心の中で母を棄て去る
あの女のことを、もう母親だとは思わない。
やっと、心の中で見切りがつけられた。
今まで、ずっと苦しかった。
よその母親が羨ましくて、苦しかった。「私のお母さんは、何でこうなんだろう」と、恨めしくて、苦しかった。
そして、そんな風に思うたび、罪悪感がチクチク胸を刺した。
「親の心子知らず」だとか「親の苦労」だとか「育ててもらった恩」だとか聞くと、そんな風に思うこと自体、悪いことなんじゃないかと思えてしまう。
……だけど、やっぱり何かが違う。
子どもは、親のすること、言うことを、何もかも我慢して受け入れなきゃいけないの?
育ててもらっているうちは、文句も言わずに耐えなきゃいけないの?
……だとしたら、絶交するわけにもいかない分、友達よりもタチが悪い。
あの女のしてきたことは、人によっては「些細なこと」と言われてしまうのかも知れない。笑い話で終わらされてしまうことかも知れない。
だけど、幼い私にとっては、ひどく重いことだった。
心にまとわりついて、気分を沈ませた。鎖のように絡みついて、家へ帰ろうとする足を重くした。
愛されていなかっただとか、可愛がられていなかったわけじゃない。
ただ、あの女の愛はひどく気まぐれで、自分勝手だった。
小さい頃はよく、着せ替え人形のように“あの女の好きな服”を着せられた。
時には親子おそろいコーデで、写真を撮りまくられたりもした。
私の趣味とはちょっと違う、ビビッドカラーの、派手で、丈が短くて、普段着にあまり向かない服。
寒いから着たくないだとか、学校で浮くから嫌だとか言うと、あの女は機嫌を悪くする。
子ども服売り場で私の欲しい服をねだると「ダサい」だとか「野暮ったい」だとか、散々にけなす。
服だけじゃない。文房具も、好きな芸能人も、テレビ番組も……あの女の趣味に合わないものは、何でも散々けなされ、笑われた。
何もかも、あの女のセンスが“絶対”で、それに合わない私の趣味は“変”だと決めつけられた。
――そんな風だったから、私は“私の好きなもの”を、あの女の前で口にできなくなった。
小学校低学年くらいまでは、嫌々ながらも、あの女の言うままに服や髪型を選んできた。
だけど、そのうちに、どうしても我慢できなくなってきた。
だからと言って、どうやったら自分好みのスタイルでオシャレにまとめられるのか、経験の少ない私には分からない。
行き当たりばったりの試行錯誤で、時には自分でも凹むほどの大失敗もした。
そんな時、あの女は追い打ちをかけるように私を嘲笑った。
「お母さんの言う通りにしないから、そうなるのよ」とでも言いたげに、ただでさえ落ち込んでいた私を散々馬鹿にした。
服装や髪形だけじゃない。ちょっとした話し方のクセや、仕草、日常の中のささやかなミス――それを、あの女はいちいち嘲り笑う。
そうやって私のダメな所を“いじる”のが、コミュニケーションの一環だとでも言うように……。
そうやって私のダメな所をつついていけば、勝手にそれが矯正されて、もっと良い子に育つとでも言うように……。
それで私が、どれだけ傷ついていたかも知らずに……。
クラスメイトからだって、私の行動のいちいちを、ダメ出しされて笑われたら辛い。
それが家族なら、本当に逃げ場が無い。顔を合わさずにいることも難しい。
毎日のように、“私のダメな所”をつつかれていると、自分が、ひどくみじめでカッコ悪くて、存在してちゃいけない人間みたいに感じてしまう。
世の中、いじめは何故だか、同級生や先輩や継母、義理の家族からのものばかりのように言われているけど……実の親子の間にだって、いじめは成立するんじゃないかな。
された本人が嫌だと思えば“いじめ”だと言うなら、私が味わってきたものは、精神的ないじめだ。
あるいは、“ありのままの私”を否定して、“あの女の好みに合う私”に矯正しようとする、いじめよりも歪な何かだ。
あの女は、たぶん私を、スクールカーストの上位にいるような、オシャレで明るくて、誰に対しても堂々と物を言える女の子に育てたかったのだと思う。そういう娘が欲しかったのだと思う。
だけど、それは私のキャラじゃない。
私だって、なれるものならそうなりたい。
だけど、私がそうなるためには、とてつもない努力と勇気が必要だ。そして、そんな途方もない努力と勇気は、とても毎日は続かない。
“ありのままの私”が、あの女を失望させていることに、子どもながら、気づいていた。
“地味で冴えなくて、あまりにも平凡な私”に、あの女はきっと興味が無い。
あの女が好きな私は、あの女のスマホの中の、アプリでキラキラに盛られた、物言わぬ画像データの私だ。
写真に切り取られた私は、あの女に口答えしたりしない。
あの女の趣味に合わない地味で野暮ったい格好もしない。あの女好みに加工されて、キラキラ輝いている。
――だけど、それは私であって、私じゃない。
世の母親は、子どもの学校での成績を気にすると聞く。
成績が下がれば「勉強しなさい」と叱られるのだとか。
だけど、あの女は違う。あの女自身が勉強を嫌いだったせいか、算数や国語の成績よりも、身体の発育や体育の出来を気にされた。
