恋獄迷宮 9
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家を出た私は宛ても無く、夜の街を歩きます。
夏を迎えた街の空気は夜を迎えても、未だに熱気と湿気を持ち、肌に絡み付くようでした。その事に僅かに不快感を感じました。それでも歩き続けます。
お姉ちゃんには買うものがあるとは言ったけれど、本当はそんなものはありません。けれど適当に何かを買って、直ぐに家に帰る気もしませんでした。
今はまだ、お姉ちゃんと顔を合わせる事は出来ないなと思いました。
今の私は、あの優しさに触れる事は出来ません。
私にはきっと、その資格はありません。
だって、私が小林先生に抱いている想いは――
――その事が、お姉ちゃんに対しての裏切りにも思えるからです。
それに私自身がお姉ちゃんに対して、時折抱いてしまう想いがありました。
本当にただ、ただ申し訳なく思うのです。
小林先生を好きになってしまった事を。
けれど同時に――恨めしく思ってしまうのです。
どうしてお姉ちゃんなんだろうと。
どうしてお姉ちゃんが先に出会ってしまったんだろうと。
どうしてお姉ちゃんが選ばれたんだろうと。
私は多分、お姉ちゃんに嫉妬してる。
大好きな私のお姉ちゃんに。
私は昔から、快活で優しいお姉ちゃんに憧れていました。
どちらかというと引っ込み事案な私は、お姉ちゃんに引っ張って貰う事が多かったのです。そんなお姉ちゃんは私と違い、色々なひと達と繋がりを持っていました。それでいて、ひとを気遣う事の出来る事が出来るお姉ちゃんはみんなの中心にいたように思います。
そんな所に小林先生も惹かれたのでしょうか?
私はお姉ちゃんのようにはなれません。
メガネをコンタクトに変えてみても。髪を雑誌のように結ってみても。幾らか慣れない化粧を覚えて施しても。他の子達のように、スカートの裾を校則よりも短くしてみても。
お姉ちゃんよりも魅力的になる事は出来ません。
「どうして――」
その言葉だけが私の胸の中を回り続けます。
まるで出口の無い迷路を彷徨うかのように。
どうして小林先生を好きになってしまったんだろう?
そうして歩き続けていると、気が付いた事がありました。
ふと見かけた電信柱の表札に書かれた番地は、家から随分と離れた所だったのです。
この番地に来るには、駅のある繁華街を抜ける必要がありました。それか大きく迂回しなければなりません。
ぼんやりと歩いていたとはいえ多くの人気のある、駅がある繁華街を通った記憶は私にはありませんでした。
だからといって――手元に携帯が無いので正確には分かりませんが、まだ家を出てから時間が経っていないと思うのです。
「……また、か」
私は大きく溜息を吐きました。
最近、こんな事がよくあるのです。通り慣れた道、通い慣れた通学路や見慣れた街の中で気が付くと、意図しない場所に着いてしまう事が。
それは学校という比較的、狭い場所でも。この間は職員室に向かっていた筈なのに、校舎を隔てた家庭科室に着いた事もありました。
それはまるで、迷い込んでいるようでありました。
ありふれた〝日常〟の中で。
「……」
人気の無い、夜であれば然程見分けの付かない住宅街の中で立ち尽くします。
これからどうしようかと、考えます。どこか諦めに似た思いで。
最初にこんな事が起こった頃は、怖さも感じました。
もしかしたら、自分はどこかオカシクなっているのではないのかと。
でもこんな事、誰かに話してもなかなか分かってくれる事ではないとも思います。気のせい、という事で終わってしまう事とも思います。
身体では無く、こころのオカシサは目には見えません。
だから他のひとにも――自分でも分からないものだと、私は思います。
いつからオカシクなってしまったなんて。
そう、午後の眠りの中に知らずに迷い込んだ『不思議の国のアリス』のように。
考えた末に、家に戻る事にしました。
まだ暑さと湿気を孕んだ空気の中、まるで黒い切り絵のような曖昧なシルエットの街を遡って。
「こんばんは――」
そんな私に不意に声が掛かりました。
驚いて振り返ってみると、そこには古谷千鶴さんがいました。
空に浮かぶ満月を背後に、影絵のような街の中で彼女が――チェシャ猫のように嗤っていたのです。




