透明な世界と、鮮やかな少女
短剣、毒薬、革の紐。
彼女はいつも、その身に道具を忍ばせている。
肌身離さず隠し持ち、憎い相手を殺すため。
あの話し合いの後から、ジュリアは文字通り、ヘイゼルを殺しに来るようになった。伯父を殺した仇だと、毎日毎日、飽きもせずに通い続ける。
ヘイゼルは彼女を、止めようとも思わなかった。
相手が本気だと言うことは分かる。
けれどジュリアは、殺人に必要な技術を持っていなかったのだ。その手つきは、戦場に出慣れた騎士を殺すには、あまりにおぼつかない。
最初は気にかけていた使用人たちも、ヘイゼルが気に留める必要はないと伝えると、大人しくいつもの仕事に打ち込んだ。
実のところ、彼らはジュリアが、主人を脅かす存在でないと判断し、見て見ぬ振りを決め込んだらしかった。
それぐらい、ジュリアの攻撃は、まっすぐで単純だ。
その上殺意を否応なく向けてくるものだから、隠れていても分かってしまうのだ。
――――ああ、そこの影か。
茂みの向こうから滲み出る鋭い気配。
姿は見えないものの、少女が息を殺し、こちらを伺っているのが手に取るように分かる。
――――彼女から復讐を取り上げたら、何が残るのだろう。
緑の葉が、空に舞い散った。
「覚悟なさい、ヘイゼル!」
少女の瞳が、閃く剣が、日の光に当たって煌めく。
二人の攻防は、今日も続いている。
*
ヘイゼルは侯爵家の次男として生まれた。
髪も目も、長男とは違う薄い色。
当時の厳格な当主は、生まれた我が子を見るなり、妻に怒鳴った。
「お前、裏切ったな!」
彼も妻も、濃い色の髪と瞳を持っていた。彼らの長男だって同じだ。
だから赤子の父親は、ここにはいない別の男に違いなかった。
妻は口を閉ざした。何も言わず、赤子を腕に抱いたまま。
彼女はもともと、どこか浮世離れした女性だった。夫はそのことに、時々訳の分からない危機感を覚えたが、その予感は確かに当たってしまったのだ。
彼女の目にはもう、赤子しか映っていなかった。いや、赤子を通して別の男だけを映していた。
夫がどんなに怒鳴り、罵っても、妻はただ沈黙を貫くだけだった。遠い目をして、時々何かを呟くだけ。それはただの音の連なりで、本人でさえ意味を知る事はなかった。彼女はまもなくやせ細り、口を閉ざしたまま、死んでしまったのだ。
当主は赤子を疎んだ。嫌なものを見るような目で、裏切り者の子を睨んだ。
妻の罪が受け継がれた、ヘイゼルの瞳。それを見る度苦しめられ、とうとう感情の赴くまま、赤子に酷い名を付けた。
本当は女の名前だったが、彼は構いもしなかった。
侮蔑を含むようにして、「裏切りの証」を名前にしたのだ。
結局ヘイゼルは、彼にとって裏切りの象徴でしかなかったのだ。当主は赤子を嫌い、冷たく接するようになった。
その子の物心がつく頃には、長男も同じ態度になっていた。
「準備は出来たか、行くぞ」
いつものように外套を羽織る父親。彼の言葉は、長男にのみ向けられている。
五歳のヘイゼルは、父の雄々しさに憧れと恐れを感じていた。
いかめしい切れ長の目は、獲物を狩る鷹のようだ。
「父上、どこへ行かれるのですか」
思い切ってそう問えば、迷惑そうな顔をされた。
「城へ行く。貴族同士の顔見せだ」
「それって、ぼくも参加できるものですよね。一緒につれて行ってください」
「駄目だ」
底冷えのする声に、ヘイゼルの体は竦んだ。射殺すような目で、父は言う。
「お前は家で待っていろ」
息をとめた子どもに目もくれず、父親は踵を返し、足早に屋敷の外へ向かう。
ヘイゼルに呼び止める勇気は出なかった。
「邪魔だ、どけ」
七つ年上の兄は、突き飛ばすようにしてヘイゼルの前を通り過ぎた。
ヘイゼルは慌てて、兄の服にしがみつく。
「兄上。兄上も五歳の時には、顔見せに出たと聞きました。ぼくも行かせて下さい」
「黙れ。お前みたいなヒヨコ、連れていける訳ないだろう」
彼は弟の髪を見て、笑う。
「分かってるだろうな、お前を連れて行ったら父上が恥をかく。父上には僕がいるんだ。お前は家に閉じこもって、どこにも出るな」
それだけ言うと、弟の手を無理やり引きはがし、行ってしまった。
残されたヘイゼルは、使用人たちを振り返る。
けれど彼らは、一様に顔を背けるばかりだ。
「ねえ、ぼく、父上に認めてもらいたいんだ。何かいい方法を知らない?」
懸命に尋ねるが、答えを返す者はいない。
