彩りのない出会い
家族は何度もジュリアに言い聞かせた。
嫁いだらどんな目に遭うか分からない。ヘイゼルは貴方の思うような相手ではない、と。
「優良物件」と言い出したマルグリットはひどく後悔して、自分の口の軽さを呪い始める始末だった。
それでもジュリアは頑なに同じことを繰り返した。
わたしはどうしても、あの人と結婚したいのだと。
ラドベリー家の承諾を受け取ったサザーランド家は、結婚式を挙げるまで、準備に半年かかると言って寄越した。それまで家に慣れるため、こちらで暮らさないかとも。
「未婚の男女が同じ家に住むなんて」
手紙を受け取った母親が心配そうな声を出す。
しかし、次女のマルグリッドは表情一つ変えなかった。
「未婚も何も、婚約者なんだから関係ないわ。侯爵にとっては、そういうことなのよ。……断ったとしても、聞き入れてくれないでしょうね」
そう言いながら、腹立たしそうに息を吐いた。彼女は未だに、自分の軽率さが妹を焚き付けてしまったのだと、後悔しているのだ。
そんな中、ローザは諦めたように、黙ってジュリアを見つめている。
ジュリアには、彼らの姿も目に入らなかった。
今はただ、相手の家に行けるということに、強い喜びを覚えていたのだ。
早く相手に会って、伯父の仇を討ちたい。それだけで頭がいっぱいだった。
すぐさま侯爵の家へ行きたいと伝えると、家族は驚いて止めにかかった。
それでもあんまりジュリアがしつこいので、母も姉たちも終いに折れて、渋々送り出すことになった。
別れの日、やって来たサザーランド家の馬車は、立派なものだった。
箱型の馬車は、金の縁取りで装飾されている。つながれた二頭の馬は、美しい栗毛をなびかせ、鍛えられた四肢を鳴らして歩いて来た。
しかし、妙な違和感を覚え、ジュリアは目を細めた。
よく見れば、馬車は古いものらしく、ところどころ塗装が剥げかかっている。その上、御者は浮かない顔をしているのだ。
なんともなしに胸を不安がよぎったが、それでもジュリアは出来るだけ、明るく振る舞おうと努めた。
家族を安心させようと笑顔で振り返ったが、母も姉たちも、未だに心配そうな顔をしていた。
「ジュリア、可愛い私のジュリア」
母親のヘザーは涙ながらにジュリアを抱きしめた。
「嫌になったら、いつでも帰ってきていいのよ。私達に気を使ったりなんて、しないでね」
まるでこの世の別れのような勢いだ。
家族と別れるのは、自分だって辛い。本当は寂しかったが、気丈に笑顔を作った。
つられて泣きそうになるのを堪え、笑って母に別れを告げた。
「気をつけてね、ジュリア。……侯爵、素敵な方だといいわね」
ローザはジュリアの両手を握りしめた。
彼女はいたわるような笑みを浮かべていた。ジュリアは姉の笑みが好きだった。
本当に薔薇のようだわ、と思いながら、しっかりと目に焼き付ける。
「いい? 無理しなくていいのよ。可愛いあなたに何かあったら、お母さまが倒れちゃんだからね」
きつい口調で言うのはマルグリットだ。
「ベッドに引きずり込まれそうになったら、思い切り蹴ってやりなさい。殴られたら、殴り返すの。いいわね」
言いながら、少し泣きそうな顔である。
ジュリアはそっと笑い返した。
「大丈夫よ、お姉さま。心配しすぎだわ」
御者は別れが長いので呆れている。
主人を殴るという物騒な発言に関しては、聞こえないふりをしているらしかった。
ジュリアは馬車に乗り込むと、窓の外を見た。
動き出した馬車から、三人に向かって手を振る。
せめて最後まで、笑っていようと思った。
――――嘘をついてごめんね。
彼らが思っているほど、自分は幼くない。
大好きな家族を騙すほど、ずる賢く、意地の悪い女なのだ。
本当のことを知ったら、彼らは失望するだろう。
今の自分は、婚約者を殺したいとすら思っているのだから。
――――良い子じゃなくて、ごめんなさい。
向かい風に、黒髪がなびく。
馬車は小道を抜け、侯爵の屋敷へと走って行った。
*
サザーランド家は目を見張るほどの豪邸だった。立派な外壁に、荘厳な門。
その内側には広い庭が広がり、草花が生い茂っている。きっと庭師がいるのだろう、そこでは、優しい色合いの花々が出迎えてくれた。
さらに奥に見えるのは、大きく立派なお屋敷。国王も一目置く侯爵家は、きちんと手入れされ、独特の風格を放っていた。
