終わり
終わりというタイトルになっていますが、まだ少し続きます
卒業式に間に合わなかった桜が街をようやく本格的に彩り出した。
長かったような短かったような休みを終え、土曜日の午後。
そわそわしながら自分の部屋で待っていると、鳴り出した携帯。慌てて手に取り、耳に当てれば矢波先輩ではなく、その母親の声。もうそろそろ帰ってくるらしいから、約束に乗っとり、家に来てほしいと言うことだった。
その連絡を貰ってから日頃そうしていれば良いのにと、自分でもちょっと思ったぐらい速く支度をし、家の玄関を押し開けた。
どれだけの大学が今日、合格発表をしているかは分からないが、大抵の人にとっては今日は普段とさして変わらない休日なのだろう。
俺も去年が続いていたなら、テレビのニュースで取り上げられたのを見て、ふーんぐらいで済ませていた筈。卒業式然り、一年での変化を本当に実感した。
楽しげに話し合いながら同じ方向へと進む同年代ぐらいの女子達に前を塞がれ、華麗に脇をステップで抜けようとしてみたが道のサイズ的にそれは叶わず、もどかしさを感じながら歩いていく。
ゲーム発売日におもちゃコーナーに向かって全速力で歩いていく子供に情景としては似ていたが、心の持ちようとしてはワクワクは無く、不安一色。
根があまりポジティブではないからか、どうにも良い結果だけで考えられない。
そして、そう考えると俺は先輩達の努力を信じていないんじゃないかと、どんどん自分の性格が嫌になっていってしまう。
と、ふと目の前に落ちたピンク色の花弁。
立ち止まって見上げてみれば、桜の木が俺を真下に見下ろしていた。今、通っているのは大通りからは少し離れたマンションが横に群れを成す道。いつもの公園の少し前。
速く行ける道もあるにはあるが、雰囲気の良さにはそれは勝てない。
ここを使うようになったのも、翌々考えてみれば先輩達と関わるようになってから。あの出会いが、この桜との出会いも招いてくれたのだろう。
ぼーっと立ち止まっていると頭の上に桜の花びらがじゃんじゃん乗ってきて、それを手でぱらぱら払ってからまた前を向く。壁をしていた女子達も何処かの道を曲がったのか、姿を消していた。
好都合と緩めていた足の早さを少し上げ、桜並木の道を抜けていった。
…勇気を出して家のインターホンを鳴らした。
すると、奥から響くとたとたという足音。
他に音が聞こえないということは、先輩達はまだ帰ってきていないのだろう。玄関を開けて出てきたのは矢波先輩の母親で気さくに「いらっしゃーい」と道を開けてくれた。
「さ、入って入ってー」
「し、失礼します…」
靴を脱ぎ、段差を越えて廊下に足を乗せる。僅かに開け放たれていた扉からは誰が来たんだと真っ白い塊がぬるりと出てきて、俺を見るとにゃーと鳴いてくる。
「芽野の部屋で待つんだよね?」
「はい…確か。…本当に良いんですよね」
足元で彷徨く猫を抱き抱えた先輩の母親に、何度目か分からない再確認をする。今日を迎えるまでにしたメールや電話でも何度も確認したが、やはり不安。
「芽野が良いって言ってたんでしょ?なら良いんじゃない。…なに、それとも一人でいると変なことしちゃう?」
「…しないです」
にんまり笑ってからかってくるそのあどけない顔も声音も、とても矢波先輩にそっくり。だからか、返した反応があの人にするような物になってしまう。けれど、先輩の母親はくすくす笑って流してくれた。
「ま、男の子だし、緊張しちゃうよね。でも、多分だけど一階にいる方が緊張しちゃうよ?ほら」
指差した方向はリビング。
矢波先輩の父親、そして桜丘先輩の両親も居て、父親二人は辛そうな面持ちで部屋の中をグルグル歩き回り、時折座ったと思えば置かれたコップの水を飲んでまた立ち上がり歩き回る。
