108話目
108話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
卒業式は終われど、大学の合格発表はまだ先にある。
とは言っても、あるのは卒業式があった週の土曜日で、指折り数えてみればあと三日。
自分のことではないと何回も言ってきたのに、近づくと俺もそわそわし出してしまい、それを見た先輩二人に軽く笑われたりもした。
卒業式は終われど、終業式もまだ先にある。
だが、うちの高校は二年生以下もまた卒業式が終わると少しばかりの休日が貰える。
理由を大っぴらに言われたことはないが、生徒たちの噂として上がっているのは来年の生徒の手続きに時間が必要とか、大抵そういう新年度関連の事である。まぁ答えがなんであれ、休みが貰えるなら素直に受け取っておくべきだろう。そして、その休みの一日目は昨日言われ、先輩二人に明け渡すことになった。
拒否権も拒否する理由もなく、二つ返事で了解していざ今日になってみれば天気は生憎の雨。
昨日の風が雨雲を何処からか運んできていたらしい。
どしゃ降りではないが、雨が降ると外に出る意欲はめっきり奪われる。しかし、延期の連絡はない。
雨と平日の二つの影響のお陰で往来をほとんど無くした道を傘の下、歩き、見慣れた公園や歩道を行き、辿り着いたは矢波先輩の家。
昨日、それじゃあ明日もここでと言っていたし、今日も矢波先輩の部屋の方で合っているはず。玄関の前で傘を閉じ、インターホンをぽちっと押した。
すると足音の後、玄関の扉が桜丘先輩に開けられた。
「いらっしゃい。ふふ、昨日ぶりだね」
「どうも」
「雨、大丈夫だった?」
玄関で靴をがさごそ脱ぎながら、その質問にまぁ、はいと何回も使ってきた返答をする。
と、その後ろ。
階段を真っ白い塊が、とんとんと一段一段両足を付いて降りてくる。
何度も二人の家に通ってきたからか、やっと彼女も俺という存在を許し始めてきてくれて、靴の並びを整えていた俺の横に来ると腕の辺りにしっぽをすっと這わせてきた。
だが、あちらからの接触は良くてもこちらかはダメらしい。同じ状況で前に手を伸ばした時は、思いっきりべしっと叩き落とされ、逃げられてしまった。
傘を脇に置かせてもらい、桜丘先輩の背中を雑談をしながら猫と一緒に追いかけ、先輩の部屋の戸を開けた。
「やっほ、灯くーん」
ひらひらと手を振って矢波先輩は出迎えてくれる。それに会釈と言葉で応えた。
「どうも。…あの、それ」
見れば、振っていない片方の手がテーブルの上にある一つの雑誌のような物に乗っかっていた。二次試験が終わってから結構経つし、息抜きかなにかだろうか。
「これ、プラネタリウムの本なの」
俺の質問に答えをくれたのは桜丘先輩。猫をぎゅっと抱いてぽふんと腰を落とす。
「プラネタリウム…」
俺も追ってテーブルの前で座ると、開かれた本の模文字がくっきりと目に入ってくる。
開かれたページには『冬の星空』と題されたプラネタリウムの写真が確かに数枚登載されており、ざっと見るにここからそんなに遠くはないらしい。ここらのそういう場所には疎く、ページに興味がふっと湧き出てくる。
「少し前に三人で何処か行きたいなって思って、本屋さん行ってきてね。見掛けて買ってみたの」
俺がページまじまじ見ている間、そう桜丘先輩が経緯を説明する。今回の外出の立案はてっきり矢波先輩と思っていたがそうではないらしい。と、その矢波先輩の疑うような声音が耳に届く。
「本屋…ねぇ」
「…別に、他には買ってないよ?…うん、買ってません」
言いながら視線は右上へ逸れていき、居心地悪そうに固い笑みで呟く。…多分、普通の本以外も買ったのだろう。
身体も固まって頬を伝う汗を猫の丸い目がじーっと追っていた。
「…それで、ここ行くんですか?」
「うん、そのつもり。そこまでのバス…は、あるね。君が良いなら明日の、二、三時ぐらいにするけど?早く行かないとこれ、終わっちゃうみたいだし」