ジュリアは初めて見るものに驚くばかりだったが、一番驚いたのは婚約者その人だった。
「初めまして、ジュリア嬢」
現れた男を見て、ただ「薄い」と思った。
彼は文字通り、何もかもが薄かった。肌は透けるように白く、髪は陽光に当たって、金にも銀にも輝いた。
名前通り、ヘイゼル色の瞳は、光の角度によって緑や灰色に色を変えた。
天使、と姉が言っていたのを思い出した。
確かにそうかもしれない。考えながらも、ジュリアは彼を睨まないようにするので必死だった。
この男がウォーレンを殺したのだ。
「初めましてヘイゼル様。ジュリア・ラドベリーと申します。今日より、ここで共に暮らすことになりました」
なけなしの金で新調したドレス。その裾を持ち上げ、ジュリアは丁寧に頭を垂れた。
けれど、帰って来た声は何の感慨もないものだった。
「よく来てくれたね。――挨拶はこれくらいにしようか。荷物は運ばせて置いたから、部屋で休んでいいよ」
驚いて顔をあげれば、ヘイゼルは既に背を向けていた。
ジュリアは慌てた。いずれはきちんと話す機会を作り、ウォーレンを殺した時のいきさつを聞き出したかった。そのために、少しでも近づいておきたかったのだ。
「へ、ヘイゼル様、お待ち下さい」
「悪いけど忙しいんだ。君の部屋は用意してある。そこでゆっくりくつろぐといい」
ジュリアは呆気にとられた。
自分だって本心を隠して嫁いできたが、友好的に接しているのだ。
婚約者にその態度はないだろう。
「あの、ヘイゼル様……」
「もう少し後で言おうかと思っていたんだけど、やっぱりやめだ。……せっかく来てくれた君に対して、失礼だからね」
そう言うなり、彼は振り返った。その雰囲気は、先程までとは違うものだ。
穏やかで紳士的な優しさは消え、ただ事実だけを見るような、揺らぎのない空気を纏っている。
ジュリアはわずかにたじろいだが、動揺を隠さないように背筋を正した。
ヘイゼルはこちらを見つめ、真面目な声で言った。
「僕の婚約者になるなら、それ相応の覚悟をして欲しい。若い君には厳しいことかもしれないが、敢えて言わせてもらう。……今から冷たい事を言うけれど、聞くことはできるかい?」
突然何を言い出すのだろう。今度こそ声をあげそうになったが、ジュリアはぐっと押し黙った。肯定を示す代わりに、彼の目を強く見つめる。
ヘイゼルはそれを見ると、おもむろに口を開いた。
「もし僕と結婚するなら、家族と縁を切ってくれ」
ジュリアの目が、揺らいだ。
それを予測していたように、彼は冷静な声で言う。
「この縁談は、訳があって申し込んだものだけど……正直、君の家族にこれ以上関わることはできない。ラドベリー家のことは裏できちんと支援する。けれど表上は、縁を切って欲しいんだ」
「な……」
そんなこと、なぜ今になって言い出したのだろう。あの手紙には、縁を切れなどとは一つも書いてなかったのだ。
「そんな大事なこと、どうして先に伝えてくれなかったんですか?」
やっと声を絞り出したジュリアに、ヘイゼルは表情も変えずに続けた。
「言ったら、誰も嫁いで来なかっただろう。僕はある事情で、表面上はラドベリー家と縁を切り、裏では支援をしなければならなくなった。その事情を説明することは、今はできない。……君も覚悟を持って嫁いで来たなら、分かるだろう?」
政略結婚に、裏の事情は付き物だ。ここへ来たならそれを察して、余計な詮索をするなと言いたいのだろう。
しかし、だからと言って、はいそうですかと受け入れられるはずもない。
この男は根本的に、自分と考え方が違うのかもしれない。納得できないジュリアは、すかさず彼を見据えた。
「分かりません。婚約者のわたしにくらい、きちんと説明して下さい」
その言葉を聞くと、彼は面倒くさそうな表情になった。
「……なぜ末娘を寄越したんだ。年上の娘がいるなら、そちらの方が物分かりもいいだろうに」
半ば独り言のように言うが、本人の目の前で言う時点で、聞かれて問題ないとでも思っているのだろう。
大した婚約者だ、とジュリアは思う。
彼は二十を過ぎている。それに対して、自分はまだ十六。確かに子どもに見えるのかもしれないが、自分だってそれなりに覚悟を持って来ているのだ。
「わたしではご不満ですか?」
なんとか丁寧な口調は保ったが、言葉の端から怒りが滲み出てしまう。
怒りを抑えるジュリアを、ヘイゼルは一瞥した。
