人
「はぁっ……、はぁっ……」
昨日の雨が嘘だったかのような、太陽に照らされてもまるで色褪せる様子の無い青空と高さも分かるような大きな雲が、まるで地球の陸地と海の比率が逆転したかのように広がっている。
「うわっと!・・・ふぅ……」
泥濘や濡れた岩肌に足をとられて、バランスをとろうと触れる木の幹が僅かな木片を手に押しつけてくる。
背負ったザックから、お守り代わりの鈴が一歩足を踏み出すたびにリンリンと、風鈴とは似ても似つかない、籠ったような短く響かない音が聞こえる。
足元の名も知らない草に残る雨露が普段は履くことがない厚みの靴を濡らしていく。
防水性で選んだからか、一番上に羽織った黒とオレンジの防寒着が体の熱を逃がしてくれず、少し汗が滴れた。
けれど、ただ暑いという訳ではない。
時折風が木陰に残った冷たい空気を連れてくる。
季節は初夏に差し掛かろうという時。
私は、今、山に登っている。
『山』といっても富士山でも、マッターホルンでも、ましてやエベレストなどではないし、それらとは比べ物にならないほど小さくて、小学生でも高学年になれば登りきることもできる山だ。かくいう私もまだ小学生だった頃に両親に連れられて登った。いや、あれは「無理矢理登らされた」といっても過言ではないだろう。
実際、私は途中で音を上げて、涙まで流し道端にしゃがみこんだのだ。別に歩き疲れてしゃがみこむのはこれが初めてではないし、このようにすれば母は見かねて父に私をおぶうように頼むことがよくあったのだ。
だからこそ私は甘えて、しゃがみこんでその時を待つことにしたのだ。
けれども、この時ばかりはそうはならなかった。いつもならば、向けられる私としては少しムッとしてしまうような、疑う余地もないほどに微笑えましいと思っているだろうことが伝わってくる笑顔を見せてくれる母が、この時ばかりは少し困った顔をして「もう少し もう少しで半分だからね。休憩所があるよ。そこまでいったらジュース買ってあげるからがんばろ?」と絶望的とも思える応援をしてくれるだけで、父はある意味いつも通りに黙って立ち止りこちらを振り返ってただ見てくるだけで、助けてもらえず涙を流しながら登ることになったのだ。
その後休憩所に着いてからの私は不機嫌になって何を言われてもそっぽをむいて返事をせずに、飲み物を買ってもらう時に「なにがいい?」と聞かれ、ただ一言「りんごじゅーす」と言っただけだったのだが、その時の母はいつものあの笑顔をしていた。
そんな思いをしたにも拘わらず今私は山に登っているのだ。別にそれが良いと思えるような、変わった趣味嗜好をしている訳ではないし、また両親に連れてこられた訳でもなく私の、他の誰のでもない自分自身の意思で、誰を連れ立つこともなくたった1人で山を登りにきている。それも今日が初めてではない。
『何度も』だ。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれて「そこに山があるからだ」なんていう精神論を言うつもりはない。「それならばなぜ登るのか?」と聞かれたならば私はこう言うだろう「見るためだ」と。
いや、今のは嘘だ。確かに山を登る目的の半分は「見るため」で合っているし、もう半分も「見るため」と言ってもそこまでの違いがない。
ならば何が嘘なのかというと、聞かれても「山が好きなんですよ」と愛想笑いをするだろうということだ。
嘘ではないことは本当なのだが、本当は嘘で、と頭が混乱してしまいそうになるが、実際にもう何度もそう答えている。
なぜ山に登るきちんとした理由があるにも拘わらず嘘をついたのか、そこには別にこれといった秘密があるわけではない。ただ単に、誰にも理解されないだろうことは明白だし、誰かに理解して欲しい訳でもないのだから、そんなありきたりな、誰もが満足できるようなそれっぽい適当な言葉で納得させようと思ってのことだ。いろいろと述べてはみたが要約すると答えになるように説明することが煩わしかった。ただそれだけのことなのだろう。
