つばき姫
京の都に、あやかしもかくやとばかりの美姫ありき――
そんな噂が流れたのは、いつの頃だったか。真言宗の僧侶である豊興は世俗に特に詳しいわけでもなかったが、それでも彼の耳に届くほどのものであるならば、やはりそれほどの信憑性があるのだろう、と師に言ってみた。
「そのような甘言に釣られ、俗に下りる気にでもなったか、誉」
齢五十を過ぎてなお剛胆の師は、幼き頃の名で彼をからかう。「ならば一度会うてみるとよい」
言って、一つの封書を渡してきた。
「それはどのような意味でしょう」
「なに、その噂を主が目で確認してこいと言うとるのじゃ」
「お戯れをもうさんでください」
「ホホホ、いや、これは皇からの達しでの」
眉をひそめる豊興に、師は顎で封書を読むよううながした。
文には簡潔にこう書かれていた。
何故そのような美姫がいながらも、誰もがそのものと文を交わしたことがないのか。
あやかしよりもかくや、とはいかようなのか。
もし、その美姫あやかしであらんとするならば、捕らえるのが吉であろう――
「要は」
豊興は嘆息し、封書をたたみながら目を細めた。
「その美姫にお心を奪われた、と言うことですね」
誰がと言わぬのが賢明と悟った豊興は、じろりと師を仰ぎ見た。
「わたくしめに参れと」
「いかにも」
この寺で一番若年である豊興に、否と言えるはずはなかった。
さわさわと笹の葉が、緑の葉を鳴らしている。季節は夏初め。暑すぎず、寒すぎもせぬ気候の中、近くの山に登ることになった豊興は、広げていた巻物を見やり、それから天を仰いだ。
「そろそろ日も暮れるか」
陽の日が弱くなったことに、いささか不安を覚えながら、巻物に書かれてある絵面を確認する。
京の都から歩いて三日、その山にいると口の端に乗せられている美姫を見た――とされている場所が、絵巻には朱文字で記されていた。
「あやかしがおったらどうするつもりだ」
師を恨んでくれようか、と豊興は何度目かのため息をつき、
「……早めに休むか」
言って、山師が教えてくれた川縁へ向かった。
何はなくとも、水は命だ。魚を捕るようなまねはしないが、流れる川の水を少しばかり拝借しても、山の神は怒るまい。
様々な種類の草葉をかき分け、そうしてやっと見つけた川は面に望月の様子を映し、静かな音を回りに響かせている。
これは見事な川よ、と感嘆しながら水を汲もうとしたときに。
しゃらん――と、涼やかな鈴の音がこだました。
思わずそちらを見やれば、否、見やったからこそ豊興は止まった。止められた。
しゃがもうとした姿のまま、動けない豊興の目線の先に、一人の女がいた。
薄墨を巧みな絵師が流し描いたような髪。流涙型の見事な一重。粗雑に作られた羽織はしかし、金の鈴が月光をはじいて光をまとうがごとく……。
は、と我に返った豊興は、慌てて佇まいをただす。そのときの砂利の音で、はじめて豊興に気付いたのだろうか、女はゆっくり豊興へと向き直る。
「この川は、われのもの」
そうつぶやく声のなんと凄まじき美しさよ。確かにこれは人のものではない。
動かぬまま、これが噂の美姫なのだと理解した豊興が、名を問おうと口を開いた刹那。
ぷっ。
唾が豊興の頬をしたたかに打った。
途端、嘔吐をもよおすほどの悪臭がそこから立ちのぼり、豊興は腰を抜かした。
ぬぐっても、ぬぐっても、その匂いは取れることなく今度は衣に移り悪臭を発する。
「去ね。ここは、われのもの」
ぷ、ともう一度唾を吐きかけられて、その匂いと凍てついた声に豊興は意識を失った。
「災難だったの」
憔悴しきったありようで、豊興は山から下り、寺にて師へと一連のことを話した。
「あれはあやかしなのでしょうか」
未だ匂いが取れぬ衣は、捨てた。助けてくれた兄弟子たちも、その臭さに辟易していたようで、美姫と出会った証だとても到底保てるものではなかったためだ。
「あやかし、と呼ぶより、精に近いものだろうて」ホホホ、と笑う師は「しかし、皇にはある程度探した旨を報告せねばならん」
「わたしのことも記して下さいよ」
「言うか、小童が」
さて、と師は文を書くために筆をとり、小首をひねった。
「はてさて、美姫の名前をなんとする」
豊興は考えた。姿形にふさわしい名前を。
そしてつぶやく。
「つばき、と致しましょうか」
――こうして美姫の名は『椿』として、一層京の都で噂されることになったという。