自身を殺す、その棺 8
6
月を跨いだ6月の最初の日曜日。
山岡の個人戦の日。
俺は大会の行われる街の体育館に来ていた。
けれど少し早く過ぎてしまったようで、まだ開会式も始まってもいなかった。
コートの上では大会に出る選手達が、ウォーミングアップをしている。
「すみません。折角、朝早く来てもらったのに待たせてしまって……」
応援席で、俺の隣りに座る人に声を掛ける。
「そうね。休日に久しぶりに早く起きたから、まだ眠いわ……」
俺と同じように制服姿の先輩が、口元を隠しながら欠伸をする。
コートを見つめながらも、軽く船を漕いでいた。
これは申し訳ない事をしたかな、と思った。
何か飲み物でも買ってきてあげようかな?
「先輩、何か飲みたいものあります?」
「それなら、ココアをお願い」
席を立って自販機を探しに廊下に出たところで、道着姿の山岡と会った。
「おはよう、殻木田君。来てくれたんだ!」
「おはよう。そりゃ、来るさ。約束したから!」
そう答えると山岡は笑ってくれる。
「ところで山岡。山岡の試合って、いつ頃始まるんだ?」
「そうだね、試合の進行ぶりにもよるけど、後一時間くらいかな?」
それなりに長いな。俺も飲み物を買う事にした。
「そっか、その山岡、試合頑張ってね!」
「うん、折角来てくれたんだから、いい所を見せられるように頑張るよ!あっ、そう言えば僕が出るコートと何試合目かは知ってる?」
「いや、ごめん知らない……」
「そうだよね、殻木田君達はプログラムも持って無いしね」
山岡が答えてくれる。それから少し遠慮がちに聞いてきた。
「ちょっと殻木田君、聞いてもいいかな?」
「何かな?」
「……殻木田君の隣りの席に座っている人って確か、ウチの学校の生徒会長だよね?その、君とは……どんな関係なの?」
「え?」
一瞬、呆気に取られた。
今まで考えた事が無かったけど、先輩と俺ってどんな関係なんだろう?
友達?先輩、後輩?
あるいは――
分からん。
「ごめんね、変な事を聞いて。その前に噂で聞いたことがあるんだよね。ふたりが夜の街を一緒に歩いていたとか。でも会長は結構、色々な逸話のあるひとだし。殻木田君がよく生徒会に出入りしているのは、何か弱みを握られて手伝いをさせられているんじゃないかな、とウチのクラスでは言われているしね」
俺と先輩って周りからは、そう見えていたんだ……。
ちょっと考えてから、こう返した。
「んと、そうだね。先輩には少し前に助けて貰った事があったんだ。その恩返しに普段、手伝いをしてるんだよ。今日も生徒会の仕事の内のひとつ、剣道部の視察でたまたま一緒になったんだ」
「そう、なんだ?」
山岡はイマイチピンとこないようで、首を傾げる。
まあ、デタラメですから。
大体、先輩はいつも仕事なんか殆どしない。
「あっ、でも――」
俺は付け加える。
「先輩は多分みんなが思っているよりもずっと色々な表情をする――可愛いひとだよ」
「えっと……」
山岡がなんだか、困惑してる。
「君と会長って、結構深い仲なのかな……」
「ど、どうかな……」
俺は頭を抱えた。
飲み物を買って席に戻った時には、開会式が始まっていた。
まあ、年を取った先生の話があったりして色々だ。
開会式が終わると、直ぐに試合が始まる。
その様子を先輩と一緒に見る。
コートの上で防具を付けた多くの選手達が竹刀を構える。
そして、互いに打ち合う。
響く竹刀の音。
――懐かしいと思った。
剣道をしていた頃が。
家族が――お父さんが、お母さんが、妹がいて、俺がいて。
時々、選手に選ばれて試合に出て。
勝つこともある、負けたこともある。
それが嬉しくて、悔しくて。
それでも家族や同じチームメイトに励まされて。
ただ、剣道にひた向きに打ち込んで。
俺も昔は、あそこにいたんだ。
色々な想いをしながらも、懐かしい試合場の上で剣道をしていたんだ。
試合は残酷だ。この日のためにどれだけ練習をしてきても、負けてほんの数分で終わってしまう事も多い。
剣道は数十秒の場合もある。
それだけで練習に打ち込んできた時間も、時々友達と遊びたくなったこともある時間も、その想いの何もかもが断ち切られてしまう。
それでも俺達はあそこに立つことを夢見て、強くなろうとしていたんだ。
――それなのに、今の俺には遠い。
どんなに願っても家族がいた時には、剣道をしていた頃にはもう戻れない。
だから俺は、ひとの為に何かをすると決めたんだ。
――そうして竹刀を置いて、あの場所から遠ざかっていったんだ。
今、目の前でも選手達は勝って喜んで、負けて泣いて。
ただ、その事だけが試合の結果として繰り返されていくんだ。
まるで淡い夢のように。
けれど、夢を見るように剣道を続けていくんだ。
――今の俺は、きっともう夢を見れない。
あんな風には。
遠い、遠いんだ。
ただ、ずっと。
そう感じてしまうんだ。
「殻木田くん」
「……先輩、どうしたんですか?」
不意に先輩に呼び掛けられる。
「あなた、泣いているわ」
「え……?」
自分の目蓋に手をやれば、冷たい滴を感じた。
俺はいつの間に泣いていたんだろう?
「どうしたの?」
先輩が心配そうに俺を見る。
「自分でもよく分からないんです」
「分からない?」
「みんなの試合を見ていたら、眩しいって思えたんです。試合をして負けて泣いている選手だっているのに、こんなのダメですよね。それでも自分が剣道をしていた時のことを、まだ家族がいた時のことを思い出してしまって」
「――幸せだったのね、その頃は」
俺は頷く。
「きっと幸せだったんです。ただ幸せだったんです。その事に失くしてから気が付くくらいには」
先輩は静かに俺の話を聞いてくれる。
「だから今、試合に出ている選手達が眩しく見えてしまって。そう感じたらいつの間にか泣いていたんです」
「みんなが遠くに感じてしまうのね」
「そうかもしれません。けれどそれは――普段、学校にいる時も同じような気もします。みんなの輪の中にいても、そんな事を感じる時があるんです」
例えば、クラスでみんなと楽しく話している時。
例えば、みんなと放課後に遊んでいる時。
ふと、俺はみんなと同じように笑えているのか分からなくなる時がある。
ここにいてもいいのだろうか、と思う時もある。
「俺は弱いのかもしれません……」
いつまでも、昔の事に捕らわれていて。
「そんな事はないわ」
「先輩……」
「あなたは十分、強いわ。そんな風にみんなに眩しいままでいて欲しいから、あなたは誰かの為に何かをしたいのでしょう。今みたいに――」
「でもこの間、山岡にも言われたんです。普通は友達になってから、親しくなってからする事だって。俺は少し、おかしいのかもしれません……」
そう呟く俺に先輩は――そっと手を重ねた。
「――私は知っているから、そんなあなたを。知っていても、こうして傍にいるから」
重ねられた先輩の手は、どこまでも温かった。
本当に泣いてしまいそうなくらいに。
先輩はいつだって俺に優しい。
そんな先輩は俺の事をどう思ってくれているのか、気になった。
そんな事を考えていると、試合場に防具を付けた山岡の姿が見えた。
面を付けているので顔は分からかったけど、背格好と雰囲気、垂れに書かれた名前で分かった。
――山岡の試合が始まる。




