第一話 ひきこもりと兵糧攻め
もしも、自分以外の人間が突然消えてしまったら……
世界はどうなるんだろう。
あなたは、こんな妄想をしたことはありませんか?
誰もいなくなった世界を我が物顔で歩き回り、好き放題にできるとしたら、あなたは何をしますか?
そんな妄想を形にしてみました。
この話は、虐待・イジメを受けて育ったひきこもりの主人公が 、世界から人間が消えたことをきっかけに外に出て「人間らしさ」を取り戻していく話です。
「人間らしさ」とは何か? を、大きなテーマとして扱っています。
XX年、八月二日 午前。
晴れ、暑い。
俺が世界の異変に気付いたのは、部屋に食事が届けられなくなって三日目の朝だった。
普段ならば、毎朝必ず部屋の前に食事が置かれている。
食事は一日一回。
トーストや目玉焼きなどの簡単なものから、一汁三菜の典型的な和食まで様々だ。
長期に渡って家を空ける場合、すなわち家族旅行などの時には、最低限のお金と、その旨を伝える置き手紙があるはずだった。(俺は家族の一員としてカウントされていないので、家族旅行には行けないのだ)
部屋から出ない、つまりはひきこもりタイプのニートである以上、俺は食事の催促などというみっともないことはすべきでないと思っている。ひきこもりになった原因は様々で、一様に俺だけが悪いとは言えないと思ってはいるが、部屋から出ないという選択をしたのは俺自身であって、それは誇るべきものではないと自覚しているからだ。
しかし、三日だ。
三日も食事が無いというのはいかがなものだろう?あらかじめ知らされていたわけではない。手紙や何かで予告されていたという覚えもない。
最初は、たまたま忘れられただけだと思っていた。幼少の頃から、家族の中でも浮いた存在だった俺は、「うっかり」忘れられて置き去りにされることがしょっちゅうあった。しかし、今回は何かが違う。何かこう、頑とした意志を感じるのだ。
そして今、朝九時過ぎ。
いつもなら八時半には食事が置かれているのだが、やはり今日も何もなかった。兵糧攻めというやつだろうか?俺が堪りかねて外に出ることを期待しているのかもしれない。
こんな卑怯な手段に乗せられるのは気が進まない。しかし、いつまでもこのままではいられないこともわかっていた。空腹感という差し迫った問題もある。
外に、出てみるか。
正直言って、家族のことは好きではない。家を出ろと言うのなら、そうしよう。が、せめて自立できるまでの間くらいは、ご飯だけでも食べさせてほしい。交渉できるかどうかはわからないが、話をしてみよう。
空腹に後押しされる形にはなったが、俺はついに決心し、そっとドアを開けて部屋の外へ足を踏み出した。
トイレ以外の用事で、明るいうちに部屋から出るのは何ヶ月ぶりだろうか。一年近くになるかもしれない。家族が誰もいない時でないと、とても昼間に部屋から出る気にはなれないからだ。
階下への階段を、ミシリ、ミシリと音を立てながら降りていく。心臓が少しだけ痛んだ。運動不足で痛んでいるというわけではなく、これは緊張からくる痛みだろう。
一階まで降りると、足先にひんやりとした空気が触れた。リビングの冷房がついているのだろう、そこから漏れた冷気が廊下の床に漂っているのだ。
今日は確か平日、朝九時ならば、おそらく父親は既に会社へ出社したはずで、一階には母親がいるのだろう。弟と妹はどこにいるだろうか。二階には俺の部屋の他に弟の部屋と妹の部屋がそれぞれあったはずだが、気配は無かった。
もう学校へ行ってしまったのだろうか?いや、今は夏休みのはず。ともかく、兄弟とは顔を合わせたくなかった俺には好都合だ。
俺は、意を決してリビングの引き戸を開けた。
蛍光灯の光で明るい室内。
部屋の左手奥には、大きな薄型テレビが置いてある。テレビ前にはくたびれた合皮のソファと、ソファの高さにぴったりの薄汚れたテーブル。テーブルの上には汚い灰皿があり、中にはタバコの吸い殻が何本も放り込まれていた。
右手には、ドッシリとした丸い木製テーブルがあり、食べかけの朝食が二人分置いてある。
掃出し窓のカーテンが見たことのない柄に変わっているのに気付き、時の流れを感じた。
そして、誰もいない。
リビングに併設されたキッチンの中も覗いてみたが、こちらにも誰もいない。どういうわけか床におたまが転がっていたので、拾い上げて流しの洗い桶に入れておいた。
家族は出かけているのだろうか?