雑誌の上で指をなぞるように動かし、お目当ての情報を見つけた先輩は次に俺へどうする?と視線を運ぶ。
卒業式うんぬんで俺も明日は休み。先輩もそこらを踏まえてだろう。大丈夫ですと首を縦に振った。
「そ。じゃ決定♪でも…雨、やむとは言ってたけど、ちょっと不安だなー」
先輩は身体を窓のある後ろにくるりと向けると、青空に蓋をした黒い雲をうーんと腕組みをしながら見上げた。
天気予報では今日の夕方にも雨は落ち着くとは言っていたが、予報でしかない以上俺も先輩と同意見。まぁ、プラネタリウムだし室内なのだろうが、行く途中でも雨が降っていると、気分は盛り上がりに欠けるものである。
折角ならば清々しいぐらい晴れてほしい。
雨上がり、所々にある水溜まりが雲の切れ目の太陽を反射させるあの光景は結構個人的に好きだったりもする。そんな個人的な好みで天気は変わってはくれないが、とりあえず今は天気予報の通りになるよう祈るしかない。
「とりあえず、明日のプラネタリウムは三人で決定だね、やーちゃん」
桜丘先輩が猫の手を掴むとぽむっとまるで議長か何かのようにテーブルを叩かせる。
そしてその猫を脇に置くと、先輩は「飲み物取ってくるね」と言って立ち上がり、それにすみませんとお礼を述べる。
後ろで開けられた扉は桜丘先輩と少しの暖かさを出すとゆっくりと閉じ、置かれた猫は矢波先輩のベットの上にぴょんと飛ぶと暇そうにくつろぎ始める。
当の先輩は俺と一緒に一言返事をすると、雑誌に手を伸ばしてパラパラと他のページを捲っていた。
卒業式の前と何ら変わらない、先輩たちと過ごすいつもの日常が今日も始まる。
迎えた翌日。
予報は見事に的中し、雲の蓋は外れ空には輝く太陽の姿。
三月の太陽はまるで人肌のような暖かさで微睡みを漂わせくる。眼が覚めたときには二度寝も危うかった。
それをなんとか抑え、着替えをし、準備を整え、向かうは駅からすぐ近くのバスターミナル。
ひとまずは駅集合となっていて、普段から使い慣れた道を歩いていく。
午後ではあるがやはり平日。
雨だった昨日に比べ人通りはあるがそれでも控えめで、道はスムーズに行ける。一応念には念をで15分早く向かっているし、遅れる気配はない。
しかし、こうして三人で出掛けるのはいつぶりだろうか。妹含めての四人で行った年明けから、今の今まで先輩たちの試験関係で出掛けるなんてしてこなかった。去年まで記憶を遡ってやっと見つかる。
そう考えると少し緊張してくる。変な服装だったりしてないだろうかとか、そもそも集合場所は駅前で合っていただろうか、立ち止まってスマホに残していたメールをもう一度読み返す。…集合場所も時間も間違ってはいない。
スマホをしまって止めた足をまた前に進ませる。
何度も見てきた店をまた記憶に焼き付けていけば、駅前に到着する。
辺りを見回してみたが先輩たちはまだ来ていないらしい。一本の木を囲むように設置された輪型のベンチに腰掛け、微睡みをもたらす日光を木陰に入ることで防ぐ。
少し早めに着いたは良いが見事なまでに手持ち府沙汰。飲み物でも適当に買ってきた方がいいだろうか。
本は例え室内であれ自宅でないなら読まない派だし、残りですることと言うともう空を見上げるしかなくなる。やはり何時かの時から変わらず、休日のおじいちゃんごっこをしているとふと感じた両脇の気配。
誰かと誰かが、両脇からこそこそ迫ってきているような感じがする。
最初こそ俺と同じように待ち合わせ中の人かなにかと思ったが、人間、基本的に誰かが座っている椅子に座るときは大抵、かなり離れた位置に座りたがる。
しかし、それどころか二人は着実に俺の方にすりすり近寄ってきていて、不気味に思い左の方の影を見れば頬の寸前の所に迫っていた人差し指。
その出所は桜丘先輩だった。
ベンチに腰を置き、上半身だけをこちらに向かわせていた。
「春先輩、何してるんですか…」
