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モブに慈悲はない…?  作者: いす
102/110

102話目

102話目です

誤字・脱字があったら申し訳ありません

 バレンタインデーから幾つかの日が流れた。

 色々苦しい目に会いはしたが、喜んではくれたから…と強引に自分を騙すことで城戸さんには成功と伝えることが出来た。あれで良かったんだ…。

 そしてその翌週。

 この週の水曜日からはうちの高校を受験する中学生のため、三日間の休みが並んだ。

 中学生の妹が家にもいるにはいるがまだ中1。中2になっても、よほど高い偏差値の高校を目指さない限りはあまり勉強は意識しないだろう。だが、高2のこの時期はとりあえず意識しておいた方が良いんじゃないかという気持ちが常に付きまとい、結果三日ばかりの休みはほとんど机とランデブー状態だった。

 その三日を終えた休日。

 矢波先輩達からすれば試験前最後の休日で、当然ながら俺が呼ばれるなんてことはない。だからなのか、割とそこそこの頻度で傍に居させてもらった身として、自分の試験でもないのにどうにも緊張のような不安のような、集中を妨げてくる感情が胸に現れ勉強はそれほど手が付かなかった。

 けれど、かと言ってメールの一通でも送ろうものならばあの人は全力で茶化してくるし、簡単に知ることは出来ない。

 落ち着かぬまま週明けを迎え、少しぶりに再開した高校のある平日。

 中学なのか、大学なのか、受験面で重要な何かがあるらしく、今日はお昼前に早上がりさせてもらえるようで、朝っぱらにルンルン気分で支度していたのだが、そこに静かに響くスマホの振動。弁当なぞ作らなくても良いのに日々の習慣の結果そこそこの早さの時間が画面には表示され、そこにもう一つ、矢波先輩からのメールも表示されていた。

 今日はまさしく二次試験の日。そんな日に連絡なんて一体どういうことかと、不安混じりに手をぽちぽち動かす。

 来たメールを開いてみればそこに書かれていた一文。

『家、今から来て』

 具体的な内容は一切無く、それが不安を一層駆り立ててくる。

 それにまだ時間は朝である。誤ってという可能性も踏まえ2、3分待ってみもしたが訂正メールが届くことはない。つまり、このメールは何の間違いもない俺に宛てられたメール。それを確認してから『分かりました』とこちらも簡単に返信をし、出掛けるための準備を始める。

 時間が時間。

 話の長さによってはそのまま高校に向かわなければならなくなるかもしれない。…まぁ、流石に先輩たちもそこら辺は分かっていそうではあるが、念には念をで普段よりも早く制服に腕を通し、その上からコートを着てマフラーを巻き、鞄を掴んで部屋から出る。

 寒さの張り付いた廊下に靴下を履いた足を置く。

 短い廊下を進むと、丁度下から階段を上ってくる一人の人影。眠そうにとろんと落ちた目をぐしぐし擦りながら、おぼつかない足取りを止め、前に現れた俺に視線を持ち上げる。

「…どこ、行くの?」

 肉球マークの入ったパジャマ姿の妹は、まだ早いであろう俺の制服姿に疑問を覚えたらしく、そう言いながら階段を上りきる。

「ちょっと呼び出し」

「矢波さんたち?」

「…まぁ」

 どうしてそんな直感が優れているのか分からないが、当てられた以上素直に認める。

 すると、ふーんと納得した感じに息を吐き、塞いでいた階段の前を譲ってくれた。

 納得してくれたならと行ってきますの一言を言い階段を降りようとすると、不意に右耳に声が飛び込んできた。

「…ね、矢波さんと桜丘さんに、受験頑張ってって伝えといて」

「あ、あぁ、分かった」

 単に直感が優れていると思っていたが、今日にそれを言うということは先輩たちの試験の日が今日なのを妹は知っていたのだろう。本人からかそれとも自分で調べたのか、どちらかは判断が付かないが、どちらにせよ絶対に伝えなければではある。

