その後
大学での一週間を過ごし、日曜日。
そろそろ空は夕方と呼べる頃合いに、スマホにメッセージが届く。
大学に入学してから春と夏が過ぎ、秋も、にじり寄ってきた冬の寒さに居心地を悪くし出した時期。
厚みのある服を選んで身を包み、部屋から出て階段をとんたんとんたん下へと降りていく。
一度両親のいるリビングに顔だけ出して、夕飯はいらない事を告げ、冷えた廊下へと顔を戻す。
靴に足を通していざ外に出ようとした時、玄関の扉がこちらにぎいっと押し開けられた。
「あ」
図書館から帰ってきたのだろう妹が、玄関に突っ立っていた兄に小さく口を開ける。
「おかえり」
「ただいま。芽野さんのとこ?」
この時間と俺の服装で、これからの目的を読んだらしい。
「まぁ。遅くなるかも」
「ん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関のドアノブを持ったまま、妹は身体を少し横に退け、俺が通れる道を作ってくれる。
それに甘えて外へ行き、目の前の道に出たところで背後で扉がガチャリと閉まった。
夕方ではあるが、冬の近い秋の夕暮れは目瞬きをしている間に変わる程、早く過ぎてしまう。
俺の人生にとって一番思い出のあったあの時から二年も経って、時間の感覚が変わった。
それは色々な事を経験した故の、ある種一つの慣れのようなものなのかもしれない。
昔よりもあれこれに慣れてしまって、日常と呼べるものが増えてきてしまった。
虚しくもあるが、嬉しくもある。
二人との時間が、日常になってくれたのだ。
ふとした出会いが、今日まで続く。
あの時の自分には想像が出来なくて、もしかしたら今も、少し信じていないかもしれない。
見慣れた公園は、今日は使わない。
その後にあった二又の道も、俺が卒業をする時に一回使っただけで、あれ以来、あまり使わなくなっていた。
芽野さんと春さんは、大学に入学してから少しして、二人でルームシェアを始めた。
二人の実家からは大して遠くない、駅から程近いマンションの一室。
俺も高校を卒業と同時に一念発起で一人暮らしなどとも考えたのだが、金銭面的に普通に厳しく、今もなお、実家暮らしになってしまっている。
そういう意味では、まだ高校生の時の感覚が完全に抜けきれていない。
時折、二人の事を先輩と呼んでしまいそうになる。
同じ大学に通っている以上、確かに先輩後輩関係ではあるのだが、卒業する時にやめると宣言したのだ。
今更そこに戻るのは、少し嫌だった。
住宅街から駅までの道のりは、まだ少しある。
歩いていると頭が回る。
そろそろ大学での一年も終わり、だからなのか、また一歩過去に進んだ高校の時の思い出が、ふと蘇る事がある。
新崎…いや、陽斗は違う大学に行った。
だからと疎遠になった訳ではなく、逆によく会うようになったかもしれない。
彼は尚も俺の事を親友として扱ってくれるし、俺もその扱いには嬉しいものを感じている。
一は、生徒会長になった。
前生徒会長と交わした会話の通り、俺が三年の時の生徒会選挙で当選し、山中二葉や冬花ちゃん、そしていつからか親しげだった眼鏡と共に生徒会を運営している。
俺が知っているのは年明けからほんの少しだけ。
しかも受験勉強の為にあまり高校には行かなかったし、活動はほとんど噂を聞くばかりになってしまったが、一年生だった頃に活動の一部を手伝わされていた一だ、聞いた限りだが、最初から十分を超える活躍していたらしい。
生徒会は年明けで交代になる。まだ彼らの時間だが、この時期となれば今はもう、終わりに向けての意識で進む時間だろう。
そう言えば文化祭の終わりには、四人の集合写真なんて送ってきたか。高校の頃のを纏めたスマホのファイルに入れといた筈だ。
…笠木さんとは、多少関係は良くなったような気がする。
陽斗と遊ぶ時には、陽斗と同じ大学に行った笠木さんもよく一緒にいることが多い。
必然話す数も増え、あの時の事をなんの気もなく振り返って話す機会も度々あった。
言いたいこと、言えないこと。
それぞれあるが、だが、言うべきことは言ったと思う。
これから関係がどうなるかは分からない。
だが、言わなければならないことがあるのだとすれば、言うつもりではある。
城戸さんは、陽斗とは違う大学に行った。