「あ…あー…あはは…」
焦ったような笑顔ですーっと先輩の人差し指が落ちていき、後ろにいる、多分矢波先輩に視線は送られる。
俺も後ろを向けば、やはり矢波先輩が桜丘先輩と同じ体勢で俺の頬をめがけて人差し指を伸ばしていた。
「む、バレたか」
「もうちょっとだったんだけどね…」
「…ほんと何してるんですか」
挟まれる形になっていたベンチからたんと立ち上がり、二人へ体を向ける。
桜丘先輩はがっくりと肩を落とし、矢波先輩はちぇっとつまらなそうに足を放り出した。
「二人で指そうと思ってたのにー…なんで気付いちゃうかなぁ、君は」
「ねー」
二人は体勢を戻してから俺の使っていた分のスペースを埋めると、肩を並べて不満そうにむーっと見上げてくる。
「…もしかして、俺より早く来てました?」
「んーん。ついさっき来て、君がぼけーっとしてたから、ほっぺ触って驚かせようって。僕の案です♪」
「触りたかったなぁ…」
「触りたかったよねー?」
こっちを見上げたまま二人は同時にねー?と首を傾けて、文句を言ってくる。
ただのパワハラに苦い顔を返すと、端からそのリアクションが目的だったのか二人は口元を柔くした。
「でも、僕たちも結構早く来たつもりだったんだけど、今回も負けちゃったか。うむ、関心関心♪」
「まぁ…前に遅刻しましたし」
「へー…どれくらい?」
「30…40分ぐらい?」
言うと、桜丘先輩はうわーと驚きで口を開ける。今聞いても中々の大遅刻。昔の事でもいたたまれなくなり、行き先の困った視線をバス停へと向かわせた。だが、余裕を持って、尚且つ全員そこそこ早めに来たこともあり目的のバスはそこにはない。
「ま、でもそのお陰で一日言うこと聞いてくれたし、ラッキーだったかも?」
「言うこと…なんでも…」
ぽつりぽつりと呟く桜丘先輩になんでもは違いますと首を横に振る。…あの時の事を話したせいで少し嫌な、不気味な映像が蘇ってしまう。
その後もバスが来るまでベンチで適当な会話をしていると、矢波先輩が「お」と声を漏らした。そして後ろから聞こえてきた車のようなものの停車音。
振り向けば、お目当てのプラネタリウム行きバスが今まさにタイヤを止めていた時だった。
その側面の方には、俺たちがこれから見ることになる冬の星空の広告ポスターが貼り付けられている。
春の陽気に似合わない、冬の星空という文字。もう少しであれが別のに変わるのは簡単に予想が出来た。
二人に乗りますよねと視線を送れば、返ってきたのは二人の手。矢波先輩が左手で、桜丘先輩は右手。
なにかを求めるようにベンチからこちらに伸ばされる。
「あの、行かないんですか」
「灯くんに手伝ってもらわないとー、僕達立てませーん」
「ど、どーしよー」
「…あの」
一体いつの間にこの計画を練っていたか分からないが、とにかく三文芝居の幕は俺が引かなければならないらしい。冷たい目線を一応試みるが、結果は予想通りの無視。
さながらワニワニパニックの歯でも触るかのようにびくびくしながら二人の指先に触れる程度に両手を伸ばす。
すしざんまいに近いポーズで二人の手を恐る恐る掴めば、二人の手も掴み返し、動かなかった腰をやっと上げてくれた。
「ありがと♪」
「灯くん、ありがとうね」
なにか大きな目的でもあるかと思ったが、遊び終えた子供のように満足げな面持ちから察するに、単に後輩と先輩のじゃれ合いの一つらしい。
二人はぱっと手を離すと俺の両脇に来て、そのまま三人でバスへ乗り込んだ。
…バスにしばらく揺られると、中心地から少し離れた場所に位置する科学館に着く。
プラネタリウムがその中に内蔵されている。
建物をまるで喰うかのようにくっ付いている巨大な球体がそれ。ちょっと色を塗れば隕石が激突でもしたように見えるんじゃないだろうかと思うぐらいのサイズ。
例によって人は少なく、お陰で待つことも並ぶこともなく観覧チケットを買うことが出来て、ストレスフリーに三人横並びでふかふかの座席に腰かけた。
