表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

つばき姫


 京の都に、あやかしもかくやとばかりの美姫ありき――


 そんな噂が流れたのは、いつの頃だったか。真言宗の僧侶である豊興ほうきょうは世俗に特に詳しいわけでもなかったが、それでも彼の耳に届くほどのものであるならば、やはりそれほどの信憑性があるのだろう、と師に言ってみた。


「そのような甘言に釣られ、俗に下りる気にでもなったか、ほまれ


 齢五十を過ぎてなお剛胆の師は、幼き頃の名で彼をからかう。「ならば一度会うてみるとよい」

 言って、一つの封書を渡してきた。


「それはどのような意味でしょう」

「なに、その噂を主が目で確認してこいと言うとるのじゃ」

「お戯れをもうさんでください」

「ホホホ、いや、これはすめらぎからの達しでの」


 眉をひそめる豊興に、師は顎で封書を読むよううながした。

 文には簡潔にこう書かれていた。


 何故なにゆえそのような美姫がいながらも、誰もがそのものと文を交わしたことがないのか。

 あやかしよりもかくや、とはいかようなのか。

 もし、その美姫あやかしであらんとするならば、捕らえるのが吉であろう――


「要は」

 豊興は嘆息し、封書をたたみながら目を細めた。


「その美姫にお心を奪われた、と言うことですね」

 誰がと言わぬのが賢明と悟った豊興は、じろりと師を仰ぎ見た。


「わたくしめに参れと」

「いかにも」


 この寺で一番若年である豊興に、否と言えるはずはなかった。



 さわさわと笹の葉が、緑の葉を鳴らしている。季節は夏初め。暑すぎず、寒すぎもせぬ気候の中、近くの山に登ることになった豊興は、広げていた巻物を見やり、それから天を仰いだ。


「そろそろ日も暮れるか」


 陽の日が弱くなったことに、いささか不安を覚えながら、巻物に書かれてある絵面を確認する。

 京の都から歩いて三日、その山にいると口の端に乗せられている美姫を見た――とされている場所が、絵巻には朱文字で記されていた。


「あやかしがおったらどうするつもりだ」

 師を恨んでくれようか、と豊興は何度目かのため息をつき、


「……早めに休むか」

 言って、山師が教えてくれた川縁へ向かった。


 何はなくとも、水は命だ。魚を捕るようなまねはしないが、流れる川の水を少しばかり拝借しても、山の神は怒るまい。

 様々な種類の草葉をかき分け、そうしてやっと見つけた川は面に望月の様子を映し、静かな音を回りに響かせている。

 これは見事な川よ、と感嘆しながら水を汲もうとしたときに。


 しゃらん――と、涼やかな鈴の音がこだました。


 思わずそちらを見やれば、否、見やったからこそ豊興は止まった。止められた。

 しゃがもうとした姿のまま、動けない豊興の目線の先に、一人の女がいた。


 薄墨を巧みな絵師が流し描いたような髪。流涙型の見事な一重。粗雑に作られた羽織はしかし、金の鈴が月光をはじいて光をまとうがごとく……。


 は、と我に返った豊興は、慌てて佇まいをただす。そのときの砂利の音で、はじめて豊興に気付いたのだろうか、女はゆっくり豊興へと向き直る。


「この川は、われのもの」


 そうつぶやく声のなんと凄まじき美しさよ。確かにこれは人のものではない。

 動かぬまま、これが噂の美姫なのだと理解した豊興が、名を問おうと口を開いた刹那。


 ぷっ。


 唾が豊興の頬をしたたかに打った。

 途端、嘔吐をもよおすほどの悪臭がそこから立ちのぼり、豊興は腰を抜かした。

 ぬぐっても、ぬぐっても、その匂いは取れることなく今度は衣に移り悪臭を発する。


「去ね。ここは、われのもの」


 ぷ、ともう一度唾を吐きかけられて、その匂いと凍てついた声に豊興は意識を失った。



「災難だったの」

 憔悴しきったありようで、豊興は山から下り、寺にて師へと一連のことを話した。


「あれはあやかしなのでしょうか」

 未だ匂いが取れぬ衣は、捨てた。助けてくれた兄弟子たちも、その臭さに辟易していたようで、美姫と出会った証だとても到底保てるものではなかったためだ。


「あやかし、と呼ぶより、精に近いものだろうて」ホホホ、と笑う師は「しかし、皇にはある程度探した旨を報告せねばならん」

「わたしのことも記して下さいよ」

「言うか、小童が」


 さて、と師は文を書くために筆をとり、小首をひねった。


「はてさて、美姫の名前をなんとする」


 豊興は考えた。姿形にふさわしい名前を。

 そしてつぶやく。


つばき(・・・)、と致しましょうか」


 ――こうして美姫の名は『椿』として、一層京の都で噂されることになったという。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 怪談落語を聞いている様な感じになる [気になる点] 続きは? [一言] 怪談や、怪談落語を聞いているような、良い気分にさせてくれる ただ! 続きを….….オチを!
[良い点] 古典風ならではの語彙はやはり美しいですね。 物語の内容も平安時代の書にあってもおかしくないくらい趣がありました。 「ツバキ」は実に上手いです。思わず笑ってしまいました。
[良い点] 私が思いつかない単語表現がとても多くあり、なおかつ読みやすい文と思いながら読んでいました。古典などに詳しい方なのですかね。表現の幅にとても感心しました。平安をイメージして書かれているのも、…
2017/05/19 15:19 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