家で本を読んでいると「目が悪くなったらどうするの」「眼鏡になったらどうするの」と言われた。
あの女は、女の子に必要なものは、知識よりも容姿だと信じている。
学校の勉強なんかできても、将来の役には立たないと思っている。
あの女は、考え方がちょっと古い。
女の幸せが良い結婚と、良い家庭を築くことだなんて……自分がそれに失敗したくせに、よく娘にまで、それを押しつけられるものだと思う。
自分が叶えられなかった人生へのリベンジを、娘にさせようとでも言うのだろうか。
私が、あの女よりもっと器量の良い女になれれば、あの女よりもっと上手く立ち回れれば“失敗しない相手”を捕まえられるとでも思っているのだろうか。
私は、あの女とは考え方が違う。
誰かに依存する生き方は、怖い。誰かに人生を委ねきってしまうのは恐ろしい。
裏切られたら、その瞬間に全てを失ってしまうから。
だから、最低限、手に職をつけておきたい。ひとりでも生きていける術を確保しておきたい。
……だけど、あの女はそれを理解してくれない。
私の目標を「そんな仕事じゃ結婚できない」と吐き捨て、「後悔するに決まってる」と脅しをかけてくる。
考えを理解してもらえないのは、辛い。生き方を否定されるのは、私の存在自体を否定されているようで、哀しい。
それが、私の一番身近な人だというのが、たまらなく苦しい。
血の繋がった母親でも、育ってきた時代や環境が違えば、考え方も違ってくる。
歩んできた人生が違えば、選ぶ生き方も違ってくる。
違う者同士が、同じ家の中にいて、四六時中顔を合わせているのだから、対立が起こるのも仕方ないのかも知れない。
だけど、この対立には、明らかな力関係が存在している。
あの女が強者で、私は弱者。衣食住の全てを握られた“未成年”に、抵抗する手段など、ほとんど無い。
そもそも、何だかんだ言って、私はあの女を嫌いになりきれない。
ただ一人の“母”だから。いなくなってしまったら、きっと途方に暮れてしまう。
たとえ、どれほどひどいケンカをしても、私があの女の死を望むことだけはない。
その言葉を口にすることすらない。
ドラマやマンガによくあるように、その言葉が現実になりでもしたら……そう想像しただけで、恐ろしくてたまらないから。
だけど、あの女の方は違っていた。
前に、何かの言い合いの拍子、酔っ払ったあの女に「じゃあ、私が死んじゃってもいいって言うの!?」と訊いたことがある。
あの女はあまりにもあっさりと「ああ、構わないね。死んじゃえば」と言った。
あの言葉は、きっと一生忘れない。私の胸に深く突き刺さる傷だ。
あの女は、きっと他人に対する共感力が足りない。
――と言うより、“自分と同じタイプ”の人間にしか、共感できない人なのかも知れない。
そして共感できない相手をけなして馬鹿にすることに、何の躊躇いも無い。
傷つけないようにと気遣う意識も無い。
あの女には、“私”が理解できない。理解する気があるのかも、分からない。
何とか理解されたくて――あの女の理想じゃない“ありのままの私”を愛してもらいたくて、どう頑張ればいいかも分からないまま、ずっと足掻いてきた。
だけど、もう疲れてしまった。
母親だと思うから、苦しいんだ。
「母娘だから、いつかは分かり合える」なんて、そんな夢を見てしまうから、空しくなるんだ。
だから、もう見切りをつける。
あの女のことを、もう“母親”だとは思わない。
あの女のことは、一緒に暮らしているだけの他人とでも思うことにする。
もう、あの女に母親らしいことを求めたりしない。“お母さん”にしてもらいたいあれこれを、望んだりしない。
母親でもない他人なら、最初から求めるべくもないものだ。
そうすれば、諦めた分だけ心がラクになる。
理想の母親像と現実のあの女とのギャップに苦しまなくて良くなる。
だけど……諦めた分、何だか心の中に、ぽっかり隙間が空いてしまったような気がするんだ。
「何でうちのお母さんはこうなんだろう」「どうして分かってくれないんだろう」の堂々めぐりの呪縛から、やっと解放されたはずなのに……。自由になれたはずなのに……。
これまで必死に抱えてきた、大事な何かを手放してしまったような気がして、やけに心もとない。
スッキリ心が晴れ渡っているのに、その心の中を、冷たい風が通り抜ける。
私、これだけあの女に傷つけられても、まだ心の奥で“母親”を求めているのかな。
あの女の中に、母親を求めているのかな。
求めたところで、意味が無いと、もうとっくに見切りをつけたはずなのに……。
あの女は、私の変化を「変に反抗しないで聞き分けが良くなった」とでも思っているに違いない。
実際は、話を聞いている振りで受け流しているだけだ。
あの女は、きっと気づかない。
私の態度の変化の理由も、未だ胸にくすぶる葛藤も……。
そして私も、もう「気づいて欲しい」と望むことすら無い。
私は、心の中で、もう母を棄てたのだ。
手放してしまったことに、時々未練がうずいても……もう決して、それを拾い上げるつもりは無いのだ。
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