 結局、バレンタインデーの時は(はじめ)に頼まれていた励ましも俺の治まらなかった緊張の影響で言いそびれてしまっていたし、これで何とかあれこれ誤魔化しておきたい…。

 それを為すための一歩として、まずは家から出なくては話にならない。

 一度洗面器に顔出して、身だしなみのチェックをおざなりになりながらも済ませ、目立ったデザインのない馴染みの靴を履いて玄関の扉を強く押した。


 まだ完全に取り払えていない眠気を朝特有のすっきりとした寒さで緩和させながら、人通りの静かな道を歩いていく。何度も使った道のはずなのに、時間が違うだけで何処か異界のような感じがする。

 いつまで経っても人のいない公園にはふっくらしたスズメが羽休めに来ていて、その足場になっている木もぼちぼち葉を生やし、纏い始めている。

 歩道にまで伸びたその影に隠れるようにして道を進み、二股を右に。

 朝の空気が冷えているとは言ったが、やはり動いていると体温は暖まってくる。するとこの首に巻いたマフラーがよりそれを高めていってしまうのだが、かと言って外す気にもなれない。時期的にそろそろ片付けてしまうのもありなのだろうが、これに関しては多少の無理をしてでももう少し役目を全うして貰いたい。

 僅かながらマフラーの締めを緩くして空気を入りやすくしていると、そろそろ近くに来ていることを辺りの景色が教えてくれる。

 まさに閑静と言わんばかりの住宅街の道に人の気配はほとんど無く、多分、どの家も似たような朝を迎えているのだろう。だから、外に出ている人がいると自然とそこに目が向いてしまい、加えてぶんぶん大きく手を振っているとなると、そこに釘付けになってしまう。

 遠目だからこそより際立つ二人の身長差。

 知らない人が見れば母娘(おやこ)とすら勘違いされそうな二人に、小走りで呼ばれるがままに向かっていく。

 軽い朝の運動をして目の前に立つと、ラフなパーカー姿の小さな白い息を漏らして朝の挨拶を掛けてくれた。

「おはよ、灯くん」

「…おはようございます」

 俺が返事をすると、私服の上に軽くコートを羽織った桜丘先輩が小さく首を傾ける。

「ごめんね、灯くん。こんな朝早くに呼んじゃって。とりあえず部屋行こっか?」

「良いんですか?朝ですけど…」

 くるっと回って背中を向け、矢波先輩の家に向かおうとした二人にそう尋ねる。

 ここに来るのにそこそこ時間が掛かったとは言え、まだ時刻は変わらずの朝。

 先輩の親にも用事があるだろうし、そんな中の来客だなんて迷惑と思われるに決まっている。

 俺は呼ばれた側でしかないのだが、心がそれを気にしている以上、なるべく口にして変な心配は取り除いておきたい。

 ただでさえバレンタインデーに言われた特別で部屋に入るのにも気持ち悪いそわそわがあるのだ。それが前から無かった訳ではないが、最初の時並みに戻ってしまったのは明白で、もしもそれと気掛かりが合わさってしまえば俺は地蔵のようにその場から動けなくなるかもしれない。もしくは逃げる。

 しかし常に退路を意識していては満足に話も出来なくなる。

 そんな俺の心境に先輩は気付いていないのか、背中のままあっけらかんに「だいじょーぶ」と言って家の玄関を手前に引いて開ける。

 やはりここもさっきの道と同じく時間が違うだけで違和感を感じ、バレンタインデーの言葉関係なく、身体の動きがぎこちなくなる。階段を上る際にふとリビングの扉のガラス越しに矢波先輩の母親が見え、あちらも俺が見えたらしく軽く手をひらひら振って動きだけで挨拶してくれた。

 それに会釈で応え、先に階段を進んでいた二人の背中を追いかける。

 階段を終え、着いたのは矢波先輩の部屋。

 矢波先輩が扉を押し開け、それに俺と桜丘先輩も続く。

 もちろん時間が違うからと言って物の配置が変わるわけはない。しかし壁に掛けられた時計の針と、いつも先輩二人のどちらかにくっついている猫の位置だけは違っていて、片方は8を目指し、もう片方のしっぽらしきものはベットに綺麗に纏められた布団の隙間からはみ出ていた。

 桜丘先輩がランプを付かせていたストーブの延長ボタンをぽちっと押し、矢波先輩は炬燵のないこの部屋で真ん中に陣取る、普段と違って何も乗せていないローテーブルの傍に腰を落とした。