まだ開始の時間まではあるため、うっすらと明かりが付けられてはいるが本当に最低限。
空気としては映画館に似ているかもしれない。
けれど、それとはまた違った
静謐な空気も流れていて、何処に目を向けるのが適切なのか分からない。
正面を見れば自然と入ってくる投影機。
複雑な構造の為か見た目からの印象としては近未来というか、小説とかならば逆に過去の優れた文明辺りが作っていそうなオーパーツみたいな感じで、星空よりもこっちの方にロマンを感じてしまう。
と、不意に横から脇腹がつつかれた。
「なんか、緊張するね」
今回は矢波先輩を真ん中にした順番の席。ならば、犯人は矢波先輩しかいない。びくっとしながらも見ると、先輩は口に手を当て、こそっと内緒に話すかのように囁いてきた。
それにですねと相槌を打つ。
奥の桜丘先輩は、この特殊な空間内をきらきらとした視線で忙しなく動かしていた。
矢波先輩がそんな桜丘先輩に対して微笑ましそうにくすりと笑む。
「春、相当楽しみだったんだね」
「あ、あはは…うん。灯くんも、どう?楽しみかな?」
照れ笑いを浮かべた先輩は話の先を俺に向けてくる。周囲は暗いが、それでも頬の朱の色ははっきりと見えた。
「まぁ、あんまりこういうとこ来たことないんで、結構楽しみです」
「そっか…なら良かった」
「うー、でもさ、ちょっとここ寒くない?」
言われてみれば、確かにここの空気はやけに冷えている。
辺りの暗さや静かさ、そういったものが錯覚させているのもあるかもしれないが、肌に感じる温度は肌寒い。
雰囲気出しか単に構造の関係か、はたまたプラネタリウムの投影機を冷ます的な事なのか、そこらは詳しくないから満足な回答が言えない。
矢波先輩は冬の寒さに当てられた時みたく、うぅと椅子の上で身体を小さくした。
「私の、使う?」
「うん…ありがと」
桜丘先輩は纏っていた薄いカーディガンを脱ぐと、頷いた先輩に腕を通さない形でそれを羽織らせる。
十分な暖かさは手に入れられたのか、はふぅと落ち着いた吐息が漏れた。
「はぁ…あったか~…」
幸せそうにしていた矢波先輩の奥で、微笑んでいた桜丘先輩が小さくふるりと身を震わした。目が合うと表情を困ったように崩した。
「…今度は私が寒くなってきちゃったかも」
「あー…その、俺の、使いますか?」
「え?」
俺のぽつりと漏らした言葉に桜丘先輩が驚き、目を見開く。
春の陽気うんぬん言ってはいたが、まだ日付は三月の真ん中にも辿り着いていない。
流石に羽織るもの無しでいると外では寒くなってくるため、俺も一枚余分に軽いものを着ている。
だから、それを使うかどうか尋ねてみたのだが、先輩からの答えはない。
するりと言いはしたが結構内心勇気を使っていて、これで断られたら作られた星空の元、泣くことになるかもしれない。
「その…匂いとかありますし、嫌なら断ってもいいんですけど…」
自分で言ったことに自分を傷つけつつ、びくびくしながら先輩からの返事を待つ。
「う、ううん。じゃ、じゃあお願いしよう…かな」
「わ、分かりました…どうぞ」
俺の心を気遣っての返事かもしれないが、言われた以上、上着を先輩に素直に渡す。
桜丘先輩は矢波先輩経由で受け取ると、手に持ったままじっとそれと見つめ合う。何を考えているのか横顔からは検討が付かないが、そんなに嫌そうではない。…いつも通りそう思いたいだけかもしれないが、その証拠を掴む前に照明のほとんどが落ちる。
光源の一つだった開けられたままの扉が、係員らしき人にギイッと閉められたのが原因。
プラネタリウムがそろそろ始まる合図だろう。
「えー…お待たせしました。それでは皆さんには冬の星空の旅に出ていただきます」
邪魔にならないためか少しテンションの低い声がスピーカーから広がる。
一通りの会話の声量だったり、観覧中での注意を言い終えると投影機が起動する。
