美醜の庭 16
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「――それじゃあ殻木田君、始めましょうか」
俺でも、虚木先輩を見つける事の出来る手段を用意すると言って部屋を出てから暫くして、古谷先輩が戻ってきた。水を張った金属製の桶と人の形をした白い紙、それに硯に筆や墨汁を持って。
「……」
「ん、どうしたの?なんか怪訝な顔しているわね。大丈夫よ、あなたの〝心掛け〟次第だけど、まあ、見つけられるとは思うから」
そう言うと古谷先輩は、空いている机に持ってきたものを置いてから座る。
……いや、うん。魔法の事については余り分からない事も多い。しかし少し拍子抜けしたというか、水の入った桶と紙、それから習字セットの類だけで本当に虚木先輩を探し出せるんだろうか?
そんな俺を余所に、古谷先輩は人形の紙に墨で一筆する。
書かれた文字は――虚木小夜。
達筆な文字で書き終えると、その紙を水で満たされた桶に浮かべた。紙は木の葉のように、水の中に沈む事無く浮かぶ。
「これで準備は出来たわ。さあ、こっちに来て。これからやり方を説明するから」
「あ、はい」
胡乱げなまま手招きされて、古谷先輩と机を挟んで座る。
「これは水式というやり方だけど、至ってシンプルよ。ただ水に浮かぶその紙に触れて、小夜の事を思い浮かべるだけでいい」
「本当にそれだけでいいんですか……?」
俺の問いに古谷先輩は頷く。
「拍子抜けした?でもね、今のあなたに出来るとしたら、この方法だけ。それにね、シンプルな分だけ〝想い〟の強さが要求されるから案外、難しいやり方でもある」
「それはつまり……」
「殻木田君の小夜への想いの強さ、深さが鍵になる」
その言葉を聞いて、俺は頬の傷を掻いた。
確かにシンプルだ、魔法の事をまだまだ知らない俺でも分かる。このやり方で先輩を探し出せるかはまだ分からないけれど、要するに俺が先輩をどれだけ想っているかが重要なのだ。
(想いの強さ、深さが鍵か……)
それは確かにこれまで触れてきた怪異や、虚木先輩から聞いた魔法の本質と同じものだ。
しかし、そこでふと思い当る。
「それなら、古谷先輩の方が適任じゃないんですか?いや、分かってはいるんですよ、魔女同士の不律文の事は。あくまで、その事を抜いての話ではあるんですが」
そうだ。あくまで探し出すだけなら幼い頃からの付き合いがあり、今でもこうして魔女として組んでいる古谷先輩の方が適正だとも思う。
そう言うと、古谷先輩は一度、両の手で顔を覆うようにして何かを呟くと、俺に対して不敵に笑いながら言った。
「あれ、自信無い?小夜との付き合いはアソビだったの?それとも、小夜の境遇に同情しただけだったとか。小夜の方は殻木田君に、あんなに入れ込んでたのにねえ。薄情なのね、案外」
その言い様に、俺は危うくプッツンしかけた。
取りあえず色々と思う事は、今は脇に放り出して、このやり方でやってやると決めた。こんにゃろう。
「――きっと、今の小夜と一番、深く繋がっているのは…わたしじゃないから……」
◇
「心を落ち着かせて。まずはただ、小夜の事だけを考えて――」
「はい……」
古谷先輩に言われた通りに目を閉じる。
水の張った桶に浮かぶ紙に、目を閉じて触れる。手の平が濡れる感触を覚える。微かに冷たい。
水式という魔法に挑む俺の心は、古谷先輩にからかわれた割には案外、凪いでいた。
いや、その事でこのやり方に対する疑念が薄らいだからかもしれない。
目を閉じた暗闇の中で、虚木先輩の事だけを考える。
出会ってからこれまでの事を。
笑っている先輩。泣いている先輩。怒っている先輩。物憂げそうに見えて、怠惰なだけの先輩。デートをしている時に、すこし顔を染めて腕に抱き付く先輩。
俺が知る俺だけの先輩の事を。
そうして思い返すと、やはり不安が過ぎる。先輩は、何処に行ってしまったんだろうか?何処かで、酷い目に遭っていないだろうか?