 俺もとりあえずはと入り口から一番近いところの、矢波先輩から見て真正面になるローテーブルの傍のクッションを借りてマフラーをほどき鞄に被せる。桜丘先輩もストーブの延長を済ませるとコートを脱ぎながらこちらに来たが、座った場所は矢波先輩の隣。三者面談のようなその構図に何処か気まずさを肌が感じたのか、二人よりも先に俺の口が動く。

「…今日、試験ですよね」

「うん、9時から開始」

 日付はしっかりと確認はしていたつもりだが、勘違いに備えて試験日を聞いてみたがやはり今日。二時間もしない内に試験は開始時間を迎える。

「だったら、なんで俺…」

「それは…」

 矢波先輩のその言葉の後ろを待つが、つんと口を尖らせると言葉を続かせようとする気配を見せない。むしろ言いたくないと言った感じにうーっと唸り声を上げ視線をぷいっと横に逸らす。その姿はまるで困った時の俺そっくりで、ならば先輩は俺を呼んだ理由には困る何かがあるのだろうか。

 だが、それが分かったところで核心にまで至ることはない。

 分からぬまま頭を悩ませ、ついには俺も困って桜丘先輩を見ると、ちょっと待っててと口だけが動き、優しい声音で矢波先輩を諭し始める。

「やーちゃん、朝早くに来てもらったんだから恥ずかしがらないで言わないと」

「でも…うー…」

「それじゃ、灯くんには帰ってもらう?」

「それは……だめ」

「じゃあ、ね?」

 拗ねた子供のように話す矢波先輩に桜丘先輩は口を柔く綻ばせた表情で応え、最後にはこくんと頷かせる。

 話すと決意した先輩は、近くからクッションを雑に手に取り抱いて、顎をぽふっと埋めて小さく呟いた。

「…不安だったから。今日でその、色々決まっちゃう訳だし…もしかしたら…とか考えたら怖くなって…それで行く前に君の顔…見たくなって…」

 一言一言言う度に矢波先輩の顔はクッションに沈んでいき、声がくぐもっていく。

 沈まなかった瞳も真横に反れていて、一切としてこちらを見ようともしない。

「お、俺に…そんな効果ないと思いますけど…」

 これが相応しくない返事なのはもちろん分かっていた。

 けれど先輩の、俺の顔を見たくなったという言葉に素直に喜びを感じてしまい、まともな形をした返事がろくに出てきてくれなかったのだ。

 せっかく話してくれた理由をまるで茶化すようになってしまい、矢波先輩の瞳が俺を鋭く狙ってくる。

 それに桜丘先輩が淑やかにくすくす笑んで「灯くんも照れてるんだよね」とフォローをしてくれる。

 …俺と矢波先輩の共倒れを招こうとしている気もするけれど。

「…ま、そういうことだから」

 矢波先輩は口を尖らせたままぶっきらぼうに言い、体育座りの身体をより丸めて小さくした。

 と、急に二人のスマホが同時にポロンポロンと弾んだ機械音のような物を響かせる。あまり親しみはないが、何処かで聞いたことのある音。俺がそれを意味もなく二人のスマホをジッと見つめて思い出そうとしている間、鳴ったそれを先輩二人は手に持ち、ぽちぽちと慣れた手つきで操作をし始める。

 桜丘先輩は俺がいるのに気を使ってくれたのか、スマホを使う前にごめんねと一声掛けてくれる。

 …確か、連絡用のアプリの通知音だったような感じがする。

 時々、通知音設定を切り忘れているのか、故意なのか、クラスの誰かが授業中だったり昼休みだったりに似たような音を鳴らしては、今みたくスマホをいじくっていた記憶がある。

 未だメールという原始的な物に囚われている身には馴染みがなく、記憶を引っ張り出すのに少しだけ時間が掛かってしまった。その為、丁度二人の返信とタイミングが被り、思い出そうと二つのスマホを必死に見ていた事を桜丘先輩に気付かれてしまう。

「すみません…」

 別に透視も出来ないし中身は何一つとして見ていないのだが、それでもバレた事に罪悪感のようなものが生まれてつい謝罪の一言を述べてしまう。

「家庭科部の後輩の皆から受験頑張ってって、朝からたくさん来てるの」

「…そうですか」

 親切にも連絡の内容を嬉しそうに教えてくれて、俺の記憶が正解ということも分かった。スマホを抱くように胸に寄せたその動きは、まるで掛けてくれた後輩達からの言葉を大事に胸の内に仕舞い込んでいるようだった。