重苦しいその空気は見るだけで顔が少し引きつってくる。そんな俺の表情を見て、先輩の母親はねーと声を掛けてきた。
「どう?あそこに居たい?二人が帰ってくるまで一時間はあるかもだけど」
「…いや」
「じゃ、茅野の方か」
芸能人格付けチェックの部屋みたいな、期待と不安が入り混じったあそこに一時間も居られる気がしない。先輩の方でお願いしますと言うと、手渡されたのは鍵とにゃーにゃー鳴く真っ白い塊。
「これは…」
「監視役です。いーい?この子がなにか変なことしようとしたら思いっきりひっかくんだよ?」
俺の腕で思いの他ぐったり休んでくれている真っ白に、矢波先輩の母親は目線の高さを猫に合わせると人差し指を立ててそうお願いする。分かっているのかいないのか、にゃーと鳴き声が廊下に広がった。
「じゃ、待ってて。飲み物とかは後で持ってくから」
「…ありがとうございます」
リビングと廊下を隔てた扉を開け、先輩の母親は去っていく。ばたんと閉められた際に響いた音が、言ってもいないのに急かしてきているような気がして階段を上っていく。
早々に部屋の入り口に着き、猫を抱き抱える手についでに持っていた鍵を鍵穴に差し込む。
あとは扉を押せば良いだけなのだが、部屋主がいないのに勝手に入って良いものか躊躇いがある。居てくれと頼まれた立場ではあるが、やはり扉は開けれない。うだうだしていると下からにゃーんと鳴き声が聞こえてくる。
多分、さっさとしろと言ってきているのだろう。
猫のためと言い訳を作って、握ったままにしていたドアノブを捻った。そして、扉を越え矢波先輩の部屋に足を踏み入れる。
数えきれない程来ていた場所だが、あの二人がいないだけだ相当な違和感を感じる。
誰一人近くにはいないテーブルの、いつもの場所に腰を降ろし抱えていた猫をカーペットに放つ。鍵の方はとりあえずテーブルに乗せておいた。
放たれた猫はぐーっと身体を伸ばすと俺をちらりと見た後、少し歩き矢波先輩のベットに上る。こっちの方向を見たままなのは多分、縄張りに入ってきている俺を監視しているのだろう。役目を完璧に全うしている。
しかし、目があろうが無かろうが俺はこの部屋で何かすることは出来なかっただろう。
そういう欲が無いわけではない。
単純に、一時の欲に駆られてあの二人からの信用を失う事への恐怖があるのだ。誰もが抱える信頼を失う事の恐怖が、俺にも当たり前ながら備わっている。それが今回も正常に働いただけ。
けれど、働きすぎなせいで視線のやり場がずっとカーペット。やっと視線を動かせてもテーブルの足ぐらいにまでしか動いてくれない。誰もいない方が視線を動かせないのも中々可笑しいものである。
何とかぐったり休む猫ぐらいには持ち上げられて、そのまま勢い付けて時計を見た。
ここに呼び出された時に言われた一時間後の時間までおよそ40分。
無論あくまでその数字は目安で、遅れるかもしれないし、逆に速くなる事だってあり得る。お陰で全然気が休まらない。
ふと特に理由もなく見たテーブルの上。今は何も置かれてはいないが、今日を迎えるまでの過去にはノートや教科書、参考書が常に置かれていた。
何度も見てきて記憶に焼き付いている。
ペンが文字を作り出す道のりも、ノートを捲る紙の音も。何もろくに手伝えなかったからこそ、そういう部分だけは覚えている。
前も同じ事を考えたが、先輩達が努力を重ねたからと言って、確実に合格できる訳ではない。
いや、合格できた方がこちらとしてももちろん嬉しいのだが、世の中確実はない。先輩達の努力は並々ならぬものではあったが、それを越える努力をしている人間だって俺が知らないだけできっと数多にいる。