すると、さっきまでただの天井でしかなかった場所に夜空が一瞬にして描き出される。
「わ…」
「綺麗…」
顔こそはっきりとは見えないが、二人の感動に満ちた呟きは耳にしっかりと届いた。
しかしそれを気に掛ける事が出来ないぐらい、この星空は俺から心を奪っていた。
空全体に埋め尽くされた無数の星。
この中で名が付いた星なんてのはそんなにないのだろうが、一つ一つの静かな輝きは自分の中の純粋な部分を蘇らせてくる。
気づいた時には意識の水底に沈んだ、過去、当たり前のようにそこにあった純粋さを。
「こちらが冬の大三角で…」
係員の人がそう言うと、それであろう星の集まりがすっと赤い丸に囲まれる。
星なんて全く知らないが、だからこそこうしてなにも考えずに楽しめているのだろう。知っていれば尚良いのかもしれないが、知り過ぎてしまえば純粋を思い出せてはいなかったかもしれない。
何でも、知り過ぎることが必ずしも良いわけではない。
冬の大三角にスポットを当てた係員の人は、次はそれを形成している星座に話は集中させていく。何度も行ってきた事もあってか星空を眺めるのに全く気にならない上手い喋りで、説明もすらすらと進められていく。
それを終えると細かな散らばった星座に話は向き、いつ頃に誰が名付けたのか、そんな歴史的な話も挟まれる。
矢波先輩と桜丘先輩、そして俺も会話を忘れ、輝きを放つ星空を終わるその時までひたすらに見上げていた。
星空を満喫し終え、とりあえず近くを探して見つけた小さな落ち着いていて雰囲気の良いカフェで休憩を取った。
道路側にはサイズの大きな窓が嵌められ、その前に日差しを受けてカウンター席が並ぶ。店の中の方には幾つかのテーブル席があり、俺たちが通されたのはテーブル席。
二つずつの座席で俺と矢波先輩が横に、俺の前には桜丘先輩が座った。余った座席は三人の荷物置きになる。
頼んだ飲み物と共にテーブルに上がる会話は当然さっきのプラネタリウムの事で、先輩二人も心底楽しめたのか話す口調は星の輝きのように明るい。
「綺麗だったよねー…星」
「ふふ、やーちゃんうっとりしてるね」
「ですね」
桜丘先輩の微笑みに誘われ、俺の声にも笑みが混じる。
テーブルに片肘を付いて手を顎の台にした矢波先輩は、ちょっと恥ずかしそうに面持ちを柔らかくした。
「なんかさ、星の下で告白とか、あとプロポーズってベタだなーって思ってたんだけど、案外…良いかもね」
「ね。でも、この辺だとちょっと難しいかもね」
「夜、星見えないっけ」
残念、と、矢波先輩は嘆いた。
ビルや家の明かりでここらの空にさっきみたく満天の星空が現れることはない。
それが分かってから、俺は夜空を見上げた事があっただろうか。
ふと、寝る前の廊下で窓に写る月は見ることはあるが、星の光がないことに何かを思ったことがあっただろうか。
目立つ物にだけ目を引かれる自分が少し嫌になり、何となく頼んだコーヒーに口を付けた。その黒色の表面は星も月も無い夜空に似ていたが、残念ながら代わりに写っているのはロマンの欠片もない俺の顔。
コーヒーの苦さに当てられてか、少し眉が寄っていた。
「もう少ししたら、またあそこで新しいプラネタリウムやるんだって」
ポケットからパンフレットを取り出すと、桜丘先輩は俺と先輩に見易いようテーブルの上でくるっと回してくれる。
「へー、今度は4月?」
「…の終わりからみたいですね」
「うん、みたい」
冬と来たら次はもちろん春の夜空。
特別専門家が来るなりの大きなイベントがあるわけではないが、それでも興味はある。
三人全員が興味を示していたのだが、次に放たれた矢波先輩の声は少し落ち込んでいた。
「…灯くん、4月、いける?」
言うと、桜丘先輩が飲んでいたホットの紅茶を置く。
「そっか。次は灯くんがあるんだもんね…」
二人が心配してくれているのは俺の大学入試の事だろう。
「まぁ…大丈夫だと思います」