 ずっと口を尖らせていた矢波先輩もスマホを眺めると表情がくすりと緩まっていて、妙な空気も払拭されてくれたかもしれない。二人がスマホを試験に持っていくらしい鞄に片付けると、布団の隙間で揺れていたしっぽが布団の中に呑まれ、代わりにまんまるの目を開いた頭がすぽっと出てくる。俺たちが話していたのが耳に届いたのか彼女も目が覚めたらしい。ぐーっとベットの上で伸びをして、床に前足を先にしてすとんと落ちる。

「ん、おはよう」

 起きた猫に矢波先輩が声を掛け、手で毛むくじゃらのお腹をもふもふと撫でる。

 その手に身体を這わせ、全体を撫でさせるよう自分の身体を動かしていた彼女だったが、俺が居ることに気付くと何見てんじゃとこちらににゃんにゃん鳴きながら近寄ってくる。

 そのまま真横に来られ、反応に困りながらもそちらに顔を向けていると、桜丘先輩が「あ」と何かに気付いたような声を漏らす。

 そして立ち上がると猫と触れあえずにいた俺の背中を取って腰を落とす。俺の顔の向きが自然とそちらに引っ張られる。

「は、春先輩…なんですか…」

「ちょっと前向いててもらって良い?」

「はあ…」

 言われるがまま身体を猫に指すと、矢波先輩までも俺の背中に付いてきて、何事かと無性に気になってしまう。視界の及ばない背中というのはつまるところ弱点であり、もしナイフを構えられようものなら確実に刺される。

 そんな物騒な気配まるでしないが、正座をしてそわそわしながら待っていると、不意に後ろの髪の毛に何かが触れる。

「あの…」

 呼び掛けると肩の上から桜丘先輩が顔をひょこっと出してきて、その近さに身体が後ろに引く。

「あ…ごめんね。寝ぐせ、付いてて」

「寝ぐせ?」

「そ、手貸して」

 矢波先輩の小さな手に俺の手が取られ、その寝癖があるらしい付近に、頭から少し離して金属探知機の如く手がウィンウィン動かされる。

 その手に本来なら触れる筈のない跳ねているであろう髪の毛の感触がした。

 身だしなみは一応気を付けていたのだが、寝ぼけ眼でしたのが失敗だった。

 ありますね…と恥ずかしさ混じりに返すと桜丘先輩がちょっと待っててと腰を上げ、ベット傍のデザインの可愛らしい棚をごそごそし始め、声だけで矢波先輩に尋ねる。

「やーちゃん。寝ぐせの、ここだったよね?」

「うん、二番目のとこー」

「…あ。あった」

 帰ってきた先輩の手には(くし)と寝癖直しの文字が入ったオレンジを基調とした明るい印象をくれるデザインの容器。

「別に直してもらわなくても…」

「灯くん、これから学校あるんでしょ?だらしがない男の子は女の子からモテない…」

 その後がぱったりと途絶え、不思議に思い首を後ろに向かせると、話の相手を桜丘先輩に変えた矢波先輩が目に写った。

「春…寝ぐせ直すの、やめない?というか…むしろいっそもっと酷くボサボサな感じにさ。栗みたいな」

「だ、ダメだよやーちゃん…。う、うーん、でも…ううん、やっぱり直そう?」

「…りょーかい。はい灯くんこっち見ないで前向く。春、ここ座って」

 そう言うと矢波先輩は立ち上がり、俺の目の前にぽふっと座る。そして後ろに向いたままの俺の頭を両手でがしっと雑に挟むと、強制的にぐるんと前に向かせてくる。

 視界を急に運ばれ後ろの状態が全く見えなくなる中、桜丘先輩がそこに座る気配がした。

「それじゃ、寝ぐせ直してくから動かないでね?」

 暖かい声が背後から耳に届き、シュッシュッと冷たい水のような物が髪に掛けられる。

「んふふ~…♪」

 動く気はもうそろそろ無くなったのだが、矢波先輩は掴んだ俺の頭を離す気が欠片も無いらしく、それどころかわざと自分の顔を目の前まで近づけて、困る俺の反応を楽しみ出そうとしてくる。