正直な気持ちで言うならば、別に私自身は山が好きな訳でも山に登るのが好きわけでもないし、「山の空気は澄んでいておいしい」といわれても街中の空気と自然の空気の違いなんて分からない。そもそも空気に味を感じたこともない。ただ、そう言うならばその人の中ではそうなのだろう程度にしか思わないし、それを否定するつもりもない。理解はできるが共感はできない、そんなところだ。
しかし、それに問題があるわけでもないし相手も本気で知りたいわけでもないだろうからこの答えになんら問題はないとは思う。
このまま私の、何の得にもならない話を続けていても誰も喜ばないであろうことは明白なのだから、少し話を戻そうと思う。ほんの数十行程前で良いだろう。具体的に言うならば、私の山に登る目的が「見るため」だと語った辺りに。
山は自然だ。大自然のような意味でもそうだし、違和感がないという意味でも自然だと思う。人が歩くから道ができるように、光が当たるから木々も伸びていく。葉っぱの間からわずかに漏れる陽射し。規則性も法則もないのにとても綺麗な樹木のアーチや石と木の根っこでできた階段。岩から湧きでた水が時間をかけて小川になる。その水に流されて少しずつ削れてできた丸い石の河原。
そんな歪なものが集まっているのに、そこに乱雑という印象は受けない。
考えても見よう。何十、何百という樹木がむしろ整理整頓されて、同じ高さで等間隔に何列も並んでいるとしたら?
そのほうが不自然で、言ってしまうならば、気持ちが悪いだろう。
この不規則で歪な自然さを私は『見』たいのだ。
綺麗になろうとした訳でもなく、ただ『生きる』だけでここまで魅了させる。理路整然とさせなくとも、何か1つによって形作られる。そこにどんな意図があるのかを正確に理解することはできなくても、感じるものがそこにはあるのだ。
そんなことを考えていると前方に大きいとは言えないまでも20人ほど入れそうな小屋が見えてきた。もうあの憩所まで着いたようだ。思い出の中では白に近いくらいの明るい色の壁だったのが、月日が経ち黒ずんできてしまっていた。
あれから何度もここを見てきた。いつの間にか休憩をとらないでも山頂まで登れるようにもなった。
けれど、初めて来た時のことを思い出していたせいだろうか。今日は不思議と『久しぶりに寄って行こう』と思えた。
山小屋に入ると、これまでに何度かすれ違い世間話くらいはする程度になった『山を守る会』の人たちが休んでいた。
『山を守る会』という名前の通りに、彼ら(あるいは彼女ら)は山の自然を守るために活動をしているそうだ。実例を挙げるなら、山の麓から山頂までのゴミ拾いをしたり、草花を摘み取る者がいないかの確認や、山頂からの風景を写真で撮り、山の周辺にあるお店の紹介も合わせて|『山を守る会』のサイト《ホームページ》に載せたり、果てには『山を切り崩しての土地開発』に対する反対運動までもしているというのだから恐れ入る。
当然だが会員の募集も随時行っているそうで、これらの話もその勧誘の時に聞かされた。(勿論断った)
それはともかく、ドアから入ってきた風に気付いたのか数人がこちらに顔を向け、私だと分かると表情を緩め、声をかけてきた。
「おや、久しぶりですね」
「はい。お久しぶりです」
そんな当たり障りのない挨拶を交わすと、隣に座っていた人たちに声をかけてベンチを詰め、1人分のスペースを空けてくれた。
「ささ、どうぞ」
普段はここで休憩をとらないでも登れるので、座らなくてもいいのだが、わざわざ空けてもらったのに断るのも悪いかと考えお礼を言いながらベンチに腰を下ろす。
「ありがとうございます」
「いやー、それにしても運が良かった」
「何かあったんですか?」
「いやね、実は昨日違う山を登る予定だったんですよ。それが昨日は生憎の雨でしたから中止なりまして、せっかく計画を立てたのになんにも無しで「また今度」では悲しいじゃないですか。それで次の日、まあ今日なんですが、山に登ろうということになったんです。場所が遠くて、泥濘もあるだろうしそれだともしもの時どうするのか、ということになってそれならば登り慣れている山にしよう。と、そんな感じでこの山を登っていた所だったんですよ」
