119.エピローグ
――私は自分が、目を瞑っていることに気付いた。
目を開けると織物の布地が見えた。私はベッドに横たわっていて、そのベッドだけを囲むように布で仕切られた小部屋のようになっていた。布の切れ目を横に広げてその奥を覗くと、その布の小部屋を内包した、これまた布でできた大きめの部屋があった。その部屋の中央には小型の暖炉があって、ちろちろと火が灯っていた。
それらの全てに私は見覚えがある。私が異世界転生する前に眠ったはずの場所、仮想世界にある私のホームだった。
ウインドウを開いた。
あの、名前やギフトやスキルが表示されたものではない、本来の見慣れた情報がそこには映し出されていた。
私は日時と行動履歴を確認した。
日時にずれはなく、昨晩ホームで寝てから規則正しい時間に起きただけに見える。
ウインドウを操作して、ホームを就寝用のものから通常用のものへ切り替えた。
そこは一面の草原。遠景には霞んだような山々が見える。
近くには先ほど寝ていた場所の外観となる、大きな天幕が設置されている。草原を渡る風が天幕の不織布をはためかせ、遠く向こうでは四足歩行の動物の群れがゆっくりと移動している。たまに鳥のような甲高い鳴き声が響き、眩しい空を見上げてもその姿は上手く視認することができない。
これらは現在、私がホームに設定している風景。
その風景の中、私は天幕の外に置いてある布張りの椅子に深く腰掛けていた。
そのままウインドウから気になっていたことを何点か調べてみる。
まずカルカトラ王国のあったあの仮想世界を舞台にしたゲームは存在していない。また異世界転生というものが実際に起きるかどうかという話題は、どれも噂や妄想の域を出ていなかった。
知識や情報を記憶として直接焼き付ける技術も、研究項目としてはあるものの実用化にはほど遠いように見える。イメージスキルの試験については相変わらず今も継続されていた。
何も変わったことはない。まるであれは夢だったようにすら錯覚する。
でも……それは断じて違う。
カルカトラ王国、王都グラントーラス、辺境伯領都アルコーナス。こんな単語を私が覚えているはずがない。
ソルナリアの記憶は、確かに私の中に残っている。
望まない異世界転生だった。
でもそれは過去形の話であり、なかったことにするつもりは毛頭ない。
あの世界のスキルも今は当然使えないけれど、イメージスキルという仕組みを採用したゲームは数多くある。それらのゲームをプレイすれば、同じようなスキルを構築できるかもしれない。
そう、得られたものはとても多い。
今なら私の研究テーマの一つである、現実世界からのログアウトにも何か進展があるかもしれない。
現実世界と仮想世界では何が違うのか。
現実世界は仮想世界と違って、まだ管理者や管理権限にアクセスできないし、世界の情報もあまり分かっていない。そのため仮想世界と比較するとできることが非常に限定されていて、ログアウトすらできない。しかしその原因は分かっている情報や操作できる情報が少なすぎるというだけに過ぎないので、こういった現実世界についての研究で情報を探ろうとしている。
私が仮想世界でシステムへの干渉命令を調べていたのは、この現実世界からログアウトする手段の一つとして考えたからだった。
