手作りのチーズケーキ
一日はいつも長く、それでいて過ぎてみればあっという間だった。
繰り返し朝を迎え、今日こそはと思いを込めて、絶望しながら夜を迎えた。
ヘイゼルはよく、ジュリアに声をかけた。それは今までの塗り固めた偽りではなく、下手くそで不器用な優しさだった。
彼は何かを言おうとするのだけれど、それはいつも言葉にならない。
うまく言い表せる言葉を、彼は持っていなかった。
ジュリアもまた、その事を知らなかったのだ。
無為に見える日々の中に、意味を成そうとジュリアはひたすらあがいた。
そうするうちに時間は過ぎていき、彼女には何より、それが恐ろしかった。
結婚式が近づいて来る。
その日が来たらもう、あの青年から逃れられない。
その日を過ぎたら、殺す自信すら消えてしまいそうだった。
それが怖い。怖くてたまらない。
まるで伯父を裏切ることのようで。
「あと三日」
ジュリアは呟いた。
この前ヘイゼルに聞かれたことを思い出す。
――――君は、ウォーレンが好きなの?
あの時はうまく答えられなかった。しかし、その理由が今なら分かる。
――――わたしはまだ、伯父上のことが忘れられないんだわ。
小さな頃の、憧れに似た感情。
あれはきっと初恋だった。伯父は自分にとって、大事な人だった。
彼の死に方は、到底納得できるものではない。
伯父を殺した冷たい男。
ヘイゼルに復讐すると、固く誓っていたのに。
「駄目よ、」
ジュリアは小さく息をついた。
――――ここで諦めたら、伯父上が浮かばれないわ。
引き出しを開け、奥に隠していた小瓶を取る。随分前にこっそり市場に出かけ、商人から秘密で買ったものだ。
中には透明な液体が入っている。
一見、水に見えるそれは、人の命を奪う猛毒だった。
本当は、化粧水として売られていた。
けれど、商人は言っていたのだ。
――――こいつはトキスの花を使ってますからね。肌に塗るには問題ありませんけど、飲むのは絶対駄目です。心臓が止まっちゃいますよ。犯人も分からず、病気みたいに倒れますからね、毒薬として使ってる人もいるくらいです。
饒舌な商人の言葉は、いまもジュリアの耳に焼き付いている。
――――ああ、本当に肌には影響ありませんよ。本当ですって。もうすぐ規制されちゃうんです。それまでに買って下さいよ。飲まなければ何も問題ありませんから。
そう言った商人は、暗い裏通りで商売をしていたのだ。
顔を隠して買いに行った時は、心臓が震えるようだった。誰かに見つかることよりも、それを買おうとする自分が、ひどく恐ろしかったのだ。
けれど、顎髭の商人の言葉を思い出すと、胸がすくような気もした。
――――相手は旦那さん? ああ、浮気ですか。違う? まあ細かいことは聞きませんよ。これを一滴垂らせば心臓が止まります。
目を細め、ジュリアは化粧水と言う名の毒薬を見る。
その視線が小さく揺れ、また小瓶に戻った。
おもむろに瓶を懐に隠すと、ゆっくりと部屋を後にした。
*
「おや、珍しいね。君から来るなんて」
ヘイゼルの部屋を尋ねると、彼は静かに振り向いた。
夕暮れに染まった部屋の中、その瞳は穏やかな色をしている。
ジュリアは彼に精一杯微笑んで見せた。
その手には、出来立てのチーズケーキが乗っている。厨房を借りて自ら作った物だが、そこにはあの毒薬が入っていた。
「わ、わたし、これを作ってみたの。お口に……あうといいんだけど」
ヘイゼルの顔が僅かに綻んだ。
「これを僕に? 食べていいの?」
その表情を見て、ジュリアは目を見張った。彼の笑みは、いつもとまったく違うものだったのだ。
唐突に、以前見たあどけない寝顔を思い出す。
今の彼は、プレゼントを初めてもらった子どものようだ。そこには喜びと、少しの戸惑いが混じっている。
「いいのよ。あなたが食べないなら意味がないわ」
それは半分、本心だった。言いながら、自分のしていることに気が遠くなってくる。
しかし、あの夜のように気絶しては意味がない。
なんとか自分に言い聞かせ、必死にヘイゼルを見つめた。
日は傾き、窓から西日が差し込んでいる。
夕陽に照らされた彼は、オレンジそのものに染まって見えた。
今はきっと、自分もそう見えているに違いない。
「遠慮しないで。ほら、そこにフォークがあるでしょ?」
皿の上に乗っているフォークを目で示す。一本だけのフォークを見つけて、不意に彼の表情が強張った。
「……そういえば、君は食べないの?」
ヘイゼルの瞳に見つめられ、どきりと心臓が跳ねる。
走って逃げたくなり、けれど、一生懸命微笑みを浮かべた。
「い、いいのよ。あなたのために作ったの……だから……」
言いながら、ジュリアははっとした。
彼の瞳がみるみる翳って行く。それはいつしか絶望の色に染まり、ケーキだけを穴があくほど見つめた。
ジュリアは叫びたくなった。
――――ごめんなさい。……ごめんなさい!!
