恋獄迷宮 10
◇
「あの、古谷さん…どうしてここに……?」
思いがけない人物と出会った事で背筋が震え、一瞬ですが夏の暑さを忘れました。
「今、生徒会の仕事が終わって帰宅するところなの」
夏服姿の古谷さんは、夏の暑さの中でもそれを感じさせないような涼しげな表情で笑います。
それは、いつも教室で見る笑顔となんら変わりません。
でもその事が逆に――何故か。
「それよりも、遠野さんこそどうしたの?確か家は反対側じゃなかったっけ?その格好を見ると、何処かに出掛ける用事があるようにも見えないし」
彼女が、私の部屋着姿を見て言います。
「あの…それは……」
思わず言い淀みます。
お姉ちゃんとの事やここまで来てしまった経緯について、説明し難かったからです。
「〝何か〟あったんなら、わたしで良かったら聞くよ?」
表情を変える事無く、古谷さんが言いました。
「はい、これ!」
「あの、ありがとうございます……」
古谷さんが買ってきてくれたミルクティーを受け取った私は、ベンチに腰を降ろします。古谷さんも私と同じベンチに座ります。その手にはブラックコーヒーの缶が握られていました。
夏の夜にあっても蒼く冷たく輝く月が浮かぶ空の下、私は古谷さんと住宅街の一画にある小さな公園に来ていました。
公園には私達の他には、人影はありません。
それに公園を照らす街灯の灯りは全体を照らすには頼りなく、パンダやゾウの乗り物の遊具の顔に陰影を造ります。その陰影が昼間ならば陽気に見える表情を、不気味なものにしているように思えてなりません。
先程まで部屋で読んでいた『不思議の国のアリス』の――マッドパーティーを、ふと連想しました。
「それで、どうかしたの?」
古谷さんが缶コーヒーのプルタブを開けて、自然に口を付けながら尋ねます。
ブラックのコーヒーは苦くないのかな、と思いながら甘党とお姉ちゃんに言われる私は答えました。
「その気が付いたら……この辺りに着いていたというか…知らない内に迷っていたみたいなんです……」
「ふむ……」
古谷さんはコーヒーを含みながら、相槌を打ちます。
「なんか最近、こういう事が……なんか多いんですよね。通学路とか学校の中でも目的地以外の場所に…いつの間にかいるんですよね……」
言葉に改めてしてみると感じる不安を、紛らわせるように私もミルクティーを口に含みます。
それから思い切って、尋ねてみる事にしました。
「私は――どこか〝オカシク〟なってしまったんでしょうか?」
この事を誰かに尋ねる事は――私にとっては怖い事でもありました。
自分が異常であるかもしれない。こんな事を普段、生活している中で誰かに尋ねる事なんて、そうないと思います。
聞いてみる事自体、オカシイ事のようにも思えました。
それでも話す気になったのは先日、彼女にひとつ大きな秘密を明かしてしまったからかもしれません。
「そうねえ……」
古谷さんは缶から口を放すと私を一度、頭からつま先までを見渡してから言いました。
「わたしにはメガネを掛けている今の方が――〝フツウ〟に見えるかな」
「えっ?」
一瞬、その言葉に呆気に取られてしまいました。
「ああ、ごめんね。聞きたいのはそういう事じゃないよね。ただ、ずっと気にはなっていたんだよね。今年に入ってから、メガネを止めて、ずっとコンタクトにしてるみたいだったから。それに色々、可愛くなったしね。やっぱり、それはこの間の事が関係あるんだよね?」
「えっと、その……はい……」
質問に質問を返されて慌てましたが、頷きました。
それは確かな真実だったからです。
私は変わりたいと思ったのです。
――恋をしたから。
――少しでも、振り向いて欲しかったから。
「――やはり、そういう事か」
古谷さんのその呟きは――何故か淡々とした、酷く冷たいもののように聞こえました。
私は普段、教室でそんな彼女の声を聞いた事がありません。
クラスメイトである古谷さんは、学校では学年を問わず有名人です。
学業優秀で同じ女の子の私から見ても容姿端麗。後ろで結った髪型が活発そうなイメージに似合っています。その上、フランクで面倒見が良く、クラスでの話し合いなども纏めてくれるのです。
そんな彼女が学校の生徒会の副会長なのは、みんなも納得する所です。
生徒会長も――逆の意味では有名だったりします。
虚木小夜さんというのですが、古谷さんとは違いクラスで誰かと関わる事は少なく、授業中も大体寝ているのです。
黒い長い髪をして、物憂げな目をしている虚木さんの容姿も古谷さんと比べて劣らないのでやはり人目を引くのですが、生徒会の仕事は殆どしていないそうです。
だから今の生徒会はおおよそ、古谷さんが中心になっていると聞きます。
虚木さんが色で例えるなら黒だとすれば、古谷さんは朱でしょうか。
彼女のつけている髪飾りの色のように。
そんな活発で色々な事がこなせる彼女は、私にとっては眩しい存在でもありました。その事もあって私は、彼女にこれまで上手く話しかける事が出来ないでいました。
「ねえ、わたしからも聞いていいかな?わたしはした事が無いからイマイチ分からないんだけど――恋って、イイモノなの?」
変わらない声色のまま、古谷さんは続けます。
恋が――素晴らしいものなのか?