私たちが現実世界でVR機器を使って仮想世界へログインできる以上、その肉体や精神についておおよそ完全なデータ化がされている。ならば現実世界を構成しているシステムと、私たちの身体や精神の間における干渉についての情報も解析できるはずで、そこから現実世界のシステムへアクセスする手段が見つかるはず。また仮に私たち人間が、現実世界に対してどこか別の世界からログインしているのなら、存在や意識の根っこがその別の世界と繋がっているという情報を取得できるはず。
それなのに、あまり研究は進んでいない。進んでいないどころか、ほとんど何も分かっていないに等しい。
私がシステムへの干渉命令を使っているように、多くの他の研究者も様々な方法を試している。けれど成功したという結果どころか、何か有意義な手掛かりを得られたという話さえ私は聞いたことがない。
これは根拠のない仮説だけど、現実世界には不条理なほどに途轍もない強さのプロテクトがかかっているのだと思う。
現実世界には遠い宇宙の果てなど未開拓の分野はまだあるとしても、そのプロテクトのせいで利用できるリソースと権限が相当少なく、探求は遅々として進まない。その歩みは人間の思考速度に比べると、あまりに鈍い。
よって現実世界へ研究目的以外で興味を向けるような人間はほとんどいない。現実世界とは、それ以上はログアウトできない単なる端っこの世界。肉体という現実世界のアバターを維持するためだけにある詰まらない世界。その肉体が、数多の仮想世界を稼働させている無数の機械と一緒に眠る世界。
現実世界への一般的な印象はそんなものだと思う。
私は現実世界が、なぜそんな歪な様相をしているのか疑問に感じたから、研究者としてその未知へ挑んだ。現実世界からログアウトする研究はそのための題目の一つ。
なお本当にログアウトしたいとは思っていない。現実世界とは端にある詰まらない場所なんだから、そこからログアウトしたさらに端の世界というのは、もっと下らない世界に違いないと予想している。
また今回の異世界転生で、時間加速にも思うところができた。
私が眠っていたのはおよそ八時間。観察者の言葉が正しいとすると、私があの世界にいたのは五十九日間。時間感覚も合わないし、時間加速の技術を用いても八時間を五十九日間に引き伸ばすことはできない。少なくとも……私が知る技術レベルにおける時間加速では……。
時間加速にも、おそらく発見されていないか公開されていないだけで、まだ先があるのだろう。もし時間加速に限界を考えないのであれば、私たちは刹那の間に無限の時を得られる可能性がある。そしてその無限の時からは、無限の計算力と無限の情報量を得られるのかもしれない。
そしてこのように、もし仮想世界へログインすることで時間加速が無限の時を齎すならば、ログアウトすると時間加速は反対に作用してしまう。現実世界からログアウトできない理由とは、そのログアウトした先の世界が無限の時とは逆で、永遠に時が動くことなく完全に停滞しているからなのかもしれない。
でもまあ、今はそんな研究は後回しでいいか。それよりも重要なことが沢山ある。
まずはマザーとファザー。あれだけ会いたかったはずなのに、いつでも会えるとなれば虫がいいもので、その思いは大分鎮まっている。それでも……あとで連絡くらいはしてみようか。
次にソルナリア。私の精神には、あの世界での本当のソルナリアという女性の意識が眠っているはず。
もしソルナリアが目覚めたら、一体どんな感じになるのだろう? この仮想世界のシステムは、私とソルナリアをどのように判断するのだろう?
