降り続ける六月の雨に、花は散る―― 1
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白いキャンパスが少しずつ、桜色に染められていく。
それを俺はただ、見つめていた。
桜色が示すのは花、淡い桜色の花――桜。
鉛筆で下書きされた線に沿って、絵筆は走る。重なる色。それはパレットの上の幾重の色を塗り込められて描かれていくものだった。例え同じ色に見えてもそれは違うものであり、それが僅かに色彩を変化させていく。
それはまるで紙の上に描かれる――魔法のようで。
そんな魔法を描くのは初老の女性。その女性の握る筆。視線は庭先に花を咲かす桜の木へと向けられている。
キャンバスの三分の一程が染まったところで、女性が筆を止めると溜息を吐いた。
「今日はここまでにしましょうか――」
俺の方を振り返る。
「お疲れ様です!」
家の縁側に座ってイーゼルを立てていた女性に、廊下から淹れたお茶を差し出す。
「ありがとう、殻木田君」
彼女――天羽桜さんが湯呑を受け取る。
今、俺がいるのは彼女の家。
「それにしても凄いですね!俺、こんな風に綺麗に絵が描けないから、本当にそう思います!」
キャンバスを見つめて言う。
「ふふ、ありがとう。殻木田君は美術が苦手なの?」
「そうですね……小学生の時からマル以上が付いた事ないですし、よく頑張りました、以外のコメントが書かれた事もないですね」
「まあ、そうなの?」
この間も学校の授業の時間に、クラスメイトの女子と向かい合ってデッサンをした。出来上がった後で、言われた事。
わたし、こんなに人相悪く見える?
自分としては上手く描けたつもりだったので、幾らか凹んだりもした。
まあ、その程度の腕前だ。
そんな話を天羽さんにすると、彼女は楽しそうに笑いながら聞いてくれた。
天羽さんの家からは俺達以外の声や物音はしない。
この家には天羽さんひとりが住んでいる。彼女に家族はいない。子どもご主人も、既に亡くなったそうだ。
俺も彼女とは親族といった繋がりは無い。
少し前に道で多くの荷物を運んでいて困っているのを見て、声を掛けて家まで送り届けた事で出来た縁でしかなかった。
それ以来時々、放課後に家を訪ねるようになった。
何故なら、天羽さんが――心配だったからだ。
アラームが鳴る。
「あら、時間かしら?」
そう言うと天羽さんは洗面台に向かいコップに水を注ぎ、錠剤と共に飲み込む。
一時期、ずっと病院にいた俺は知っている。その錠剤はかなり強いものだ。
本人からも聞いたけれど、かなり身体を悪くしているそうだ。それでも入院せず、この家にいる事を望んだ。
天羽さんは悟っているんだと思う――自分の死期が近い事を。
ここにいる事を望んだのは、彼女の意思なんだと思う。
「殻木田君?」
戻ってきた彼女が声を掛ける。
天羽さんの声に、沈みそうな気持ちを切り替えて笑う。
多分、俺に出来る事なんて無いと思う。
それでも――何かしたいと思う。
せめて、気に掛けていたいと思う自分がいた。
「そろそろ帰りますね!」
普段の学校での事を話していて日が傾いてきた頃、お暇する事にした。
「もうそんな時間なのね、誰かといると時間が過ぎるって早いものね!」
居間を立って向かった玄関で、天羽さんに見送られる。
「さよなら!その……また、来ます!」
「いつも、こんなお婆ちゃんの為に時間を取って貰ってありがとうね。若い人だから、同じくらいの友達と遊びたい年頃だと思うのに」
「いえいえ、天羽さんと過ごすのも楽しいでから!」
そう言ってから家を出た。
◇
六月も後半の街を歩く。梅雨に入って雨も多い季節。夏も近く、暑さも感じるこの頃。そんな街ではアジサイが咲いていた。
そう、今は六月だ。
だが最近、ふとその事を忘れそうになる。
何故なら今、この街では季節外れの桜が街の至る所で花開いているからだ。
天羽さんの家にも桜の木が咲いていたが街に出れば、より多くの花を目にする事になる。
淡い桜色に染まる街。
季節外れの開花。原因は不明。その事で街の話題は持ちきりだった。全国版のニュースでも取り上げられたし、近く専門家も来て調査をするそうだ。
ただ、先輩達は難しい顔をしていたっけ。
もしかして、これも怪異なのだろうか?
いやでも俺としては人に害を成さないようなら、こんな綺麗な怪異ならあってもいいんじゃないかと思う。
そんな事を考えながら歩き続けていると、そのひとに出会った。
腰まで伸びた艶やかな黒髪。整った顔立ちに細い手足。物憂げな瞳。それらが醸し出す浮世離れした雰囲気。
「先輩――」
「――殻木田くん」
――魔女である先輩に。




