君が怪物になってしまう前に 5
◇
「――私はね、実は魔女なのよ」
白い部屋、白いベッド――病室。
病室から見える空には蒼白い月。
病に侵された体で母は真っ直ぐな瞳で私を見て、そう告げた。
幼い頃の私は、母の告白を聞いて、ただ戸惑う事しかできなかった。
なぜ、今そんなことを言うの?
嘘なのだろうか、とも思ったけれど母の瞳はそうは告げてはいなかった。
それから母は続けた。
「本当の世界は、もう滅んでいるのよ」
ここはヒトの想いだけで造られた仮初めの【セカイ】なのだと、母はそう語る。
世界が終わっても営み続けることが望まれた〝日常〟そのもの。
その中で相も変わらず、幸福を、そして不幸をヒトは繰り返していく。
「けれどヒトは不幸であり続けることには耐えられない」
与えられた不幸を抱えきれなくなってしまった時、現実の中で傷ついてしまった時、その想いは空に〝ノイズ〟を――疵を刻む。
世界を拒絶し、否定する想い。その想いはやがて――世界に対する憎しみに変わる。
「この世界では、魔法も奇跡も起こるのよ」
――ただ、強く願うのであれば。
この世界はヒトの想いだけで創られた【セカイ】だから。
けれど折り重なった幸福な想いは幸せな奇跡を呼ぶが、折り重なった不幸な想いは歪な魔法を起こしてしまう。
――怪物を生んでしまうのだ。
そして怪物は他の想いを侵す。
繋がっていく不幸は、憎しみの連鎖を呼んでやがて【セカイ】を蝕み壊す。
「だから――魔女がいる」
そんな想いを刈り取る者達が。
そこまで母の話を聞いて、私は背を向けて病室を駆け出した。
この時の私は母の話なんて、ほとんど理解できなかったし、分からなかった。
分かりたくもなかった。
ただ、耐えきれなくなった。
なんで今、そんな話をするの?
わたしはただ、おかあさんと――
それからしばらくして、母は亡くなった。
母の葬式の日、父と会った。
父はずっと仕事で海外赴任をしていて、私はこれまで母とふたりで暮らしていた。父と何を話したのか余り覚えていない。覚えているのはやはり仕事で海外からは帰れず、仕送りと家政婦を付けるからそのまま暮らして欲しいということだけ。
尤もそんな生活は今でも続いているのだけど。
葬式が終わった後、ひとり夜の公園にいた。
終わってしまった、と思った。
私にとっての世界が。
母が傍にいてくれた優しくて暖かった世界が。
予感はあった。母が病に倒れた時から。
けれど、そんな予感なんて信じたくなかった。
――わたしはただ、祈っていた。
空を見上げる。そこにあるのはあの日と同じ、蒼白い月。
涙がこぼれた。止まらない、どうしても止まらなかった。
心のどこかで終わってしまうと分かっていても、祈り続けていた。
おかあさんのいる日々を。
けれど、母が最期に私に残した言葉は、想いは。
分からない。分からない。
母は私に何を残したかったんだろう?
どうして母は――
――どうして、おかあさんは祈ってくれなかったんだろう?
わたしとの時間が続くことを。
わたしと生きていく事を。
わたしただ、おかあさんに早く良くなってもらって、またいっしょにくらしたかっただけなのに。
またいっしょに、おでかけをしたり買いものをしたり、ピアノを教えてほしかっただけなのに。
そう祈っていただけなのに。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――
おもいがとまらない、くるしい。
なみだがとまらない。
涙でぼやけた空にある月。それが不意にわたしにはヤイバのように見えた。
手を伸ばしてみる。
――〝それ〟に手が触れる。
掴んだ〝それ〟は三日月のような形をした刃だった。
蒼白い、不思議な形をした鎌のようだった。
〝それ〟は、熱くも無く、冷たくもなく、私の体よりもはるかに大きいのに重くも無かった。
まるで私の体の一部のようだった。
〝それ〟を振ってみる。すると振った場所に傷が、宙に裂け目ができた。
その傷を、裂け目を覗きこんでみる。
――〝そこ〟には何もなかった。
ただ、ただ暗い、昏い闇がどこまでも広がっているだけ。
そこには、私が前に読んだ童話にあるような天国も地獄もない。
果ての無い虚空があるだけ。
この時、私は母の話を理解した。
もしこの刃が私の想いで生まれたものならば、この刃で切り裂ける世界はやはり、ヒトの想いで造られた仮初めの【セカイ】なのだということを。
見上げる空に〝ノイズ〟がぼんやりと見えた。
それはまるで【セカイ】に付いた傷、ヒビ。
この日、私の世界は〝常識〟は塗り替えられた。