私は初めて強く惹かれた小林先生の事を考えます。
「私は――良いもの、だとは思うんです。好きなひとと少しの間だけでも話す事が出来たり、一緒にいられるだけで幸せな気持ちになれますから」
それは、自分の恋心を自覚してから分かった事でした。
普段、先生と生徒としてやり取りをして、あるいはお姉ちゃんの結婚を通して近く家族になる間柄として話す時などです。
特別な事なんて無くても、ただささやかな時間が幸せになるのだから。
「――それが報われないもので、ましてや姉の婚約者を想うという背徳的なモノであっても?」
「――!」
古谷さん声に私の背筋が、真夏なのにも関わらず震えました。
その声の響きに冷たさと、刺すような鋭さを覚えたからです。
「わた、私は……」
何か言葉を返そうとして、返さなくてはいけないと思って口を開きますが、唇が震えて形にはなりません。ただカチカチ、と奥歯が当たって鳴ります。
「ねえ、遠野さんはどうしたいの?小林先生と結ばれたいの?でも、それはつまり――」
――それはつまり、あの優しいお姉ちゃんを深く傷付ける事だ。
――お姉ちゃんの笑顔を、幸せを壊してしまう事だ。
「違います――!」
私は大声で必死に返しました。
身体の震えはいつの間にか止まっていました。
――それは、それだけは私が絶対に望んでいない事だから!
「――私はそんな事は望んでません!」
「そうなんだ」
私の大声を受けても、古谷さんは動じません。
ただ、ブラックのコーヒーに口付けるだけです。
「まあ、それだから思い悩むんだよね」
彼女が答えます。
「遠野さんの最初の質問に答えるね。遠野さんは〝変った〟んだよね。それこそ外見を変えてしまう程に。それ程の想いを抱いているから、思い悩むんだよ。これはあくまでわたしの憶測だけど、だから道に〝迷う〟のかもしれないね。その事ばかりを、気が付けば考え込んでしまうから」
「……」
古谷さんの意見は――的を得ているようで、どこか外れているようにも思えました。というよりも奥歯に何かが挟まったような、引っ掛かる言い方でした。
まるで何かをボカシテいるような。
「ところで、時間は大丈夫?」
「えっと……」
公園の時計を見ると家を出てから大分、時間が経っていました。
お姉ちゃんが心配するかもしれない、と思いました。
「そろそろ帰らないと!」
「それじゃ、そろそろお開きかな?」
古谷さんが飲み終えた缶を離れた所にあるゴミ箱に放り込むと、綺麗な軌跡を描いて入りました。運動が苦手な私には無理な事です。
「今日はごめんね~!結構、キツイ事も言ったと思うから」
そう言って笑う古谷さんは、私の知る彼女でした。
その事が逆に――今は怖く見えるのでした。
「遠野さんは、これからどうするの?」
鞄を持ってベンチから立ち上がり、背中を向けたまま古谷さんは言いました。
「どうするって……」
「思い悩むってさ、苦しい事だとわたしは思うから。そう、それこそまるで〝怪異〟に化かされるように、在りもしないような目に遭うように。誰にも言えないまま、遠野さんはそのまま苦しみ続けるのかと思って。想い人と大切なひとの間で〝罪〟を囲うように――」
「っ……」
痛みを覚えました。心とそれから唇に。
知らぬ間に唇を強く噛んでいたのです。
古谷さんの言う通り私の想いには、行き場がありませんでした。
私の胸の中でわだかまるばかりなのです。
「――怪異のように〝オカシイ〟のは、変わってしまった〝あなた〟」
最後に振り向いて、呟いた言葉は聞こえませんでした。
ただ、その視線がとても冷たいものに――私には見えました。
そうして彼女は、闇に消えるように去って行きました。
彼女が去った後の公園で、ひとり私は月明かりに照らされた不気味な遊具達に囲まれていました。
痛みを覚えた唇からは、朱い血が流れていました。
こうして、私達のマッドパーティは終わりました。
恋する乙女に〝オカシイ〟と言う、鉄のもとい朱い魔女(笑)
彼女もお年頃の乙女の筈なんですが……相棒とは大違いですね。