知らないことは罪。
その言葉を知っておけば、勝手に出てくる楽観視も自然に治まってくれる。
と、不意に後ろの扉が開いた。
誰が来たのかおおよそ見当は付いていたが、それでも後ろを振り向く。
「飲み物持ってきたよー」
やはり、矢波先輩の母親。
ティーカップが乗った盆を手に持ち、明るい声と共に入ってくる。その盆の下にはファイルのような、ともすればアルバムのような分厚い物が敷かれていた。
俺が謎の下敷きに不思議な表情でいる間、先輩の母親は俺の真正面に座るとティーカップをかたんと置き、その厚い下敷きもついでにテーブルに並べた。
「ありがとうございます…あの、これは」
置かれたカップをこちらに引き寄せながら、気になるそれに視線を向けた。
「これはね、じゃーん!アルバムでーす!」
大仰に声を上げるとそれの表紙がぺらりと捲られ、出てきたのは赤ちゃんの写真。写真の下の部分には付箋みたいなのが貼られていて、そこに書かれていた矢波芽野の文字。
「これって…」
「二人が帰ってくるまでまだ時間もあるし、良いでしょ?付き合ってよ」
そう言って腰を持ち上げ、俺の隣にまで移動してくるとすとんと並んで座ってくる。
多分、思い出話がしたいのだろう。
ね?と首を傾げて答えを求めてくる。
「…分かりました」
「ふふ、ありがとねー。えっとね、これが芽野が生まれた時の」
人指し指を乗せたのは俺が最初に見た写真。
やはり、これが生まれたばかりの先輩。
流石に赤ちゃんだし何から何まで先輩と言う感じはしないが、言われれば確かにそうと分かる。
ゆっくりと瞼は閉じられていて、静かに抱かれて眠っていた。
「ほんとに嬉しかったなぁ…この時。お父さんとかもうずっと泣いてて」
一人言のように呟いた横顔は、とても幸せに満ちていた。
「で、次これ。家に連れてきた時、あ、こっちが始めて笑ったときで…」
「…多いですね、写真」
満面の笑顔の時の写真だったりを撮りたいのは分かるが、同じようなものが三枚も四枚も並んでいる。次に捲られたページに至ってはほとんどが連写でもしたんじゃないかと思うぐらい同じ構図だった。
「そりゃ大事な娘との思い出ですから。…そーだ、この時から春ちゃんと仲良くなったんたんじゃなかったけ」
娘と息子の差を実感していると、先輩の母親が指差した一つの写真。
そこからの背景にはさっきまで無かった見慣れない室内が何度も出てきて、逆に何度も見てきた背景が無くなる。引っ越しでもしたのだろうか。
次のページへ行き、写真を見ていると、もう一人、同年代っぽい少女が出てきた。
話を聞くに、多分桜丘先輩。
ソファの上で手を繋いでお互い頭を預け、可愛らしい寝顔ですやすやと眠っていた。
「この子ですか」と尋ねると、先輩の母親はそうそうとこくこく頷いた。
「偶然芽野と年が同じで、それきっかけで、私たち親の方も仲良くなったの。あー、懐かしいなぁ…」
「この頃って二人とも身長同じぐらいなんですね」
眠る二人の写真を見ていて、一つ気になった事を口にする。
「うん。差が出てきたのは…小学校の…途中からぐらいだったかな。えーっと…」
パラパラと手早く捲っていき、小学校の頃の写真が出るようになってくると速度が徐々に落ちていく。
勝手に捲られていくせいであんまりはっきりと写真は見えないが、それでも先輩達二人の写真が大半を占めていた。
「あ、あったあったこれこれ。…三年生からだ」
「桜丘先輩…身長高いですね」
三年生になった時の記念か、また二人が並んで笑顔でピースしていたが、矢波先輩が特別低いというよりかは、桜丘先輩が他の子達よりも少し高い印象だった。
