第二十三話 癒し
「おかえりなさいませ。」
大司教という立場だった遜頌は教皇に継ぐ位置へと上り詰めていた。
教会にはもう彼に逆らうものはいない。
彼の倹約予算のおかげで財政難からは脱却しつつあるのだ。
黎仙は疲れた顔をすることなく騎士たちにねぎらいの言葉をかけ、椅子に座った。
「今回は大変だったと聞いております。」
遜頌の前に座っていた黎仙は顔を上げた。
十六になった黎仙の顔は大人び、髪もさらに豊かに結い上げていた。
体の曲線もさらに滑らかになり、この国随一の美女と称されることも多くなった。
ただかつてのように笑うということはなくなった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、今日は武闘大会の決勝。そのために戻ってきていただきました。今やこの国の支柱といえばあなたをおいて誰がおりましょうか。あなたの姿を見れば、皆喜びます。」
「ええ。」
後ろで女官とともに衣装を調えていた北斗は居座る遜頌を追い出そうとした。
「黎仙様。準備をなさいませんと。」
「そうね。北斗、馬車の支度をお願い。」
「はい。」
「では、私は失礼いたします。」
遜頌が出て行くと黎仙は北斗へと視線を向けた。
北斗の瞳にはもう悲しみなどなかった。
「ありがとう。あなたはここでゆっくりしておきますか?疲れたでしょう?」
「いえ。黎仙様の行かれるところでしたらどこでも行きます。」
六歳になった北斗はこの年の誰よりもしっかりしていた。
常に黎仙の心を気遣い、助けようとしていた。
そして彼女を助けることで自分の心を満たそうとしていた。
「では、僕も馬車の支度を。」
北斗が出て行くと黎仙は立ち上がり、あの日以来、つけることのなかった簪に触れた。
「あなたは今年も出場してるの?」
武闘大会の思い出はあの具のたくさん入ったサンドイッチを食べたあの人の笑顔だった。
忘れようと何度も思った。
そう思っても簪は捨てられなかった。
それ一つだけが自分が女であったという気がしたからだ。
兄たちが黎仙を見て癒されていたようにこの簪が黎仙にとっての癒しだった。
お前が武闘大会に足を運ぶのも三年ぶりか。」
「ええ。いつもは各地を巡っておりますから。」
教皇は久方ぶりに娘と出かけることを心待ちにしていた。
この三年間、各地へと積極的に周り、年の殆どを地方で過ごす娘に期待をしつつも、寂しく感じることがあった。
「しかし、一月後の結婚式が終われば暫く遜頌とともにゆっくり暮らせばよい。」
「ええ。私も黎仙様にはゆっくりすごしていただきたいのです。私は内政ばかりで、黎仙様に外ばかり出ていただいて心苦しいのです。」
遜頌は馬車の隣に座りながら黎仙の手に自分の手を重ねた。
黎仙はまた静かな笑みを浮かべた。
嫌だと思えば自分が辛くなる。
この三年それが自分を苦しめてきた。
遜頌を嫌いだと思えば、それを夫とする自分の心が痛むのだ。
馬車がつくと人々との熱気が教皇一行を包んだ。
そこには教会騎士、暗黒騎士、魔法騎士すべてがひしめきあい、教皇と黎仙を目に収めようとしていた。
黎仙はその向こうに見える闘技場を眺めた。
今回は竜騎士が担当ということがあり、全ての闘技場が竜をモチーフにしていた。
側面には竜の鱗、淵には竜の顔。
それは重厚であり荘厳だった。
廊下を抜けてゆくと、国王一行が待っていた。
黎仙は各地を回り言いたいことが山ほどあった。
北斗の親たちについても意見をぶつけたかったが、それはこの場ではしてはいけないと自分に言い聞かせ、無理やり笑みを作った。
一方、年老い、体の悪くなった国王は黎仙を見ると目を細めた。
「これは美しく成長なさったものだ。この国の美姫というのも納得ができる。」
「滅相もない。」
黎仙は頭を下げると、闘技場に目をやった。
「見事なものです。この闘技場。」
「ああ、今回は偉く力を入れておりましてな。竜騎士と太子が数ヶ月考えて作ったものなのですよ。」
遜頌は太子という言葉に過剰に反応した。
「では、黎仙様、我々は席に戻るといたしましょう。騎士たちもお姿を見れば喜ぶでしょうし。」
「ええ。では陛下、失礼いたします。」
黎仙が去ると教皇は娘を目で追う国王の視界へと割り込んだ。
「しかし、美しい姫だ。あれが夢中になるわけも分かる。」
「なんですかな?」
国王の言葉に教皇は不安を覚えた。
「いや、こちらにも黎仙殿に熱を上げているものがおりましてな。」
「残念ですな。あの子はご存知のように遜頌と結婚が決まっておりまして。」
「しかし、あの遜頌、悪い話を聞くのだが。こちらには害がないようにしてもらいたいものだ。」
「害・・・と?」
けれど国王は何を言うこともなく、笑みを浮かべただけだった。