陽斗への恋心を諦めた訳ではなく、冷静に自分の将来と向き合い、そうしてきちんとしてから、陽斗との将来を考えていく予定らしい。その事を言った清々しい風の吹いていた卒業式の日は、記憶に鮮明に残っている。
かなりの覚悟を決め、強固な意志で言い放っていたのは確かだったのだが、しばらくして俺に来る連絡は『陽斗に会えなくて悲しいですわ』とか『他に良いやりようがあったのではないかと思ってしまうのです』とか、どんどん弱気に泣き言めいてきてしまっていたが、それでも意志は折れていないようで、最後には自分の言い放った決意に考えが戻るのが、二人でやり取りする時の流れになっていた。
夕方から黄昏時に空色は変わっていく。
明かりに身を浸す駅が遠くに見えたのを見て、マンションまでの近さを確かめる。
日曜日もあって、駅周りには遊びに来た人間が多い。
高校生らしい年齢の姿もあって、そこに昔の自分達が揺らめいて見えてしまう。
春夏秋冬。
たった四文字で一年は過ぎ去ってしまう。
もう終わりかけの秋が完全に終われば、残るは一文字。
高校の頃の思い出は、更に一歩遠退いていく。
時間というどうしようも無い存在に持ってしまった思いを街灯の明かりで洗い落として、見えてきたマンションに向かい、停まっていたエレベーターのボタンの『3』を押す。
重力に逆らって箱は上に上り、渡り廊下を歩いて、二人の部屋のインターホンを鳴らす。
すると奥から二人の会話する声が聞こえ、片方がとたとたとこちらまで迫ってくる。
他人との壁である扉が、こちらに押し開けられる。
「いらっしゃい、灯くん。入って」
服の上からエプロンを提げ、俺の顔を見るなりにまっと笑んだ芽野さん。
あの時から身長は変わらず小さいが、アレンジした髪の毛とか、今は違うが外行きの時の服とか、雰囲気はかなり変わった。俺の意見がかなり強く入ってしまっているが、芽野さんがそれで良いと言ってくれたのだ。
「…失礼します」
この二人の部屋に入るのは、どんな時でも必ず緊張する。
ルームシェアをしている為、女子の部屋という感覚が二人の実家のあの部屋の時よりも、二倍になっているような感じがするのだ。
呼吸もままならないような感覚で靴を脱ぎ、一歩先の芽野さんを越えない歩幅で歩いていく。
廊下を抜けて芽野さんが扉を開けると、用意された食事の匂いが鼻を奪い取る。
メインであるお鍋を脚の低いテーブルに置いた春さんが、高校生の時から更に大人びた顔を微笑ませ、カーディガンをはらりと揺らす。
「灯くん、いらっしゃい。外寒かったよね」
「けっこう手冷えちゃってるね」
春さんの心配の声に合わせ、芽野さんの手が俺の手をがしっと握ってくる。
芽野さんの温かさが一気に手に流れ込み、照れなりなんなりが湧き上がるのを感じながら、大丈夫な事を伝える。
「だ、大丈夫です。ポケット入れてましたし」
「変に強がんなくていいって。しょーがない、温めてあげよう」
「ふふっ、だね」
が、冷え切った体温が言葉よりも信用されてしまったのか、芽野さんは手を引っ張ると俺の席として初めから用意してくれたクッションまで運び、隣に腰を下ろした春さんと二人で、俺の両手をそれぞれ包んで温め始める。
「あったかい、かな?」
「恥ずかしいです…」
「いやー、いいね。灯くんのこういう反応」
恥ずかしくて最早どうしようもない。
二人の心底嬉しそうな眼差しに耐え、満足してくれるまでじっとして待っていると、二人の手が俺の手からするりと離れる。
「よーし、お鍋たべよ!灯くんはそこで待ってて、もうちょっとで準備終わるから」
「え、いや、俺もなんか…あ、箸、忘れてないですか?取ってきます」
「あっ、本当だ…!ありがとね、灯くん」
三人でキッチンへと向かい、準備を手伝う。
箸立てから三人分の箸を取り、テーブルへと向かう。
二人の手の中にあった手は、赤く染まって、温かいどころか熱くなってしまっている。
こんな関係が、あの日からずっと続いていた。
ちょっとずつ進んで、不意に一気に進んで。
あの時の忘れられない出会いが今日これからの、いつか日常として忘れてしまいそうな、けれど大事なこの時間を始めてくれる。
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「ふぅ…灯くん、お味はどうでしたか?」
「美味しかったです、すっごく」
「そっか…ふふっ、良かった」
「僕たち、家庭科部だからね♪」