話が長くて最初の方しか聞いていなかったのだが誤魔化す。
「そうだったですか。それなら昨日の雨がなかったら会えなかったんですね、そうなると今度は何時になっていたんでしょうね?山の神に感謝しましょう」
「ええ。全くです」
そんな事を話していたら不意に風が吹いてきた。
勿論ここは建物の中なのでそれはつまり人が入ってきたか出て行ったということで、今回は前者だったようだ。
「うぃ~。つっかれた~」
「オレちょい便所!荷物頼むわ」
「あ、俺も!」
「一個しかねーんだからお前後な」
「そうはさせん!ジャンケンだ!」
「その間におれが……」
「「させるか!!」」
「グッ!ガッ!グホァッ!!ゲホッゲホッ、ゥァー……殺す気か!?」
……今起きたことを説明するなら、世間的にはまだ少年と呼ばれるくらいの年であろう男が三人入ってきた。
(髪の色に合わせてここは赤・黄・青としておこう。)
そして黄が入ってきてすぐに背負っていたザックを降ろした。すると赤と青が御手洗に行こうとしてジャンケンをしようとすると黄がこっそりと御手洗に向かおうとすると赤が腕で綺麗に首を刈り、青は背中を叩いたことで、より首に負担が掛かったのか、黄が崩れ落ちた。それを赤と青は黄を一瞬も見ずに実行していながら、もう片方の手ではまだジャンケンを続けるというはなれ技をやってみせた。
打ち合わせでもしていたのではないかと思ってしまうほど澱みなく流暢な連携に感動すら覚える反面、面倒臭いのが来た。と思ってしまう。このまま記憶の彼方に忘却してしまいたいのだけれども、2つほど問題がある。それは
「君たち。いい加減にドアを閉めてくれると嬉しいのだけれど?」
そう。ドアを開けたままだということ。
おかげでさっきから風が吹き込んできて、隣に座っている『山を守る会』の皆さんからの重圧がすごいことになっている。このままでは説教になりかねない。
そしてもう1つが残念なことに、私は彼等とも知り合いだということだ。
さすがにこのタイミングで出ていくほど性悪に成りきれない一般人な私は、嫌々ながら言うことにしたのだ。
「お久しぶりです?」
「今閉めます?」
「ごめんなさい?」
「ウグッ……って『しめる』のは首じゃねぇよ!ドアだドア!と・び・ら!」
「なんで疑問形なのですか?聞かないでください」
「あれ?知り合いだったのかい?」
「ええ。たまに会うので……」
「そうでしたか」
そう。彼らともこの山ですれ違うのだ。すれ違う時や抜いたり抜かれたりする時には挨拶をするのがマナーなのである。いつの間にかそんなマナーも身について、意識することなく出来るようになっていたことを、「馴染んだ」と喜ぶべきか「染まった」と凹むべきかどうかを考えなくもない。
だから、『山を守る会』の人たちも一度ならずともすれ違ってはいるはずなのだが如何せん彼らの髪が派手すぎるせいで、そういう風な人たちだと判断され避けられていたのだろう。事実、私も出会ったばかりの頃はそう思ってしまっていたのだからしょうがないのかもしれないのだが……
そういう訳で、私もそうだと判断される前に説明をしてみようかと思い立った。
「あのですね。彼らの見た目はあんな感じなのですが、根はとても真っ直ぐな良い子たちなんです」「と、いいますと?」
後ろの方で「あんな感じ?」「ってどんなカンジ?」「『あんな』って漢字あったっけ?」「知らねぇ」「だよな」「「「?」」」なんて頭が、その、ちょっと残念な会話をしている。君たちの(場合によっては私を含むかもしれないが)誤解を解こうとしているのだから、少しの間でいいから黙っていてもらえないだろうか。
「皆さんのお気持ちも理解できます。彼らの髪や服の色が派手なのも事実ですから。
ですが、彼らも彼らなりに考えてそういう格好をしているのです。正直に言うならばむしろ悪い方向で目立ってしまっていますが……。彼らなりにきちんと意味があるので見た目や一部の言動だけで決めないでいただきたいのです」