拍子抜けした俺は、一階二階、全ての部屋を調べてみたが、結局家族は誰もいなかった。
おかしい。
リビングのソファに腰を下ろしながら、俺はこの不可解な現象について考えた。
まず、出掛けたにしてはクーラーがつきっぱなしだ。普通なら消していくだろう。消し忘れたのだろうか?が、部屋の電気もつきっぱなしなのだ。両方とも忘れるようなことがあるだろうか。それに、テーブルの上に残された食べかけの朝食。こんなものを残して出掛けるとは思えない。よっぽど緊急の用事だったのだろうか?
そういえば、玄関をまだ調べていなかったなと思った俺は、リビングの引き戸を開けて、廊下からすぐ右手の玄関へ向かった。ぱっと見には問題は無さそうだったが、俺は言いようのない違和感を覚えた。
ドアにはカギがかかっており、チェーンは外されていた。それはいい。
問題は、靴だ。これはおかしい。三人分きちんと並んでいる。おそらく、母と、妹と、弟の靴だ。革靴が無いところを見ると、父親は外に出て、それ以外の家族は家にいるということになる。……なるのではないか?
胸騒ぎを覚え、玄関のカギを開けてドアを少しだけ開く。あたりは静まり返っている。平日の朝九時というのは、こんなにも静かなものだったろうか?
玄関前のポーチを覗き込んでみたが車は無く、おそらく父親が乗って行ったのだろうと伺えた。
朝とはいえ、季節は夏。暑さにやられた俺はすごすごと顔を引っ込め、扉を閉めた。
リビングに戻った俺は、腹がすいていたことを思い出した。ここ三日、部屋にあったスナック菓子しか口にしていないのだ。
テーブルの上に乗った食べかけの朝食に目をやる。家の食材を勝手に食べてしまうのは気がひけるが、食べ残しをつまむくらいなら許されるだろう。俺は半分になった目玉焼きの皿を手に取り、指でつまみあげて口に運ぼうとした。
が、突然の酷い臭気に、思わずうめき声が漏れた。指でつまんだ目玉焼きをあわてて離し、半ば落とすような勢いでテーブルに皿を置く。
目玉焼きが、腐っている!
よくよく見てみると、目玉焼きに添えられた千切りキャベツはツヤをなくしてカピカピに乾き、プチトマトにはシワが寄っていた。茶碗に入ったごはんも乾いて黄ばんだ色になっており、味噌汁からも妙な臭いが立ちのぼっている。
なぜだ?なぜ腐った朝食が出されているのだ?
俺はあわててキッチンへと駆け込んだ。コンロには、蓋をした鍋が置いてある。蓋を取ると、すえたような臭いが立ち込め、中に味噌汁の残りだと思われる液体が入っていた。
俺はさっき洗しに放り込んだおたまを拾い上げ、味噌汁をおそるおそるかき回してみた。
モッタリとした手応えの、妙に粘度の高い汁。時折覗く青緑の粘土状のものは……お豆腐だろうか?深緑のゼラチンは、おそらくブヨブヨにふやけたワカメだろう。
間違いなく、腐っている。
世にも恐ろしい光景と共にドブのような臭いが立ち込め、俺はあわてて蓋をした。
なぜだ?なぜなんだ?