あのカルカトラ王国のあった異世界で、仮想常駐プログラムが私の一部と判断されたのと同じように、ソルナリアも私の精神や機能の一部と見なされるのかもしれない。
ソルナリアは司祭ちゃんと同じく、精神年齢が十五歳だったはず。であれば私よりも年下なので、私の精神に同居する妹みたいな感じなんだろうか。
身体の主導権は私が優位なようだけど、部分的には何か任せることができるだろう。私は文字通り二つの意識で様々なものを操作できるようになるのかな。
何となく、面白いことになる気がする。
そして何よりも、賢者ちゃんと司祭ちゃん。
きっと二人は、私の世界まで来てくれるはず。
二人があの世界で肉体が滅びるまで生きたとしても、それは問題にならない。
肉体の喪失は必ずしも精神を道連れにするとは限らず、肉体がなくても精神は存続できる。そのような精神の性質については今までも多くの研究で示唆されていて、今回の異世界転生で私はそれをはっきりと確信した。
二人は少しくらい遠回りをするとしても、絶対に私を探し出そうとしてくれるはず。
あの司祭ちゃんが必ず来ると言ったのだから、決して諦めることはないだろう。
あの賢者ちゃんがついているのだから、必ずその方法を見つけ出すだろう。
今はどうしているのだろうか。
時間加速や転生を考慮するならば、もはやこちらの世界と向こうの世界での、時間の差に囚われた考えをする必要はない気がする。二人は既に、近くにいるのかもしれない。それどころか、私が異世界転生するよりも前の時間軸に来ていることもあり得る。私の数少ない知り合いに、それに該当しそうな対象はいないけれど……それでも手掛かりはいくらでもある。
あの世界の技術はこの世界に似ている部分があった。ならば何か関連があるはずで、あの世界で見知ったことがこの世界でも通用するかもしれない。
例えば「王」の神器という特異点。本来不安定な力である特異点が世界に存在したほうが、世界が安定しやすくなると観察者が言っていた。であるのなら、私のいるこの世界にも、そんな特異点が存在するのかもしれない。
もしかすると現実世界こそが、その特異点なのかもしれない。現実世界という特異点が既に安定しているのか、まだ不安定だからログアウトできないのかは分からないけれど。
今思うと、異世界から来た「勇者」という存在も一種の特異点と考えられる。この世界にも、不安定な力を持った異世界からの住民がやって来ていてもおかしくはない。
それにあの観察者の主という何かもいる。どんな存在か不明だけど、世界を超えて何かしら連絡を取る手段は持っていると考えられる。だから私にも接触してくると思うけれど……あの観察者の主だしなあ……これは気長に待っておくとしようか。
こういった私が異世界で得た知識や感覚は、現実世界からのログアウトという研究だけではなく、未知の世界を見つけ出すためにも応用できるはず。
「世界識」スキルと「世界空」スキルによる世界へ溶け込むような空間認識の感覚。私はもう、自らの精神の存在を自覚できている。
世界樹の圏界での、自分自身と世界が全く理解不能な状態へ転換されていたあの感覚。私はもう、どんな環境に精神が置かれようと拒絶せずに安定できるだろう。
そして「梵我一如」スキルによる、世界と完全に一体化し、その全てを掌中にしているかのような感覚。……全能感……とは違う。ただ意識が広く広く拡張して、自分という存在をもっと自由に変えられる可能性がそこにはあった。
それらは全て異世界転生する以前までの私には、全く想像することができなかった感覚だった。イメージスキルが機能として実装されていなくとも、何かができそうな気がする。
隠された場所であろうと、繋がっていない場所であろうと、私はそれを認識できるはず。認識して制御することができれば、そこへ到達可能なはず。
私が転生したあの世界も、そんな繋がっていない世界の一つだった。でも行って帰ってこれたのだから、必ず道はある。
足りないとすれば、それこそリソースと権限だけ。現実世界だけは誰もがそれをほぼ扱えないけれど、仮想世界であればどのようにも調達できる。
十分なリソースと権限があれば、世界の設定や法則、多種多様な情報へアクセスして、自由に操作できるだろう。
ホームからウインドウを操作すると、そこには無数のゲームや仮想世界が広がっている。でも中には隠された世界だってあるのだろう。さらには普段繋がっていない世界だってあるのだろう。
そういった世界を見つけ出せば、無数にあった世界はさらに膨大な無数へと変わる。
賢者ちゃんならその全てを知りたがるだろう。でも私の知的欲求はそれと少し異なっていて、そこから興味のある世界だけを選び取る。
私にとって興味のある世界が万に一つしかないとしても、無数の世界から選び取れば、結局のところ選び取られる世界も無数となる。
そして今の私が最重視している興味は、賢者ちゃんと司祭ちゃんが来ている世界、来ている場所、それを知る手掛かりとなる情報。
ともかく、ぐずぐずしていてもしょうがない。これからすぐ探しに行こう。
私だって、必ず二人を見つけてみせる。
この世界には、まだまだ無数の楽しみが満ち溢れている。
完