「『彼らなりの考え』、ですか?」
「はい。本人たちの口から説明させてもらえますか?」
会の人たちの方にチラリと視線を向け、意思を確認すると再び視線を合わせて頷いてくれた。
「ほら、そこの信号三馬鹿トリオ君たち。こっち来てその髪の色について説明しなさい」
「うわっ!その言い方はちょっと酷いっすよこいつ等はともかく俺はそこまで馬鹿じゃないんすから」
「嘘つけ!!お前の方が頭悪いだろうが」
「どっちにしろ俺よりは下だろ?」
「どうでもいいから!早く!」
ついついイライラしてしまった私は悪くない。と思う……思いたい……
だからそんな目で私を見ないで下さい。
そして私のそんな葛藤などしらない彼らはぽつぽつと語りだした。
「あ~、その、俺たちも好きでこんな髪の色にしているわけじゃないんすよ」
「俺には5歳離れた兄貴がいまして、その兄貴も山に登るのが好きな奴だったんすよ。そんな兄貴がですね、ある日突然姿を消したんす。今までも2.3日くらい帰ってこないこともあったんですけどね。そういう時は連絡があったのにおかしいとなったんですが、警察は事件性なしと判断して動いてもらえなかったんです。それで、兄貴の部屋調べたら電車の時間を調べたメモがあったんで、到着駅の地図を見たら山があったんで、『ここだ!』って確信したんで、その山まで行って近所に住んでる人に聞いても「知らない」とか「見てない」って言うんすよ。そんなはずはないと思って、民間の救助隊に捜索してもらったら2日後にやっぱり見つかったんす。足の骨を折ってその時には、まるで別人のようになっていま
したけどね……」
そこまで言うと、周りの空気が重くなっていることを感じたのか、少し高めの声で続けた。
「兄貴、山岳保険に入っていたみたいなんで費用はそこまでじゃなかったんで、なんとかなりました。ま、そんな事があったんで、派手な髪の色にして他の人に気付いてもらいやすくすれば、『ここに居た』って記憶に残りやすいかな~ってのと、救助に来た人に見つけてもらいやすいかなっていうそれだけのことっすね」
「それで、「目立つって言ったら赤だろ!」って思って赤にしたんすよ」
「俺は、そこまでしたくなかったんで変じゃない金髪にしてみました」
「こいつら舐めてっすよね?そんなんじゃ紅葉になったらむしろ隠れちゃうじゃないっすか。山にない色っつったら青っしょ」
そんな話を聞かされた『山を守る会』の人たちの顔には僅かな同情と大きな罪悪感が見て取れた。
そして、その内の一人が感情を隠そうとした固い声で尋ねた。
「お兄さんがそんな目にあったのに何で君たちは山に登ろうなんて?」
そんな当たり前な疑問に少し照れくさそうに彼らは答えた。
「俺ら、こんな髪にする前はイジメにあってたんす。でも兄貴に、こいつの兄さんに助けてもらって、何か恩返しできねえかって思って相談して、もう山に登れなくなっちまった兄貴に写真を届けるくらいのことしか思いつかなくて、でも山登りなんて全然したことなくて何回もこの山に登ってるんすよ」
同じ山を登る者としてなのか、新たな仲間に対してか、それともただの罪悪感からか、『山を守る会』の中でも上にいるだろう男性がこんなことを言った。
「そうだったのかい。もし良かったらなんだが、君たちも『山を守る会』に入会してみないかい?いろんな山に案内もできるし、今まで撮った色んな写真もあるからお兄さんにも喜んでもらえると良いんだが、もちろん無理にとは言わないよ。」
彼らはそんなことを言われることなど想像したこともなかったのだろう。一度三人で顔を見合わせると大きく頷いた。
そこまでも届けた私は、静かに山小屋を抜けると、今までの経験から解るもうひと踏ん張りを登り始めた。
山頂はまだ見えない。
山の日にちなんで書いてみました。
前後編の予定だったのですが、間に合わないので前編だけで
後編は未定です……
この話が思い浮かんだのは2年くらい前だったのを考えると、何時になるんでしょうね