機知の刃 9
5
境ふたみとの占いから数日後、私は制服のまま自室にずっと引きこもっていた。
壁を背に、ベッドに腰かけ頭から毛布を被っていた。身体を覆う毛布からはみ出ている右手を見る。
右手に握られているのはナイフ。
大型の刃の付いた――カッターナイフ。
「ははは……」
ナイフを見て嗤う。右手が震え出す。カッターナイフの刃が、カーテンで閉じた窓の隙間から零れた茜色が当たって鈍く紅く光る。
私はまだ決意出来ていない。決意出来ない。
――境ふたみの言葉の通りに、人殺しをする事を。
遠く、遠くセミの声が聞こえる。夏。夏休み。学校は終業式を迎えて夏休みを迎えた筈だ。時間の感覚は、部屋の中の生温い空気のように曖昧だった。眠くも無い。喉も乾かない。お腹も空かない。
私はグルグルと考え続ける。人殺しをする、その理由を。
温い空気の部屋には無音。誰も訪れない慣れた無音。
私は何より、その無音が怖い。
◇
――夢を見た。
私はアイドルだった。
落ち目のアイドルだった。かつては拍手喝采の中に罵詈雑言が少し混じるくらいだったのに、転落するにつれて罵詈雑言だけが聞こえるようになった。
辛辣な言葉を浴びせられる事に、身に覚えはあった。それでも思う、私がどうしてそんな目に遭わないといけないのか?
けれど私を照らしていたスポットライトが遠ざかると、そんな声すらも聞こえなくなる。
流行りの服を着て、流行りの歌を歌っても客席には誰もいない。
私の声はもう誰にも届かない。私をもう誰も見てくれない。
「誰か、誰か……私を見てよ!」
無音。私は泣いた。泣き続けた。
やがてふと、気づく。客席にナニカがいる事に。
泣きはらした目蓋を擦って、それを見る。
そこにはいたのは怪獣の貌をした――〝私〟だった。
◇
目を覚ます。
いつの間にか私は、意識を手放していたらしい。額を拭うと、冷たい汗を掻いていた。私は一体、どんな夢を見ていたんだろう?
茫と部屋の中を見る。目を閉じる前と何も変わらない。あるのはいつだって変わらない無音。
耐えきれず叫び出しそうになる、この静寂を壊したくて。
まるで私が〝無〟になったみたいだった。いや違う、私は最初から両親にさえ関心を持たれない〝無〟の存在だった。
そんな私に――何が残っている?
部屋の机の上のパソコンを見る。
ネット上に書かれた作品に対する罵詈雑言だけ。
うるさい、うるさいんだよ!色々な言葉で、考えで私を責めやがって!
どうして、どうして私を褒めてくれないの?褒め称えてくれないの?
どうして、私を好きになってくれないの?
私に、何が足りないの?
どうして、古谷千鶴のように〝ホンモノ〟に私はなれなかったの?
誰か答えてよ!誰か教えてよ!
分かってる。私には何かが致命的に足りないんだ。
だけど、それでも私は――
――強く手の中のカッターナイフを握りしめる。
特別にならなくちゃいけない。
ううん、ホントウはそんな事さえどうだっていいの。気が付いてしまった。
パソコンの横の怪獣達を見る。怪獣は理不尽な暴力の形だ。
ただ、この胸の中にある言いようのない想いを私は――
――嗤う。
頭がスッとモヤの晴れたように冷静になっていく。
私は決めた。もし誰かが、この家のチャイムを鳴らしたのなら、訪れたのなら。
勧誘だろうが、配達員だろうが、両親だろうが誰でも構わない。
――私は誰かを殺す。
そう思うと、世界が変わって見える。世界が私の手の中にあるように思える。
まだか、まだかと待つ。チャイムが鳴るその時を。
ピンポーン。
鳴った、鳴ったぞ。おあつらえ向きに。私は静かにベッドを降りる。呼吸さえ殺すようにして部屋を出て、廊下を歩いて玄関を目指す。
ピンポーン。
またチャイムが鳴る。
カッターの刃を伸ばす。キチキチと音を立てながら。
誰であろうと構わない。私に迷いはない。
暮れの世界は紅い。紅くて私にはそれ以外の色が見えない。
利き手の右手で持ったカッターナイフを背にして隠し、左手で玄関を開ける。
肉食獣が獲物を待つように。
だが、そこにいたのは――
――酷く冷たい目をした制服姿の古谷千鶴だった。
その手には暮れの空の紅よりも、血のように紅い不可思議な刃が握られていた。
その刃を古谷千鶴は振り被る。
「え……」
あまり唐突で、何もかもが幻のようで理解出来なくて、反応出来ない。
そして不可思議な紅い刃は、私の頭へと寸分狂いなく振り下ろされた。
◇
――夢を見た。
いや、見ていたのかもしれない。気が付くと私は玄関で倒れていた。
なんで玄関で倒れていたのか分からない。ただここ数日間、何も口にしていなかったかのようにお腹が空いていて、喉も乾いていた。
冷蔵庫から適当にパンと牛乳を出して部屋で頬張った。
ここ数日、何をしていたんだろう。考えてみても頭にモヤの掛かったようにぼんやりとして思い出せなかった。
喉とお腹を満たした後、パソコンの前に座る。執筆をしようかと思ったけれど、その気が起きなかった。
そもそもなんで私は、作品を書いてネットに上げようと思ったんだっけ。
思い出せない。
可笑しな事に今日は分からない事だけだった。
いつの間にか、紅い夕暮れは過ぎて夜の帳が下りていた。
〝私〟って何だっけ?
分からない。分かりようもない。
ただ机の上に置かれた怪獣達と、カッターナイフだけが〝私〟にとって確かなものだった。
機知の刃 了