「そう?」
先輩達だって入試があったのに前半は思いっきり自由だったのだ。俺がその頃、裏側に触れられるような立場では無かったというのもあるが、流石に一日たりとして休みが取れない訳がない。
そうじゃないと嫌だというのが本音だが、何にしろ休みは取れると信じている。
口にしたのは大丈夫のたったの一言だが、二人はその言葉に安心してくれたらしい。口の端が微かにほどけていた。
「ま、困ったら僕たちが教えてあげるし。それに、僕たちだって、もしかしたら来年も…なーんて」
「や、やーちゃん!ふ、不安になること言わないでよぉ…」
頬を膨らまし、むーっと桜丘先輩は矢波先輩を強く見る。
それに先輩は「でも嘘じゃないでしょ?」と返し、冷たいオレンジジュースのカップを手に取った。
「発表、もうすぐなんだよね…」
「大学までの駅とか、家帰ったら見とかないと。絶対混雑するだろーし」
桜丘先輩の言葉に、矢波先輩はオレンジジュースを通していたストローから口をぱっと離してそう返す。
「今、一応合格発表ってネットとかで見れますけど」
「んー、でも折角ならあの、合格発表、って雰囲気楽しんでみたくない?」
「…確かに」
自宅で何となくパソコンを付けて、大学名打ち込んではい合格発表終わり、というのもこれまでの努力をいささか簡単に終わらせ過ぎ感は確かに感じる。
手軽だなんだとはあるが、手軽じゃないからこそ達成感は強かったりするもので、先輩はそこら辺、重視する人達らしい。
桜丘先輩も同じみたいで、うんうんと頭を振る。
その際、身体の上下の揺れに合わせ俺の上着がぱたぱた靡く。
「……」
プラネタリウムが終わってから今の今まで、桜丘先輩に貸した上着は俺の手に戻ってきていない。
普通に返してほしいと話を振れば良いだけなのだが、プラネタリウムの感想を終わって直ぐ言い合ったりで、そのタイミングが見つけられずに言いあぐねていた。
矢波先輩が桜丘先輩のカーディガンを返すのを忘れてしまっているからこうなっているのか、それとも俺の上着があるからあちらも返せないのかなんなのか。
二人をちらちら交互に見ていると、矢波先輩が「あ」と一言漏らす。
ついに気付いてくれたのかと心の中に期待が走る。
「灯くん、土曜日なんだけどさ」
「…はい」
全く上着に繋がらない話に期待は砕かれた。
土曜日と言えば、今上がっている合格発表の曜日。話の流れからして今週の土曜日以外考えられない。
「その日…家、来てくれない?」
「え…合格発表終わったら、ですか?」
しかし、矢波先輩の首は横に向かってんーんと振られる。
「出来れば、僕たちが合格発表から帰ってくるまで…僕の部屋で」
矢波先輩か独断で決めたことと思い、桜丘先輩の方に視線を運ぶ。だが、先輩もこの事を知っていたらしく、お願いと小さく頭を下げてくる。
「なんで…ですか」
理由もなしに自室に俺を一人きりで居させはしないだろうと思い尋ねると、矢波先輩の顎に置かれていた片手が少し上に上がり、少し赤くなった頬が持ち上がる。
そして瞳が俺から真反対逸れた後、不満でも言う時のように尖った唇がぽつりと微かに動いた。
「……君に、すぐ…会いたいから」
そんな理由を言われて断れるわけがない。
端から断るつもりではなかったが、明確な理由をちゃんと貰い、謎で封じられていた頷きを解く。
「それなら…まぁ、じゃあ…はい、居させてもらいます…」
ただ真正面過ぎる言葉に照れが生まれ、つっかえつっかえになってしまう。それに一層恥ずかしさを感じ、コーヒーのカップに手を伸ばした。
新たな予定を立て、妙な空気を残したままカフェから出た後は桜丘先輩の思い付きで日が傾くまで、付近にあった雑貨店やブティックを適当に冷やかした。
それで時間を費やしたことで、いつの間にかその妙な空気は取り除かれてくれていた。狙ってやってくれていたのだとしたら、俺は桜丘先輩に足を向けて寝られない。