胡座をかいた俺を椅子にしてなんの心配もしないように深く凭れる満腹の芽野さんは、懐かしい事を言って気分良さげにふふんと笑う。
お鍋も他も纏めて片付けられ、時間は食後の 安穏とした時間。
キッチンからは水滴の音がし、二人からは気分良さげな吐息が漏れる。
「よいしょ…」
春さんが不意に俺に肩を寄せてきて、目を合わせるとにこっと微笑みが来る。
「…」
「……」
「………」
「…………」
「……………」
「あの、この時間は…」
何を話すでもなく、ただお互いの体温だけが交わされる沈黙。
思わず言葉を出すと、二人が肩と腹に更にもたれかかってくる。
「別に。灯くんといるんだなーって実感中」
「うん、それだけ」
「それは、楽しいんですか…?」
「楽しい。…ていうか、幸せ?」
俺の顔の真下にいる芽野さんが、俺を見上げて口元を緩めた後、胸に小さくて柔らかな背中を押し付けてくる。
全くと言っていいほど重くはないが、自分の心臓は違う事に耐えきれず、過剰に騒ぎ出す。
幾らかでも気を紛らわせればと、エプロンの下に隠れていた芽野さんの服の話を振った。
「…その服、やっぱり少し動きにくくないですか」
いま芽野さんが着ている長袖のシャツだが、立った時に膝が丸々隠れるぐらいの、身動きが取りにくそうな丈になっている。
まぁそれも当たり前、元々は俺の服だったのだ。
いつの間にか部屋から持ち出されていた奴で、少し前にここに来た時、見せびらかすように着てきた時は目が丸くなった。
中々気に入ってくれているらしいし、俺も特別な何か思い入れがあったりとかした服ではない為、全然貰ってくれても良いですとは言った代物ではあるのだが、下にもう一枚着てはいても、ぶかぶかな感じは見ていて気になる。
「ちょっと動きにくいけど…でも全然だよ?」
「そう…ですか。いや、臭いとかじゃないならいいんですけど」
「ネガティブめ…。あ、でも一個あるかな。これ着て春と寝るとね、めっちゃ抱きついてくるの。ほんとなんか苦しいぐらい」
芽野さんが言うと、肩に頭を乗せてきた春さんの唇が言い分があるのだと、つんと尖る。
「だって…灯くんの匂い、するから。灯くんの匂い、臭くなんてないよ」
「そう言えば好きって言ってたね。あれいつだっけ…あ、プラネタリウムの時だ。あれももうけっこう前かー…」
宙を見上げ記憶を振り返り、思い出した時間に芽野さんは少し寂しげな声音を向ける。
「またみんなでお出掛けしたいね。行くならどこいいかな?」
「大学生になったんだし、ちょっと遠出とかいいんじゃない?奮発して…泊まりとかさ」
「お、お泊まり…!」
二人の何かを訴えるような視線が、一度、お互いを見た後、俺にするりと流れてくる。
何か言葉を求められているの分かっているが、適切なものなど俺に出せる筈がない。
「どうも言えなくなるんですけど…」
「部屋…同じとは、言ってないでしょ」
俺のこのしどろもどろを求めてのからかいだったのか。その割には、前を向いた芽野さんの耳の後ろは、少し赤かった気がする。
「まぁでも…一緒には出掛けたいです」
泊まりとか云々とか一旦置くにしても、出掛けるというのは賛成。
高校三年の頃も、確かに気晴らしという口実で出掛けたりは時々していたが、何処か、勉強のことだったりで集中出来ない自分がいたのは確か。
今なら、あの時と違って心から楽しめる。
俺の思いをはっきりと言うと、胸に乗ってきていた芽野さんの背中がもぞりと動く。
「…嬉しいこと言うなぁ、灯くんは」
「灯くん、まだ時間いいよね?」
春さんの垂れた髪の隙間から覗く瞳が、俺の瞳を下から見つめてくる。
芽野さんも顔を上げて、逆さだが同じように俺の顔を自分の瞳に写す。
そして、桃色の唇が優しく我が儘を告げてきた。
「もう少し、一緒にいてもらうから」
「…分かりました」
大学生になって、遅く帰るのもまぁ許されるようにはなった。
あまりに遅いのは流石に問題だが、まだ浅いこの夜ならば、十分時間はある。
今日まで続くあの時の出会いは、明日からも続いていく。
ふとした事で切れてしまう人間同士の関係だが、ふとした事で深く繋がってくれる事もある。
『運命の出会い』とそれを呼ぶかどうかは、人に依るのだろう。
俺はやはり、言いたくない。
誰かが取り決めたように聞こえる『運命』が決めたから一緒にいるのだと言うよりも、好きという自分の想いが叫んでいるから一緒にいたいと、そう言いたい。