「不満な訳じゃないよ。むしろ、君に問いたい。本当に嫁ぐつもりなのか、と。……言っただろう、このまま僕との結婚を選ぶなら、家族と縁を切ってもらう。もう彼らに会ってはならないし、手紙のやり取りもしては駄目だ。結婚式はサザーランド家のみの親戚が立ち合い、彼らが入ることは許されない」
ジュリアは絶句した。あまりのことに、声が出ない。
淡々と、言葉が降って来る。
「とにかく、これは僕一人でどうこう出来る問題ではないんだ。……それでも僕と結婚するか? 嫌なら家族の元へ戻っても構わない」
脅している訳でもなく、同情している訳でもなく、ただ当然のように彼は告げる。
しかしそこに、選択肢などなかった。
この結婚は、ラドベリー家の未来がかかっているのだ。
ジュリアが断れば、ラドベリー家は支援を受けられず、潰れてしまう。
代わりに、二人の姉のどちらかがこちらに嫁ぐことになるのだろう。いずれにせよ、ヘイゼルと結婚した娘は、家族と縁を切ることになるのだ。二人のどちらかを犠牲にするなど、ジュリアには出来なかった。
つまり、この話は、最初から断ることなど出来ないのだ。
そしてそれを、彼もきちんと知っている。
黙ったままのジュリアを、ヘイゼルは静かに見下ろした。
「君はまだ幼い。辛いなら、姉に代わってもらうことも許されるはずだ」
「いいえ」
ジュリアは答えた。
「わたしはあなたと結婚するわ。もう決めたことだもの」
この状況を生かせばいい。ジュリアはそう考えることにした。
家族と縁を切るのは、とても辛い。けれど、よく考えれば元からそうすべき事柄だったのだ。
選択なんて出来る立場ではない。だって自分は、この男を殺しに来たのだから。
もし本当に彼を殺すのであれば、実家に迷惑がかかることは間違いない。できれば犯人が分からないようにするつもりだが、もしジュリアの仕業だとばれてしまえば、ラドベリー家は今度こそ、本当に潰されてしまうだろう。
ジュリアは一つ息を吐き、ヘイゼルを見据えた。
何を今更、恐れているのだろう。
この復讐のためならば、すべてを捨てられるはずだった。
ウォーレンの仇を討つためならば、なんだって出来るはずだった。
自分の復讐に、家族を巻き込んではいけない。
もともと、縁を切るなど当然のことではないか。
「……君がそれでよければ、いいんだ」
おもむろに、ヘイゼルが言った。
「それじゃ、言った通り、もうラドベリー家の人と関わっては駄目だよ。僕からは、彼らに関わりを絶つように、手紙を出しておく。侯爵家の命とあれば、逆らえないだろう。――その代わり、君はこの家で何をしてもいいから」
言い聞かせるように彼は告げる。ジュリアは静かに頷いた。
婚約をきちんと承諾したのだ。これからいくらでも、傍にいるチャンスはある。
だからこそ、彼が殺すべき相手か、きちんと見極めようと思った。
自分だって、好きで殺しがしたい訳じゃない。
彼がウォーレンを殺したことに、何か理由があるなら。自分のしたことを悔いているなら。ジュリアが無闇に手を下す必要もないのだ。
「――それにしても、よくここへ来たね。君の勇気に感謝するよ」
おもむろにヘイゼルが言う。その表情は、ガラス細工のように精巧で、少しの揺らぎもなかった。
ジュリアは目を細める。彼がまったく、感謝しているように見えなかったからだ。
会えばどんな男か分かると思っていたが、この調子では、その考えを見抜くことも難しいと思えた。
彼がなぜ家族と縁を切れと言ったのか、ジュリアをどう思っているのか、その表情からはさっぱり分からない。
「試すようなことを言って悪かったね。僕はただ、君がこれからやっていけるかどうか、確認したかっただけなんだ」
抑揚のない声で、彼は言う。
「でもこれで、少し安心したよ。君は正式に、僕の婚約者になったという訳だ」
その瞳は何を見ているのだろう。
――――何も見ていないんじゃないかしら。
ジュリアはそう思いながら、ドレスの裾を持ち、静かに礼をした。
「恐縮です、ヘイゼル様」
ジュリアはそっと目を伏せた。
結婚に、甘酸っぱい夢を見ていたこともあった。その相手は、いつも優しい伯父だった。
でも今、自分の目の前にいるのは、全く別の男だ。
初恋の相手はもういない。この男が殺した。
二人の間の空気には、何の色もついていない。
ただ無味無臭の、淡々とした時間。揺らぎもない、無感動な世界。
それが二人の生活の、幕開けだった。