これぐらいの時になると二人の顔立ちは大体出来始めていて、クラス全体での集合写真とかでもすぐに見つけられるようになる。
あんまり二人の過去を聞いてこなかったからか、こういう昔の写真を見ると悪いかもしれないが、好奇心のようなものが湧いてくる。
「よーし…じゃあ次は中学のを…」
意気揚々と次のへ行こうとしたその時、下から聞こえてきたガチャリという玄関の音。
先輩の母親も気付いたらしく、紙を捲る手がぴたりと止まった。そして、身体の動きを固めたまま頭だけを時計に指した。
「ありゃ、もーこんな時間か…。ごめんね、付き合ってくれて。私、玄関迎え行ってくるから君はここで待ってて」
「はい…分かりました」
盆とアルバムを脇に抱え出ていこうとした先輩の母親だったが、ドアノブに手を掛けたところでそうだ
、と、こっちに身体を捻る。
「アルバム見たの、春ちゃんと芽野には内緒にしてね?お母さん怒られちゃうから♪」
ふふっとウィンクをして、上機嫌に先輩の母親は出ていった。一応、二人の入試の結果を見に行くはずなのだが、楽観的なのかなんなのか、不安さは一切見て取れなかった。しかし、結果俺もそこまで緊張することなく時間を過ごせたのだ。
言いそびれたお礼は心の中でした。
アルバムに関しては言われた通り黙っていた方が良いだろう。俺もだが、誰だって過去を自分の知らぬ内に知られたくはない。子供の時なんて尚更。知ってたと知れれば、何を喰らうか分かったものではない。
と、先輩の母親が階段を降りきる音がした後、一階で鳴っていた足音の一つが入れ違いで今度はとたとたと上ってくる。
もう一人の足音は先輩の母親と共にリビングの方へ向かっていくのが聞こえた。
速くも遅くもないまま、一定の間隔で階段を上るその足音。
一段一段鳴る度に胸の鼓動が激しく鳴り、持ってきてくれた暖かいハーブティーで口の乾きを潤した。
あまり馴染みのない味だが香りは嗅いだことがある。ラベンダーだろうか、僅かながら鼓動が治まった感じがした。
ティーカップをテーブルに戻してから、ほんの僅か。
足音を響かせていた誰かが階段を上りきり、多分、扉の前に立っている。ベットでくつろいでいた猫も耳をぴこんと震わせると、身体を起こし、扉を一点に見つめた。
「……」
耳に届いた自分の困惑した息。
身体の全体を血液と一緒に流れる苦しさを吐き出すために、自然と漏れ出てしまっていたらしい。
ドアノブを俺も一点に見つめていると、それは扉の奥の人によって動かされる。
ガチャッと音が鳴り、扉が部屋の壁へ寄せられた。
「…」
「芽野先輩…」
廊下にいたのは矢波先輩。
となれば、リビングに行ったのは桜丘先輩になる。
普段いつも見ている顔は俯いてしまっていて、表情は窺えない。自分から聞きにいくのも駄目な気がして、名前を呼んだまま口は閉じれない。
だが、閉まらずにいた口は戸惑いで別の言葉を発した。
「え…あ、せ、先輩?」
扉を閉めて部屋にとたとた入ってくると、俺の傍まで近寄って来てそのまま俺の足に座ってきた。
体勢を崩さないために先輩が座ろうとした直前、咄嗟で足を軽く組んで胡座みたいなのに変えたが、受け入れてしまったせいで見えるのは背中だけ。
その背中が俺の身体に深く預けられると、何枚かの布を通して先輩の冷えた体温が伝わってくる。胸の音もとくとくと聞こえたが、果たしてこれが先輩の胸からなのか確証がない。
それぐらい俺の胸の鼓動がまた煩く鳴り出す。
「あ、の…」
絞り出すようにして目瞬きしながら呼び掛けるが、先輩からの返事はない。だが、その代わりに先輩の背中が俺の身体に全てを預けてきた。全然重くはなく、足に掛かる負担もない、しばらくいても構わないのに、出来ればすぐに降りてほしいと心の底が恥ずかしさと共に叫んでくる。
