崖下からの景色
対戦ありがとうございます。ねずみもち月と申します。
最強に面白い作品で読者を楽しませるぞ!という気概だけは持っておりますので、どうぞよろしくお願いします。
悪路を進む馬車があった。
乗っているのは男女ひと組――その片方であるクレア・マーフィーは、窓からそっと眼下を覗いて身震いした。
馬車が走っているのは、本当に道かと疑うほどの崖の際である。文字通りの崖っぷちだった。
「本当にこの先なの?」
「少し遠出でもしませんか」と誘われて馬車に乗りこんだが、どう考えても楽しいお出かけだとは思えない。
いや、そもそも同行者がこの人では、楽しみようがない――クレアは窓の外から目を逸らして、向かいに座る婚約者を見上げた。
馬車が揺れるたびに、彼の肩の上で、髪をくくった大きなリボンが跳ねる。胸元に流した白金の髪がさらさらと流れた。
傍らに立てかけた大きな杖は、彼が魔導士であることを示している。クレアは、杖の先端にはめ込まれた青い宝石の鈍い輝きが気味悪いと、常々思っていた。
やや間を空けて、クレアの婚約者――ラズウェル・ロジャースが答えた。
「……もちろん」
「でも、ラズウェルさま――」
クレアは彼が苦手だった。
婚約をした当初からずっとだ。ラズウェルからすれば、クレアは顔も見たくないほど憎い相手のはずである。
だってクレアは――。
馬車ががくんと跳ねた。窓の外の景色が止まる。
外は相変わらず崖っぷちのままである。まさかここが目的地なのかとクレアが顔をしかめるのとほぼ同時に、ラズウェルが立ちあがった。
「私がどうして貴女に婚約を申し込んだか、わかりますか」
エメラルドグリーンの瞳に射貫かれる。
どきりとした。まさかクレアの思考でも読んだのだろうか。
動揺したのを悟られないように、クレアはわざと澄まして「わたくしを見張るためではなくって?」と返した。
しかし予想は外れた。
「それもありますが」
「違う? だってわたくし……」
クレアは、ラズウェルが溺愛する妹――リリアン・ロジャースにずいぶんひどい真似をした。
持ちものを壊す、なくす、周囲に悪口を吹きこむ、約束の時間をわざとずらして教える、出かけた先にひとりだけ置き去りにして帰る――思いつく限りの嫌がらせは軒並み実行したし、命を狙ったこともあった。
今でも彼女のことを思いだすとはらわたが煮えくり返る。
それもこれも、リリアンがクレアの以前の婚約者を横からさらってしまったからだ。
クレアの以前の婚約者――カイン・メリベラはこの国の王太子だった。
次期王妃として彼の隣に立って、彼を支えられることがこの上なく誇らしかった。カインの隣に立っても恥ずかしくないように、自慢できる婚約者であるように、貴族の淑女としてふさわしい教養と振る舞いを自らに叩きこんだ。
それなのに。
可愛らしい容姿と人懐っこい性格だけで、リリアンがすべてを持っていってしまった。
クレアのこれまでを台無しにした。
クレアの顔がよほど歪んでいたのか、ラズウェルが鼻で笑った。馬車の扉に手をかける。
隙間から冷たい風が吹き込んできた。
「だから貴女は彼に相手にされなかったんですよ。もちろん、貴女よりもリリアンの方がずっと魅力的なのも間違いないですが」
「あなた、ただわたくしを煽りたいだけね」
「まさか、違いますよ……話が逸れました」
そうだ。クレアはラズウェルの愛するリリアンに散々ひどいことをした。ラズウェルは心の底からクレアのことが嫌いなはずだ。もちろんそれは彼の言葉の端々から、嫌というほどに感じ取っている。
彼の婚約者になってから半年、クレアは見張られていて、リリアンに手を出すこともできなかった。監視するためだというのなら、これ以上ないくらいの効果を発揮していたのだ。ラズウェルのシスコンぶりを肌で感じていた身としては、そのために婚約をしたのだと言われても驚かない。むしろ納得する。
「見張りをするだけなら、わざわざ貴女と婚約をするまでもない。人を雇えばいいんですから」
「そうすればよかったじゃないの。わたくしだってあなたと婚約なんてしたくなかったわ。おかげで毎日のようにリリアンの顔を見ることになって」
「私だって嫌でしたよ。催しに呼ばれるたびに貴女をパートナーとして連れていくなんて、どんな拷問かと思いました」
そのわりには、ラズウェルはうっすらと笑みを浮かべていた。「それでも、貴女とはできる限り近い関係でいなくてはならなかったんですよ」
「どうしてよ。まさかわたくしを殺すわけでも」
あるまいし、と言い切る前に、クレアはハッとした。
慌てて立ちあがるがもう遅い。
鼻先に杖が突きつけられた。宝石から、目が焼けてしまいそうなほど強い光がこぼれ出す。
「そういえば、リリアンと初めて出会ったときのカイン殿下ですが――」
続いたラズウェルの言葉に、クレアは愕然とした。
信じられない。いままでのクレアの行いが、その意味が、すべてひっくり返ってしまった。
クレアがリリアンを敵視していた意味は――。
「それなら、わたくしはなんのために!」
ラズウェルは答えない。クレアに杖を突きつけたまま、馬車を出てしまった。
扉が閉まる無情な音。ショックを受けすぎて、反応するのが遅れた。
なかに残されたのはクレアだけだ。
クレアは扉にかじりついた。何度も叩くがびくともしない。ラズウェルがこちらに杖を向けている。先端の宝石は、光を増すばかりだ。魔法で押さえつけているようだった。
「だ、出しなさい! あなた、こんなことをしてただで済むと思ってるの!」
ラズウェルは何も言わなかった。ただ冷めた目がクレアに突き刺さった。
杖の宝石とは真逆だ。
彼の瞳は、なにも映さず、底なしの闇のように暗い。
心がきしむ音がした。いや、馬車がきしむ音だ。足元が突然傾いて、クレアはひっくり返る。
「こんなやり方――」
内臓が浮いた。扉の窓から空が見える。馬車ごと崖から落とされたのだ。
耳元で唸るのが落ちる馬車の音なのか、風の音なのか、あるいは迫りくる濁流の音なのかわからない。あちこちにからだを打ちつけながら、クレアは叫んだ。
「こんなやり方、わたくしと大差ないじゃない!」
気に入らない人間は排除する。クレアがリリアンにやろうとしたことだ。
なにより想っていた婚約者を奪った女に――奪ったとクレアが勝手に思いこんでいた相手に嫌がらせをして、果てに自分が殺されるなんて。それも情けないほどにあっさりと。
まさか因果応報とでもいうのか。
ふざけるな。
絶対に認めない。
こんなところで死んでいられない。
わたくしは、絶対に――。
体が砕けるかと思うほどの衝撃が全身を叩いて、クレアの意識は途切れた。