青色の空が夕焼けのオレンジに浸食され始めた頃に行きと同じバスに乗り、何度も通ってきた駅前に足を着ける。
この時間帯の駅前は今まで何度も見てきた光景。
違う高校の制服や主婦だったりが通る道を抜け、しばらく歩けば矢波先輩と桜丘先輩の家の前。
先輩達は俺の正面に立つと、先に桜丘先輩が口を開けた。
「ありがとね、今日は私の行きたい所に付いてきてもらって」
「いや、本当に楽しかったですし」
だから、お礼を言うのはこちらの方と付け足した。
すると、桜丘先輩はそう?と首を傾げ淑やかに微笑む。
その微笑みには何故か気にしていた事が解決した時のような、安心の感情が混じっていた風だった。
「…春?」
矢波先輩もただの微笑みじゃなかった事に気付いたらしく、どうしたのと桜丘先輩の顔を覗く。
「あ…えーっと」
一瞬眉が困った形になり、胸の前で小さく両手をううんと振る誤魔化すようなしぐさをしたが、矢波先輩がそんな少しの事で追求を止めるような人間でないことを俺よりも長い付き合いの先輩は知っている。むしろ、訝しみは増す。
絶えず向けられる矢波先輩の疑いの眼差しに観念したらしく、胸の前に上げた手を下ろすと俺に瞳を運んできた。
「三人で出掛けたかったのももちろんなんだけど、ほんとはね、出掛けた理由の一番は…灯くんなの」
「灯くん?」
「俺、ですか…?」
問うと、桜丘先輩はうんと頭を縦に振る。
一通りの記憶を巡らせてみるが、プラネタリウムに行きたいと誰かに話したことはないし、桜丘先輩から聞いて、久しぶりに思い出したぐらいである。
しかし、桜丘先輩がそう言うということは確実に俺に理由があるのだろう。
口を閉ざし、理由の詳細を求めた。
「…前、灯くんが卒業式の準備、してた時あったでしょ?」
「はい」
大体一週間ぐらい前の事で、忘れるわけがない。
覚えてますと深く頷いた。
「灯くんが嘘ついてないかってやーちゃんから電話代わったときね、なんだか灯くんの声がちょっと疲れてる気がしたの」
「あ…」
「それで、三人で出掛けようって決めたの?」
「うん、なにか悩んでるなら気晴らしになるかなって。あのね…灯くんが良いなら、話してほしいな」
あの時の電話で言われた『大丈夫』の意味がようやく解った。
俺自身でさえ気付いていなかった精神の疲労を、この人は声だけで勘付いたのだ。
その精神の疲労の原因については大体の予測が付く。新崎との会話。それしかない。平静を装い、いつも通りを真似ていたが、やはり何処かで心を疲れさせてしまっていた。
要は空元気の代償。
あの時の事を思い出してしまい、表情の筋肉が固くなってくる。固くなっているくせに、苦み走った顔は簡単にできる。というより、意識せずとも自然とそれになってくる。
しかし、それでは桜丘先輩から向けられる真っ直ぐな瞳には応えられない。
ただ、これしか俺は今、二人に見せる表情はない。
いつの間にか地面に残っていた水溜まりと言っていいのか分からないぐらい小さな水に瞳は落ちていて、なんとか上に持ち上げた。
「…新崎も準備に呼ばれてて、少し話して。まぁ…多分その時のが」
俺の部活での事情を知っている二人からすれば、新崎と話すことが単純な友達同士のような会話だけにならないことは分かっていると思う。
実際そこのところを気遣ってくれたのか、矢波先輩の掛けてくる声の音はとても優しく暖かかった。
「なに、話したの?…あ、嫌なら言わなくても良いんだけど」
「いや、その…笠木さんが部活辞めた事でかなり…怒ってるらしくて」
「…そっか」
言いながら、酷く自分が弱いことを改めて理解した。
最初から自分を強いと思ったことはないが、こうなることが想像できていたのに心の見えないところでは傷を負っていたのだ。それも優しさに甘えたことによる自分の惨めさの露呈からではなく、単純に関係が悪化した事を知って。
無論その後、新崎と話したことも影響を及ぼしているのだろうが、結局は全て笠木さんとの話。