静かな部屋に次に聞こえてきた音は、また階段を上ってくる誰かの足音。
それを聞き終えると扉がまた先程と同じ音を鳴らして開く。頭だけ向けて見れば、立っていたのは桜丘先輩で、俺と矢波先輩をまとめて見るとちょっと困った笑顔を浮かべた。
「まだ…やーちゃんから聞いてない?」
「はい…急に座られて、それで」
「そっか。ほらやーちゃん、言わないと」
桜丘先輩が俺の隣に座り話しかけると、俺の身体に触れていた髪が先輩の身体の小さな動きに合わせてこそりと猫じゃらしの先で撫でたように、服の上からくすぐってくる。
そんな揺れる髪に釣られたのか、ベットで目だけは向けていた猫がすとんと降りると矢波先輩の膝へと上る。丸まった背中に先輩の手が伸び、優しく何度も何度も左から右に撫でられる。
どうしたら良いのか桜丘先輩に視線を向けるが、桜丘先輩の口から結果を言うつもりはないと、振るまいから察することが出来た。
間近に迫った矢波先輩のつむじをじっと見つめ、もう一度芽野先輩と名前を呼んだ。
「その…結果がアレだったなら…なんか手伝えること手伝いますし…あー…だから」
ここまで結果を言いたがらない様子を考えると、思いたくはないがまさかと思ってしまう。俺に出来ることなんて限られているだろうが、それでも出来る限りはと話しかけると、やっと先輩の頭が動いた。つむじが胸の方へ下がり、先輩の顔は逆さまになって俺の瞳に写される。
「先輩…」
その逆さまの顔には、向日葵みたく明るい花が元気に咲き誇っていた。
「…合・格♪僕も春もね?」
にっといつもの無邪気で可愛らしい笑顔が言葉の通り、目の前まで近づく。
その事に一瞬極限まで胸が跳ねたが、噴水みたいな勢いで飛び出してきた喜びはそれを忘れさせた。
「お、おめでとうございます…で、い、良いんですよね?」
「もー、嘘なんてついてないよー。ねー、春ー?」
「うん、本当に私もやーちゃんも合格。証拠は、今お父さん達の方にあるんだけど」
先輩達の言葉は最初から信じている。
だが、信じられないのは俺のこの耳や脳で、もしかしたら現実を受け入れられずに勝手に変換してしまったんじゃないかとつい聞き返してしまった。
そんな俺に二人はくすくす軽く笑みを浮かべ、矢波先輩は一層深く俺に背中を預けてくる。しっかり身体を持ってないと後ろに倒れてしまいそうなぐらい深く。
「んじゃ、合格祝い。手、借りるね」
「え」
不意に両手が取られ、矢波先輩のお腹辺りにギュッと回される。
後ろから抱きつくみたいな体勢に腕は反射的に後ろに下がろうとするが、先輩の手は端からそうすると分かりきっていたようにガシッと途中で掴んでくる。
「えへへ~♪あったか~い♪」
「あ、やーちゃんズルい…」
何か閃いたのか桜丘先輩は俺の隣から離れると今度は俺の後ろに回ってくる。
「あ…あの」
「私も良いでしょ?…ね?」
何をするのか聞けば桜丘先輩はくすりと口元を柔くした。それは普段と違わない落ち着いた笑みなのだが、何処か不気味で、矢波先輩が悪巧みをしている時とそっくり。と、その矢波先輩がまたぐいと腕を引っ張ってきて、そっちに目が取られる。
後ろがおろそかになったその時、急に肩口から手が伸びてくる。無論俺の腕が変な方向にねじ曲がった訳でなく、桜丘先輩の手。しなやかで綺麗な指は赤くなっていた。
「春先輩…あの、これ…」
「ふふっ」
名前を呼ぶと耳に笑みと一緒に吐息がかかる。
耳の感覚が異常に過敏になり、恐怖かくすぐったさか身体がびくっと跳ねる。
振り向いてはいけない気がして視線を前で固めていると、まるで生き物の触手のように桜丘先輩の腕が身体にまとわりついてくる。
背中にも暖かな感触が押し付けられ、まさしく挟み撃ち。