「殻木田君、小夜の事を考えて不安になるのは分かるけど、その事に心を囚われないで。手が震えて、水が波立っている。心を静めて集中して」
「分かりました……」
古谷先輩の言おうとしている事は分かった。虚木先輩を想う事以上に、不安に心を縛られてはいけない。それは疑念と不安だけで、心を一杯にしてしまうから。
「そう、その調子。小夜の事を思い続けて、その後に何も思い浮かばなくなったら、その暗闇の中に静かに言葉を投げ掛けるように思って。小夜は何処にいるのかと――」
「……」
先輩と思い出が、映像のようにしてひとしきり頭を過ぎる。
その度に、その時の想いも甦る。
けれどそれが終わると心の中には、閉じた目蓋の中には再び闇が訪れる。
そうして何の感情も湧かなくなり、ただただ静寂が支配する。
その心の在り方は、例えるのなら深い眠りに落ちる時に、あるいは目覚める前に似ているかもしれない。
ただ意識はあっても、何も心には浮かばず喜びも悲しみも感じない時のような。
そんな凪いだ水面のような心の中で、その事だけを一度考える。
――先輩は何処にいるのだろう?
ひたり、何処かで水の一滴が落ちるような音を聞いた気がした。
「――っ!」
その途端、頭の中に突然、映像が浮かんだ。消していたテレビを点けた時のように。
街の中、住宅街にある洋館のような建物が見えた。
大きな二階建ての洋館で、昼間なのにも関わらず、全ての部屋の窓のカーテンは閉められている。
その周囲に見える景色はありふれたものだ。
けれど、その中には線路と特徴的な何かの施設から生える煙突が二本見える。
それから、最後に洋館の中が見えた。一階の左端にある部屋の中に視界が、入り込んでいく。幽霊にでもなったかのように壁をすり抜けて。
その部屋の中に――先輩がいた。
様々な色のペンキや絵の具の散乱する部屋。その中にある椅子に先輩が昨日、デートの時に来ていた薄い青のワンピース姿で木製のイスに手足を縛られている。そうして、誰かと向き合って話している。
相手は……服装からして女の人か?
「先輩!」
その像が見えた時、感情が昂ぶって思わず叫んでしまった。
すると、急激に像はボヤケて何も見えなくなってしまう。
「あ……」
しまった、と思った。慌ててもう一度、集中しようとしてみるが心が落ち着かない。
「何か見えたみたいね、殻木田君」
目を開けて古谷先輩を見れば、彼女はずっと冷静だった。
「その、見えました!二階建ての洋館とか、その中の一室でイスに縛られっている虚木先輩とか!それから……」
「取りあえず、見えたものを落ち着いて話して」
その言葉に俺は、見えたものを出来るだけ正確に話した。
「洋館だけでは判別は難しかったけれど、線路と二本の煙突の存在は大きいわね」
「ええ、恐らくなんですが、あの線路と煙突ってトウザイセンのこの街の駅から隣街の間に見えるものだったと思います」
「まあ、本当にそうかは分からないけれど可能性はあるわね。小夜が失踪してからそれほど時間は経っていないし、何者かに攫われたとしても、そこまで遠い場所では無いと思う。殻木田君の話からすると海外という訳ではなさそうだし。それより、小夜のいると思われる洋館から煙突はどの方角に見えた?」
「右の方でした」
「右か、その煙突が隣街から見えるものとして……北東の方か」
古谷先輩がパソコンで地図を開くと、煙突の生える施設を調べてから、トウザイセンを通じて北東に線を引く。
「これは……当りかもしれない。北東の方角に上代啓二の住居とテナントがある。洋館は住居の方ね」
「それなら!」
俺の気持ちは逸る。
「待って。これからわたしが〝確認〟するから」
そんな俺を古谷先輩は押し止める。それから立ち上がると部屋の縁側を通じて、置いてあった靴を履いて外に出た。出た先は庭であり、古谷先輩はその一角にある池の前に立った。
どうするのかと見ていると、古谷先輩は何もありもしない虚空に手を伸ばして差し入れた。
空間の狭間から取り出されたのは――血のように朱いヤイバだった。
そのヤイバの刃先を古谷先輩は、池の中に刺し入れた。
それから水式をした時の俺のように、静かに目を閉じた。
そこで俺は気が付いた。
魔女の〝杖〟でもあるヤイバが刺し入れられた池が、余りにも透き通っている事を。池の底がまるで、よく磨かれた硝子越しのように見える。そこには何の生物もいない。苔といった植物すら生えていない。
恐らく、そこは池ではないのだろう。水式で使った桶のような、魔法を行使する為の場所なのだ。
だとすると今、古谷先輩もまた水式を行っているのだろうか?
暫くして目を開けた古谷先輩は、俺の方へと向き直ると言った。
「間違いないわ――小夜は上代啓二に囚われている」




