美醜の庭 9
◇
普段は余り乗らないバスに乗り、街の中央にある駅を跨いで、アパートの反対側に位置する古谷邸へと急いで向かう。
先輩が失踪した事で――俺は古谷先輩に協力を求められたからだ。
通学、通勤のピークを迎えた車内は学生や会社員で一杯だった。
車内に響く音は、自動音声のアナウンスや学生達の喧騒。
どこにでもありそうな日常の光景。
通っている学園の前のバス停に着くと、同じ制服を着た生徒達が一斉に降りていく。
それを尻目に俺は、窓から見えるバスの進行方向の街並みを睨む。
ただ早く、ただ早くバスが古谷邸に着く事を願った。
先輩の言葉が、声が聞きたくて携帯で何度もメールをしたり、呼び出しをしてみるけれど音沙汰無い。
今の俺の胸の中にある、胸の中を巡る想いが幾重にも絡んでザワメク。
先輩の安否を祈る想い、不安、焦燥、焦り。
もしかしたら、先輩を喪ってしまうかもしれないという恐れ――
――再び大切なひとを亡くすかもしれないという恐怖。
それらが聞き分けも無く暴れ出して収まらない。
手の平を強く握り込んで、ドウニカ抑え込む。
先輩といつものように過ごしていく筈の――〝日常〟はどうしてこんな事になってしまったのか?
凄まじく長く感じた数十分を過した後、古谷邸近くのバス停に着くと急いで降りる。
大きな山の麓にある如何にも旧日本家屋といった屋敷の塀伝いの先にあった門を見つけると、そこに備え付けられたインターホンを鳴らす。
「ああ、来たのね。今、開けるから少し待ってて」
少しだけ待つと、古谷先輩の声で返事が返って来た。
「――思ったよりも早かったのね。おはよう、殻木田君」
門を開けて、姿を見せたのは制服姿の古谷先輩だった。
「着いて、早々だけどあなたには聞きたい事があるのよ。ここ最近の小夜の様子。それから昨日の事を。小夜と何をして、あるいは何があったかを――覚えている限り細かく、詳しく、逐一話して」
「えっと……」
極めて平静な口調のまま、質問を捲し立てる古谷先輩に対して、俺は戸惑った。
古谷邸に着いた後、屋敷の中を案内されて俺は今、襖や障子、年代物らしい木造の棚や家具が置かれた畳の部屋に招かれた。
その部屋は屋敷の外観と同じく、純和風といった趣なのだが、室内にはパソコンやプリンターといった現代機器や、そこから伸びるケーブルが床に広がっている。正直、言って現代機器が不似合だった。
そんな部屋に腰を降ろすなり、古谷先輩は質問を重ねてきたのだ。
「あの……待ってくれませんか?俺は虚木先輩が早く見つかれば、と思ってここまで来ましたが、その……なんていうか今の現状とか、もう少し何か細かく話してくれませんか?そうでないと、質問に対しても上手く答えられる気がしないんですが……」
そう、俺の戸惑いはそこだった。
先輩が見つかるならば、それこそどんな事でも協力する覚悟でここまで来た。
俺に出来る事なんて大した事ではないかもしれないけれど。
けれど、何の説明も無しに質問だけを投げつけられても、どうしたらいいか分からない。古谷先輩の質問に対して俺なりには答えられる。でも、それがどんな事に役に立つのか、どういう事を重点的に話した方がいいのか、その説明を先輩は欠いているように思った。
「ああ。あなたの言う事も尤もなのは分かっているけどね、それは最初には説明出来ないのよ」
古谷先輩は顎に手を当てながら答えた。
「どうしてですか?」
「それはわたしがあなたに求めている答えが、もし現状をわたしに分かっている範囲でも細かく説明してしまうと、その答えが変わる可能性があるから。分かり易く言えば、わたしの説明であなたに先入観を与えて、答えを絞ってしまう事がありえるから」
「……」
古谷先輩の言い分は分かった。
自分なりに解釈するなら、先輩の説明を聞いてしまったが故に、俺が意図的に虚木先輩の失踪に関係のありそうな事に対して趣を置いて話してしまう恐れがあるからなのだろう。その事で本来は、事の解決に繋がるかもしれない情報が埋もれてしまうのを防ぐ為なのではないのだろうか。
俺にとっては手掛かりに思える情報も、〝魔女〟である古谷先輩にとって全く価値は無く、逆に些細な事の方が大事である可能性があるからだ。
それは分かるが……釈然とはしない。
これは俺の欲かもしれない。協力する事で少しでも早く、あるいは少しでも虚木先輩の情報を、無事を知りたいという。
釈然としないのは不安な気持ちだけが、置き去りにされたまま説明を求められたのだから。
「それじゃ……俺の覚えている限りの事を話しますね」
それでも俺は古谷先輩に質問された通り、ここ数日、あるいは昨日の虚木先輩の様子や出来事を話始めた。
どういう形であれ進めなければ、進まないと思ったからだ。
俺は話していく。
ここ数日の先輩とのやり取りや、過ごしてきた日常を。