「仲直り、しないとだね」
「僕たちも手伝おうか?秋葉ちゃんなら…」
「嬉しいですけど…まぁ、一人でやります。すぐには難しいかもしれませんけど…でも、いずれ」
いずれ。
具体的な数字のない、ほとんど未設定と言っても良いその言葉。凄まじく哀れな言い逃れ。自分の尺度で如何様にも変えられるそれは、特に深く考えることなく口から出ていた。それはつまり紛れもない俺の本心ということ。
しっかり練られた思考よりも、咄嗟の思考の方が人間の本音本心が現れる。俺の本音は今すぐの解決を求めてはいない。
きっと、二人も俺の本心を分かっている筈だろう。俺が先輩達を知っていくのと同じで、先輩達も俺を知ってくれていっている。俺がこんな不定形の言葉を放った時は、大抵逃げでしかないと。
けれど、それでも、二人の夕焼けに照らされた表情は暖かなものだった。
「ちゃんと話すんだよね?」
「…はい」
「ん、なら良し」
「困ったりしたら、私とかやーちゃんに遠慮なく頼って良いからね」
「…すみません」
…違う、言うべきはこの言葉じゃない。
「あ、ありがとうございます…」
何度も言ってきたつもりではあるが、やはりその場の雰囲気や空気によって重みというのは変化する。だが、重ければ重い程、伝わりはするのではないだろうか。
二人の目をびくびくしながらも見てみれば、嬉しそうに細めてくれていた。
「お礼はまだ良いよ。僕たちも、あと灯くんも、まだなにもしてないでしょ?」
「そうですね」
「ふふっ、それじゃ、お話も終わったしそろそろ解散しよっか」
そう言った桜丘先輩の身体辺りに矢波先輩の目が向く。
「で、春はいつまで灯くんの服借りてるわけ?」
「あ、そうだった…ふふ、この匂い、私、好きで」
照れたように桜丘先輩が笑いながら俺の上着を脱ぐと、どれどれと矢波先輩が鼻をぴたっとくっ付ける。
その行動に俺も照れて視線の置き場所が毎度恒例行方不明になっていると、矢波先輩は桜丘先輩の名前を呼び、瞳を引き寄せた。
「もーこれ、ほとんど春の匂いしかしないんだけど」
「ほんと?…ほんとだ」
桜丘先輩も上着に鼻を近づけすんすんと嗅ぐと、そう言ってからあーと何処か悲しげに呟いた。
「その…灯くん、返すね」
「…どうも」
「んじゃ、春のもほい。やっと返せた」
上着の交換会が手早く行われ、各々自分の上着が自分の手に戻ってくる。その際、勘違いか俺の上着を桜丘先輩は名残惜しげに見ていた気がして、そう思うと返そうとしたあの手も少し力が入ってたように思えてくる。
しかし、そんなことよりも問題はこの上着。
とりあえず着てみたは良いが矢波先輩の言った通り桜丘先輩の甘い香りしかせず、自分の服を着ている気がまるでしない。考えないように考えないようにと無理矢理頭を騙し込み、なんとか平静を装った。
「灯くん。土曜日、よろしくね。絶対来るんだよ?」
「本当に、良いんですよね?」
「…また僕にさっきの言わせる気?」
「…すみません」
冷えた視線がじとーっと刺してきて、すぐさま謝る。
「お母さん達にも灯くん来るって話しとかないとね、やーちゃん」
「ん。あと、余計にちょっかいかけないよう釘も」
桜丘先輩は矢波先輩から戻ったカーディガンを小さく纏めるとそれをぎゅっと片手で抱く。そして、余らせた片方の手を俺に向けてふりふりと左右に揺らした。
「またね、灯くん」
「じゃーね、灯くん」
ふりふり手を振る二人に、控えめに頭を下げる。
「それじゃあ…土曜日に」
先輩達はまずは矢波先輩の親を説得しに行くらしく、二人揃って矢波先輩の家の方へ歩いていった。
夕焼けを浴びた艶やかな髪はすぐに見えなくなり、遠くでガチャリと扉が開く音が聞こえた。
家へ帰ろうと行く先の道へつま先を指した瞬間、脇から現れた知り合いでもなんでもない人が乗った自転車。
漕ぐ度に回るタイヤが水溜まりの上をスピードそのままに進むと、ぱしゃっと水滴が宙を舞った。