口を開こうとしたその時だった。
彼は突然、思い出したように笑みを浮かべたのだ。
それはあの、ジュリアが嫌いな笑みだった。
その変化は、ぞっとするほど人間離れしている。
ヘイゼルは音もなく、ゆっくりと微笑んだ。
いつものように、凪いだ瞳で。
「……君が、作ってくれたんなら……」
フォークがおもむろに掴まれた。
彼の手は震えている。
ケーキを小さく切ると、その切れ端を突き刺した。
そのまま、ゆっくりと口に運んでいく。
「やめて!!」
ぱしりと、フォークが落とされた。
ケーキが刺さったまま、ことんと音を立て、床に転がる。
「ジュリア……」
ヘイゼルが目を見張った。
彼はケーキの乗った皿を持ち上げ、傍にあった机に、静かに置いた。
ジュリアはもう、それを見ることもできなかった。
「わたし、……!!」
――――ごめんなさい。ごめんなさい。あなたを傷つけて、ごめんなさい。
謝りたいのに謝れない。
だって謝れば、伯父を裏切ってしまう。
肩を震わせ、俯いた。
込み上げてくるものを、必死に押し殺した。
ヘイゼルがそれを、食い入るように眺める。
「……君は……」
戸惑うように、いたわるように、おずおずと手を伸ばした。
「君は……止めてくれた……」
肩に触れられ、ジュリアはぴくりと体を揺らす。
涙が出そうになって、顔もあげることができなかった。
不意に、肩に置かれた手に、強い力が込められる。
床だけを見つめていると、焼け付くような視線を感じた。
転がったフォークを見て、なんて馬鹿なことをしたんだろうと、胸に叫びが込み上げてくる。
きっと今、目の前の優しい人は、何かを間違えようとしているのだ。
掠れた声で、彼は言った。
「ジュリア……僕は、君が……」
咄嗟に、彼を突き飛ばした。
聞いてはいけない。
言わせてはいけない。
そのまま扉に走り寄る。
「ケーキ……食べないでね……!」
それだけ叫んで、ジュリアは部屋を飛び出した。
自室に戻り、鍵をかけると、すぐさま寝台に飛び乗った。
そのまま顔をうずめ、声を殺して泣いた。
――――わたしには無理だわ。
シーツを握りしめ、涙をこぼした。
――――殺せない。もう傷つけられない。
ヘイゼルの顔が浮かんでは消えて行く。
様々な感情を載せ、細められ、伏せられた瞳。
傍に行きたい。
あまりに身勝手だ。
泣いている時、よく伯父が頭を撫でてくれていた。
思い出の中の彼は、いつも優しく、どこか悲しそうな目をしている。
ウォーレンは声をあげることも出来ず、罪を背負わされたまま、無念の死を遂げた。
彼は無残にも、ヘイゼルに剣で突き殺されたのだ。
伯父上。伯父上。
お願い助けて。
どうしたらいいのか、もう分からない。