それから昨日のデートの事を。キスをしかけた教会の件の辺りだけは、少し話すのに抵抗を覚えたけれど。
「……」
それを古谷先輩は、腕組みしたまま無言で聞いていた。
まるで俺の話をひとつひとつ吟味するように、あるいは咀嚼するようにして。
「――大体、俺が覚えている事はこれが全てです」
一通り話終える。
「――成程ね」
すると、古谷先輩は腕組みをしたまま頷いた。
「何か気になる事はありましたか?」
尋ねてみると、暫くして古谷先輩はこう返した。
「まあ、正直言えば話を聞く限りオカシナ所は殆ど無い。それこそ昨日は一時期わたしも、傍にいた訳だし」
「そうですよね……」
自分でもそう思う。昨日はゲームセンターで古谷先輩や山岡達と一緒に過ごした時間もあるので、古谷先輩が虚木先輩を見ていた時間もある。
「けれど、気に掛かる所もあるかな――」
古谷先輩は、腕組みと解いてから言った。
「――強いて言えばだけど、美術館で小夜と話していた男の事」
手で頭を搔くと先輩は続けた。
「殻木田君。あなた、小夜とその芸術家らしい男が何を話していたかは分からないの?その後、小夜は不機嫌になったのよね?」
「残念ながら、俺が二人の所に着いた時に先輩が男との会話を切り上げてしまいましたから……」
「そうよね――取り敢えず、その芸術家の事を調べてみようかな。確かオモテサンドウの美術館で展示会をしてるのよね」
先輩が机の上に置かれたパソコンを立ち上げると、凄まじい速度でキーを叩き、次々とウィンドを展開していく。
現代機器を当たり前のように使いこなす魔女の姿は、この部屋と同じように奇妙に見えた。
〝魔女〟というオカルトめいた存在と、化学の申し子の対面。
それは普段、同じ魔女である虚木先輩が生徒会の仕事をサボりがちで、パソコンもたどたどしく適当に打っている姿が目に焼き付いているからなのかもしれない。
「――ふうん、そうなのね」
「何か分かりましたか?」
何時の間にか手を止めて、画面を凝視する古谷先輩に声を掛ける。
「あなた達が会った芸術家――上代啓二というらしいけれど、彼はかなり変わった生い立ちの持ち主のようね」
古谷先輩が嗤う、唇の端を吊り上げて。
それは前にも見た〝魔女〟の嗤いだった。
この魔女にとって、人の人生の何が愉しいというのか。
先輩に促されて、パソコンの画面を覗き込む。そこには昨日、出会った男の顔写真と経歴が書かれていた。
上代啓二の人生は――簡単な書面の上でも〝普通〟と言い難かった。それが良いか、悪いかは別としても。
上代啓二はかつて亡くした母親から虐待を受けていた。
育児放棄――ネグレクト。
文面上では簡素に書かれているが、彼は生まれた時から父親は知らず、また母親は不特定多数の男性と亡くなる直前まで関係を持っていたそうだ。
そんな母親もある日に〝自殺〟する――天涯孤独となった彼は高校卒業まで児童養護施設で過ごす事になる。
高校卒業をした上代啓二はその後、高校在中に付いた後見人の援助の元で美大に通った。
後見人は資産家の美術関係者の女性で、あるコンテストで彼の絵を見染めたそうだ。
だが、その女性も大学を卒業する前に不慮の〝事故〟で亡くなっている。
それから、遺言により女性の財産を継いだ上代啓二は幾度か賞を取り、今回のように芸術館で取り上げられるようになる。
「これだけでも中々だけど。殻木田君、ここを見て」
指差された箇所には上代啓二の現在の所在地を記されていた。
――この街の隣り。
「しかもこの男――巧妙に隠しているけれど名義を変えて、色々な所のテナントを借りているようね。一体、何の為なのかしら?」
違うウィンドをクリックして、古谷先輩は見る。
短時間でこの人は、そんな事まで調べたのか?
凄さよりも、言いようの無い怖さを覚えた。
「そうそう、殻木田君。ひとつ教えておいてあげるけど、小夜がね、失踪する直前に、深夜に訪れていたのはこの街と、その男の住む街の境にある公園なのよ」
「え……」
思わず呟いた。
「それから、最近この街を中心に女性の失踪事件も起きているみたいだし。そう、隣街。隣街なのよね」
「それは、つまり……」
虚木先輩の行方と上代啓二、更には失踪事件には何か繋がりがあるのか……?
「――古谷先輩」
真実の是非を求めて、先輩を見る。
しかし先輩は一度、物事を止めるように俺に手を翳すと言った。
「今のあなたの気持ちは分かる。ついつい、色々と繋げたくなる。ついつい、それが答えに繋がっていると解釈したくなる。でも待って。一度、ここで物事をリセットしましょう。これから、あなたにわたしが今回の事で知りうる限りの事を伝えるから。それからまた考えましょう――何が答えに繋がっているかを」
古谷先輩は嗤う。
何が愉しいのか、俺にはやはり理解は出来ない。
真実は密の味。
あるいは、千鶴にとっては更なる甘さへの布石なのか。
千鶴の愉悦の形とは。
次回、より真相へと迫ります。




