な時期もない。
静かになったクレアになにを思ったのか、優雅にカップを傾けたラズウェルが補足した。
「実家へ引っこんでそのまま帰ってこなくなるのも困りますし、余計な企みを計画されても困りますからね」
「そんなことしないわよ」
その言葉は驚くほど素直に、クレアの口からこぼれ出た。真実、リリアンをどうこうしようという気は、クレアの内からすっかり消え去っている。
原因はもちろん、殺される直前に聞いた、ラズウェルの――。
(カインさまが……なにかしら、思いだせない)
時間を逆行した代償だろうか。からだと一緒に、心まで崖から突き落とされたような気分だったのは覚えている。あのときクレアを動かしていたものすべてを否定されたような。
リリアンと出会ってからのクレアのいままでは、すべて意味のないものだった、と理解してしまった。
あれが心変わりのきっかけになったことは間違いない。
ラズウェルがカップを持ったまま静止している。片眉を上げて、鳩が豆鉄砲をくらったような顔でクレアを見ていた。
「どういう心境の変化です? ますます信用ならない」
「あなたに言われたくないわね」
信用ならないとは、和解のため……と豪語しておいて、その実殺すために婚約を申し込んできたこの男の方である。おまけに、殺す直前にクレアの心を折るようなことを言う性悪だ。
「気分がすぐれないので失礼するわ」
クレアは早々に席を立った。以前――転生する前は、このあとにもいくつか確認したことがあったような気もするが、もう知らない。
「新しい使用人のひとりくらいなら入れてもいいですよ」
背中にかけられた声に、クレアはきっぱり言い返した。
「結構よ」