「ぼく、父上のようになりたいんだ。それで、兄上を支えたい。どうしたらいい?」
誰も目を合わせようとしない。
尋ねようと近寄れば、皆いそいそとその場を去って行く。
「ねえ、誰か……」
空気は静まり返り、少年は一人取り残される。
小さな子どもの声は、大きな屋敷に虚しく響き渡った。
ヘイゼルはめげなかった。
父親や兄に邪険にされながら、一生懸命声をかけた。一瞬でも目を合わせてくれれば、また会話が繋げられる。振り返ってくれるその瞬間を求めて、高い声を張り上げるのだ。
そんなことを続けていたある日、唐突に父が、口を利いてくれなくなった。
というより、ヘイゼルの言葉に全く反応しなくなったのだ。
「父上」
最初は父の耳がおかしくなったのだと思った。
けれど、すぐに兄にも声が届かなくなった。
「兄上。聞こえていますか?」
不思議なことに、ヘイゼルの声だけが聞こえていないらしい。
そのうち、二人ともヘイゼルの姿だけ見えなくなった。
ぼくは何か、変な病気にでもかかったのかもしれない。あるいは二人が病気なのかもしれない。
だとしたら大変だ。
屋敷に仕える初老の男を何とか捕まえて、医者を呼んでほしいと頼んだ。
父と兄が病気なのだ。助けてほしいと。
アルバスと名乗った召使は、顔を歪ませた。必死に頼んでも答えず、ただ首を振るだけだ。
その時ようやく分かった。
兄と父は、自分をいないものとして扱うことに決めたのだ。
それは、存在そのものを否定することと同じだった。
目の前で談笑する父と兄。
どこか遠い世界の人のようだ。
時折見てくれたかと思えば、汚いものでも見るような視線。
そうじゃない。欲しいのはそれじゃない。
「父上、兄上」
何度も、しつこく呼びかけた。
「ねえ、聞こえてるんでしょう?」
怒鳴られてもいい。罵られてもいい。
だからどうか。
「父上、兄上」
その声も、笑い声にかき消される。
ああ、ここはどこだろう。
ぼくだけが取り残されている。
この世界に、ぼくはいないんだ。
胸の中に広がって行ったのは、憎しみでも恨みでもない。
自棄にも似た、諦めだった。
ある時からヘイゼルは、声を掛けることをやめてしまった。
あくまで無視を決め込んだ当主に、召使いたちが逆らえる訳もなかった。
彼らはヘイゼルの世話をしてくれたが、必要な時以外、会話もすることができなくなったのだ。繰り返される毎日は、ひどく味気なく、色が無い。
寂しい日々を過ごすうち、何かが枯れて行くような感覚がしたが、それが何かも分からなかった。
けれど時折交わす彼らとの言葉で、ヘイゼルはなんとか、生きていることを実感出来た。
特にアルバスは、最低限の会話の中でも、優しい言葉をかけてくれた。彼は命令をきちんとこなすが、心根は優しい老人だ。
七つの時にやって来た家庭教師達も、心の支えだった。
父親はヘイゼルに家を継がせる気はなかったが、その存在は貴族にも知れていたのだ。
これ以上無知な恥さらしに育っても困ると、勉学と武術を教えることにしたらしい。理由がなんであれ、ヘイゼルは与えられたものに、真面目に取り組んだ。
父と兄に振り向いてもらうのは、もう諦めた。
いつかは家を追い出されるかもしれない。いや、追い出されるだろう。
その時のために。
得られるものはすべて、得なければならないのだ。
懸命に勉学に励み、武術を習得した。暇さえあれば、役に立ちそうな本を読み漁った。
めきめきと実力を伸ばす彼を見て、それぞれの教師は目を丸くした。
彼らが褒めてくれるのは心地よかったが、なぜか嬉しいとは思えなかった。
そうして、忘れられない事件が起きたのだ。
十四歳の誕生日を控えたある日。
ヘイゼルは家で、騎士の作法についての本を読んでいた。
その日の朝はよく晴れていたが、昼過ぎから酷い豪雨になった。
父と兄はヘイゼルを残し、狩りに出かけていた。
彼らは崖の多い森林地帯に乗り込んだのだ。
何もなければいいが、とヘイゼルは心配になった。それは家族を思ってのことではなく、この家の当主と後継ぎがいなくなっては困る、という思いからだった。
いつまでも帰ってこない二人にしびれを切らし、ヘイゼルは探しに行くことにした。
雨宿りならいいが、事故でもあったら大変だ。
あの二人に生きてもらわないと、サザーランド家は成り立たない。
使い慣れた革靴を履き、アルバスと共に森へ向かう。