今朝、つまりつい先ほど作られたばかりの朝食の食べ残しだと思っていたが、違うのだろうか。
まだ朝九時半にもならない時刻だ。八時半頃が朝食だとして、こんなにも早く食べ物が腐るわけはない。夏場とはいえ、この部屋はクーラーがついている。まるで、丸三日は放置されたみたいな腐り方だ。
……三日?
イヤな符合に、俺は身を震わせた。
結局、冷蔵庫の中に残っていた腐っていないプチトマトと、棚の中に入っていたスナック菓子、冷凍ご飯をレンジで温めたもの、あと、たまたま見つけた鯖味噌缶を持って俺は自分の部屋に戻ってきた。あれ以上無人のリビングで過ごす気にはなれなかった。
プチトマトを三個ほど口の中に放り込みながら、鯖味噌缶を開ける。鯖の缶詰はどうも臭みがあって好きになれないのだか、贅沢は言ってられない。茶碗に入った熱々のごはんの上に、ほぐした鯖味噌を乗せてかき込む。意外とプチトマトとの相性がいい。
スナック菓子の包みも開けてごはんの合間にポリポリとつまみながら、俺は今の状況について考えた。
食事が届けられなくなって、三日。
三日間は放置された食べ残し。
きれいに揃った玄関の靴。
そして、消えた家族。
突然消えた家族の謎に関してのみならば、ひとつだけ有力な説を思いつけた。
俺の存在だ。
俺が家の中に閉じこもりがちになったのは、今から六年ほど前。完全にひきこもりになってからは、四年だろうか。いや、五年だったかもしれない。ともかく、俺はひきこもりであり、社会の鼻つまみ者であり、出来損ないの落伍者だった。
そんな俺を、家族が疎ましく思わない訳がない。できれば死んで欲しいとさえ思われていたことだろう。そんな人間をどうにかしたいと思った場合、取れる手段はそう多くはない。そいつを追い出すか、自分たちが出て行くかだ。そしておそらく、家族は後者を選んだのだろう。俺と話し合うことすらせず、捨て置くことを選んだのだ!
と、ここまで考えて、俺の中の冷静な部分がそれを否定した。
なぜ家族が出て行く必要がある?家財道具の一切を置きざりにして。俺が出て行くことを頑なに拒んだのなら、それも選択肢の一つだろう。しかし、俺になんの話もせず、突然こんな夜逃げのような逃げ方をするとは思えない。力尽くで追い出すという手だってあったのだ。父と弟、男が二人もいれば、ひ弱な俺など簡単に家から叩き出せたに違いない。
それに、玄関の靴。いくら家財道具の一切を捨てて行くにしても、靴くらいは履いて行くだろう。
その他に、靴だけを置いて家族が消える事態が考えられるだろうか?
……誘拐?
いや、それはおかしい。あわてて頭の中で否定する。さすがに家族が誘拐されたのならば、誰かしらから話が来るだろう。
ともかく、今わかっているのは、腐った食事を放ったらかしにして、家族が三日ほど家を空けているという事実だけだ。俺にできることなど何もない。
さっき調べた限りでは、冷蔵庫や棚の中の食材を食べれば何日間かは生きていられそうだった。家族がいつ帰って来るのかわからないが、当面の間は生きていられる。
少しだけ落ち着きを取り戻し、俺はため息をついた。そうだ、生きていられる。何も心配することはない。
大丈夫、大丈夫。
不思議な気持ちだった。ひきこもり始めて以来、ずっといつ死んでもいいような気持ちだった。眠る前に、いっそこのまま目が覚めないでくれと何度思ったことか。しかし、いざ危機が迫ると、生きていられるという事実に安心した。生きてることが嬉しいわけではない。死ななくて済みそうだということに、本能的に安堵感を覚えてしまうのだ。
しかし……落ち着きを取り戻しつつあった俺に、残酷な現実が襲いかかった。
電気が止まったのだ。
部屋の照明も、扇風機やクーラーさえも、一斉に死んだように黙り込む。突然の静寂に、俺の耳がツンと痛んだ。