「助けて…」と、か細い悲鳴が自然と口から漏れていた。
「私も合格したんだから、やーちゃんみたいにしても良いよね?」
「いや…あの、ほんと許してください…」
迫ってきた真っ赤な顔に乞うが、答えたのは矢波先輩で、いつもの悪魔染みた笑顔で下から覗き上げてきた。
「それ聞いて、僕たちが素直に止めると思ってる?」
その矢波先輩の瞳が一瞬、後ろにいる桜丘先輩に向くと、アイコンタクトでもしたのか、挟み込んできている圧が一層強くなる。
いっそ、このまま押し潰して殺してくれた方がありがたい。だが、そうすることもなく、かと言って解放する訳でもなく、生殺しが続く。
殺人鬼に許しを乞う人みたく助けて助けてとまた繰り返したが、やはり止めるような感じはない。心臓は限界ぎりぎりの筈なのに、それでも何処か安心のようなが穏やかな感情が生まれ、真逆が存在していることに身体の感覚がおかしくなってくる。
…しかしそんな混乱した状態でも耳が拾った矢波先輩から聞こえてきた涙ぐむようなぐすんという音。
少し前にあんな邪気だけの笑顔を見せていたばかりに本当に泣いているとは思えず、気になってぎこちない身体を動かし矢波先輩の顔を覗く。が、精々横顔ぐらいしか見れず、髪の毛がその横顔をほとんど隠してしまう。
となれば、もう声で尋ねるしかない。
「芽野先輩、今…その、大丈夫ですか?」
「…なにが」
返ってきたのはそっけない短い言葉のみ。その変わりようが先輩の変化を教えてくれた。
ただこうして誤魔化そうとしているなら、無闇に触れようとするべきではない。
相変わらずそのままだった俺の手がギュッと強く握られた。
と、俺の背中に半分乗っかった状態の桜丘先輩が優しく矢波先輩に声を掛けた。
「やーちゃん。灯くんなら見せても変に茶化したりしないと思うよ」
「分かってる…けど、ダメ。なんか…先輩としての威厳が…無くなる気がする」
言葉の合間合間にすんすんと鼻が鳴る音が挟まれる。
散々今まで普通通りを貫いていた矢波先輩だったが、心の中ではやはり不安や恐怖が巣食っていたのだ。それが無くなった時、涙が溢れてしまうのはおかしくはないし、むしろ大抵がそうだろう。
それでも先輩はこちらに振り向くことなく、俺の手をひたすらにぎゅっと力強く握る。
俺の行動で先輩たちが少しでも安心してくれるなら、これ以上余計な事は望まない。
表情を覗こうと前に動かした顔もさっきまでの場所に引き返させた。
「…灯くん、見たら思いっきり叩くから」
「見ないですから…大丈夫です」
「…なら、良し」
「ふふ、やーちゃんったら」
今でも結構な体重が掛けられていたのだが、更に一層先輩の背中が俺の胸辺りに深くぼふんと預けられる。
どんなに治まれと願っても胸の鼓動は止まず、どくどく響くこの音が誰のかは未だに判断が付かない。
もしかしたら、三人全員のだったりするかもしれない。
…アルバムで見た、二人で頭を預け眠っていた写真。
あの時の俺はこの二人に出会うなんて想像してなくて、無論先輩達だって同じ。誰もがこうなることを考えてはいなかっただろう。なのに、気付いた時には二人のいつか過去になる写真に混じるようになって、ついには二人の人生の節目に立ち会わせて貰うことが出来た。
別にあの出会いが『運命の出会い』なんて言うつもりはない。
しかし、まぁ人と人との出会いは例え運命が無かったとしても面白いものだと思う。
案外、モブにも慈悲はあるのではないだろうか。
…そんな感じで終わればきっと良い感じになるのだろうが、勝手に人の人生に決着付けられても困る。けれど、あえて終わるように語るのであれば…末永く幸せに暮らしました。
と、そう語った方が良い感じに終わるのだろう。