この天候では足場が悪い。馬は諦め、泥道をひたすら歩いた。
二人はよほど奥まで行ったのか、方々探しでも見つからない。
雨は酷くなるばかりで、厚めの外套を羽織ってきたものの、体中が水浸しである。
「ヘイゼル様、一度お屋敷へお戻りなさっては?」
生ぬるい寒さの中、執事が気遣う声を掛けてくる。
「アルバス、付き合わせて悪いが、もう少し……」
言いかけたヘイゼルは、誰かが走って来るのに気づいた。
水音が、バシャバシャと鳴っている。
「ヘイゼル・サザーランド様でいらっしゃいますか!」
息を切らして言う男は、ずぶ濡れだった。その目はかすかに血走り、肩は激しく上下している。彼の服もまた、雨でぐちゃぐちゃになっていた。
「そうですが……どうなされました?」
嫌な予感をかき消すように、ヘイゼルは冷静な声を出す。
男は静かに言い放った。
「――お父上と兄君が、亡くなられました」
ああ、そう。
胸に落ちた言葉は、ひどく冷たいものだった。
そのことに一瞬驚いて、なぜか納得してしまった。
「……死んだ原因は?」
「崖崩れです。この雨ですから、巻き込まれたのでしょう。先程我々が発見して――」
「分かった。案内してもらえるか?」
「……はい」
男に倣い、木立の更に奥へと入って行く。
その後ろからアルバスが、そっと話しかけてきた。
「……ヘイゼル様、大丈夫ですか」
「ああ」
そう答えたが、アルバスは心配そうな眼差しを向けてくる。
「お気持ちお察しします。何かあれば、この私に何なりとおっしゃって下さい」
「ねえアルバス」
「はい」
「僕、変なのかな。本当に悲しくないんだ」
老人の目がわずかに見開かれる。ヘイゼルはそれ以上、何も言わなかった。
雨が降り注ぎ、ぽたぽたと雫が、髪から零れ落ちる。
薄い色の髪は、今や雨に溶けたように透明に見える。
自分自身が雨に――透明になってしまったみたいだ。
彼らが死んで悲しくない。
でも、嬉しい訳でもない。
ざまあみろと思うこともないし、かといって寂しさも覚えない。
何も感じない。
どういう訳だろう。
まるで心が死んでしまったみたいだ。
それから、何かが変わることはなかった。
父と兄の葬式を済ませ、彼らの代わりに爵位を継いだ。
舞い込んでくる仕事を一つ一つこなし、サザーランド家が継続することだけに努めた。
それが自分の使命であり、義務だと、なんともなしに思っていたからだ。
今まで社交界にはほとんど顔を見せなかったが、きちんと城にも通い、見知らぬ貴族に挨拶をした。
侯爵家の当主となった今、家の繁栄にだけ努めれば良い。
そんな考えのまま、王に仕えて戦地に赴き、忠実に働いた。
そのうち、女性に付き合いを申し込まれることも出て来た。彼女達の大抵は、ヘイゼルの容姿と家柄を見てやって来るのだ。断る理由もないので、そういったものは許諾することにしていた。この家を維持していけるなら、相手は誰でも良かったのだ。
彼女達の願いは、出来るだけ聞くようにしていた。欲しい物は与えたし、望まれるまま体の関係も持った。
しかし、自分から付き合ってほしいと言った女性たちは、しばらくすると必ず離れて行った。誰かが去ると新しい女性が近寄って来て、同じように去って行く。その繰り返しだ。理由はいつだって同じだった。彼女達は「あなたは私を見てくれない」と憤り、つまらない男だと言い捨てるのだ。
実際その通りかもしれない。だから仕方のないことだと思ったし、彼女達を追おうとも思わなかった。
それでも良いと思えた。本来なら、家から追い出されるかもしれなかったのだ。
屋敷に住んで、必要な仕事をこなし、同じ日々を繰り返す。
現れは去って行く女性の相手をして、家を支えてくれる相手を探す。
自分の場所があるから、それで良かった。
それなのに。
邪魔をする者が現れた。
人の仕事に勝手に割り込み、私情をぶつけてくる少女。
「あなたは伯父を殺したの。わたしが復讐するのは、当然だと思わない?」
彼女にとって、伯父は大事な人物だったのだろう。
ならばそれは当然だが、生憎その細い腕は、殺人などには向いていない。
だって今日も、剣の先が震えているじゃないか。
「大嫌いよ。あなたなんか大っ嫌い」
諦めもせず、溢れそうな涙を堪えて。
彼女は瞳に青年を映す。
ねえ、どうしてだろう。
君の目に宿るのが、殺意でしかなかったとしても。
今日も僕は、君が来るのを待っているんだ。