美醜の庭 19
縄が解けた後、私は身体を動かそうとしたけれど、やはり上手く動かない。
「身体が動かないの?」
「ええ、上代啓二に〝何か〟されたみたいでね。もしかしたら上代啓二は〝能力者〟かもしれない」
「啓二さんが……?」
藤原文香が、少し驚いた顔をする。
「気が付いていなかったの?まだ、どういうチカラかは分からないけれど、その可能性があるのよ。だから、私はここに拉致されてきた」
「この二か月間では、その素振りは感じなかったの……その時の事を、詳しく話してくれないかしら?」
私は深夜の公園で、上代啓二に遭遇した時の事を話す。意識の無いまま公園に来ていた事や、上代啓二の声を聞いて身体の自由や意識を失った事を。
「……そんな事があったのね。私が夜にこの家を訪れてから、暫くして啓二さんが意識の無いあなたを抱えて連れてきたのよ。一時くらいだったかしら。一目見て、あなたである事には気が付いたの。ただ何があったのかを聞いてみたんだけど、それとなくはぐらかされるばかりで結局、その後はふたりで寝室で朝まで過ごしたの……十時半頃に目が覚めてアトリエを訪れたら、縛られたあなたがいた……」
彼女が腕を組んで考え込む。たが直ぐに合点がいったようだ。
タダの一般人が、魔法を使える魔女を軽々と拉致するのは難しい。ならば、どうやって?
私は彼女の話から、この家に攫われてから経緯を推察してみる。
深夜にこの家に攫われてきた私は、縛られてこのアトリエに目が覚めるまで放置されていたのだろう。
ある意味……彼女がこの家にいてくれて良かったと思った。そうでなければ、夢で見たような凌辱を受けていたかもしれない。
二人とも暫し考え込んでいると、どこかで携帯のようなバイブレ―ションが震える音が聞こえた。
私の携帯では無い、私は持っていない。その振動に反応した藤原文香が、履いているスカートから携帯を取り出す。
「あら、いやだ」
「どうかしたの?」
そう聞くと携帯のメールの着信履歴を、わたしに見せながら彼女は言った。
「あのひと……この街のもうひとりの魔女からだわ。あなたと話込んでいて気が付かなかったけれど、直ぐに連絡を寄越すように、と催促のメールが何件も来ているのよ。どうやら、失踪したあなたの事を巡って、あなたの街の魔女と一悶着あったみたいね……やはり、先程の魔法による干渉は……」
やはり、千鶴だったようだ。それにしても、かなり迅速に行動を起こしたものだと思った。魔女との不律文の事を考えると、かなり強引な気がするが。
まあこんな時だから、ありがたくは思うとしよう。
携帯を見た彼女が、それからワザとらしく溜息を吐いた。
「本当に……年貢の納め時のようね。どう言い開きをしたものかしら…有罪である事は確定しているけど……」
「多少の情状酌量はあると思うわ。私も何か証言はするつもりだし」
「そう……ありがとう」
そう言って藤原文香は、静かに笑った。
「でも、その前に啓二さんの〝チカラ〟について何か確信を得たいわね。それも……わたしの責任だから」
藤原文香が部屋の周囲を、手掛かりを探すように見渡し始める。
その姿に、少し前まで私に見せていた涙や弱弱しさは無かった。
今の彼女の姿こそが本当の、普段の有能な魔女としての彼女の姿なのだろう。
私は願う。魔女としては過ちを犯してしまった彼女が、これからは少しでも〝ひと〟として幸せである事を。
それを望む事が、そんなにも罪な事だろうか。
動けない私は、目だけで部屋の中を見渡す。
厚手のカーテンに窓が覆われて、僅かな光だけが差し込むこの薄暗い部屋にあるのは、やはり工具や絵の具やペンキといった塗料の類だけ。
それから、不気味な像だけ――
――ふと、鼻に付くような臭いを嗅いだ。
塗料の類が出す独特の臭いの中に。
――それは、上代啓二からも嗅いだ死臭。
「この部屋には、特に変わった所は無いみたいね……」
一通り見渡した後、藤原文香は言った。そんな彼女に私は問い掛けた。
「ねえ、この部屋――何か臭わない?」
彼女は私を不思議そうに見る。
「いえ、特には。ただ――甘い林檎の臭いはするけど」
「林檎――?」
私は思わず聞き返す。
「ええ、塗料の臭いに混じって林檎の香りがするわ。前にここで啓二さんから、赤い林檎を食べたせいかもしれないけれど。『甘い香りがするだろう?』って言われて」
「……」
一度、目を閉じてから私は言った。
「私に嗅ぎ分ける事が出来るのは死臭だけ――そう、あの男の身体からも嗅いだ死臭だけ」
そして、それが漂ってくるのは――あの不気味な像からだ。
私の視線の先を見た藤原文香が、少しずつ像に歩み寄った。
「わたしには、やっぱり甘い香りがする。でも――」
慎重に像に触れて、注意深くそれを撫でていく。
「――!」
先程、上代啓二が丹念に白く塗り込んでいた腕の箇所に触れた時、彼女の顔が変わった。何でも感触を確かめるように、その部分に触れる。
藤原文香の顔が驚きと焦燥に染まっていく。
「まさか、これは……」
「どう…したの?」
そう聞くと、彼女は堪えかねたように叫んだ。
「これは……手なのよ!作りモノなんかじゃない、ホンモノのニンゲンの手なのよ!」
彼女が嫌悪感のままに像の手を強く叩いた途端、その手が床に落ちた。
グシャリ――と生々しい感触を伴って。
落ちた白い手の接続面に見えるのは、赤黒い肉と血。
「ああ……」
戦慄に彼女と私が背筋を震わせた時だった。
「――やはり〝こう〟なったか。まったく予想通りで期待を裏切ないな。いやはや、失望を覚える程に」
昏い闇から忍び込んで来たかのように、上代啓二があまりに平静な声のまま現れた。