 唯一自由に動かせる俺の瞳に、先輩は自分の小悪魔の潜んだ瞳を真正面に置かせてきて、さながら磁石のように反対側に俺が逃げると、それを追ってまた覗いてはくすくすと子供のように微笑む。

 俺の必死の逃走とは反対に背中からはのんびりとした鼻唄が流れてきて、櫛が何度も髪をそっと撫でていく。

「は、春先輩…」

 早々の解放を求めて名前を呼んでみるが、返ってきたのは鼻唄のテンションを引き継いだ優しげな声。

「もうちょっとだから待っててねー」

 それに次いで、優しさとは真反対に位置した意地悪な声。

「だってさ」

 左に瞳を逃がしては簡単に追いつかれ、右に瞳を逃がしてもまた簡単に追いつかれ、どうして瞳の上限は目の中だけなのかなんて、変なことがついには頭を過り始めてくる。

 一番瞳を逃がしてはいけない方向は下。

 下から上目遣いで覗き上げられると、吐息で動くピンクの唇がくっきりと傍に見え、自分の呼吸が機能をなくす。

 安全な左右の追いかけっこで命がけに時間を稼いでいると、髪を撫でていた櫛がやっと離れた。

「うん…直った、かな?」

「えー、もう?もーちょっと遊んでたかったなー」

 しょうがないとぼやきながらも俺の頭を挟んでいた両手をやっと離してくれて、ふぅと疲弊と安堵の入り交じった息が漏れた。

 と、不意に下から「そろそろ準備ー!」と矢波先輩の母親の声が響いてくる。時計を見る限りまだ時間には余裕があるようにも思えるが、心の準備や交通状況を考えれば早めに出るに越したことはない。二人も時間に気付き、覚悟を決めたような真剣な表情を一瞬だけ覗かせた。

「…んじゃ灯くん、着替えるから廊下で待ってて」

「え」

 俺の間抜けな顔を見て矢波先輩がこてんと首を傾げたがその理由はすぐに分かったらしく、あーと説明してくれる。

「試験、家の車じゃなくて駅使って行くから、灯くんも駅から高校行くでしょ?」

「まぁ…はい」

 てっきり車で行くと思い込んでいたが、試験場所には普通に駅を使って行くらしい。話の詳細は桜丘先輩が引き継いだ。

「本当ならお父さんので行こっかなって話してたんだけど、試験場所からだとどうしても仕事に間に合わなくなっちゃうみたいで」

「絶対連れてくーとか言ってくれてはいたんだけどね。でも、駅の方で行けば灯くんと話ながら一緒に向かえるでしょ?だから却下しました♪ほい、そーいうことで監視役」

「にゃー」

 矢波先輩は自分の脇に座っていた猫をわしっと掴まえると、俺に渡し、ぐいぐい背中を押して部屋から俺を追い出す。あれよあれよと部屋から吐き出され、言われた通りに少し寒い廊下でぼーっ待つ。

 その間、俺に渡った猫はうねうねして俺の手から抜け出し、先輩の部屋の前にさながら番犬の如く座る。

 その番猫は来たら問答無用でひっかくと目だけで語っていて、大人しく待つのが確実。

 そもそも覗く気すらない。もしも覗くことがあれど、絶対にバレるし、なんならそれを脅しに金品の要求とかの可能性もあの人なら考えられなくはない。

 人生を棒に振らないため、棒のように立って待ち続けていると急に猫が扉の前から離れ、その後、部屋の扉が開けられた。

 その際に放たれた部屋の中の暖気が、冷めていっていた体温を上げてくれる。

 最初に顔を出したのは見慣れた制服に身を包んだ桜丘先輩。肩の薄い鞄にはいつぞや渡したお守りが揺れていた。

「灯くん、終わったよ。ふふっ、ちゃんと待ってたみたいだね」

 偉いねと桜丘先輩は微笑みを漏らし、続いてその下から矢波先輩がひょこっとつまらなそうな顔を見せる。

 その先輩の鞄にも、桜丘先輩と同じ文字の書かれたお守りがたらんと垂れ下がっていた。

「なーんだ、覗いてきたらとことんまでからかってやろうって思ってたのに」

 やっぱり…。

 判断を間違えなかったことに安心する。制服への着替えを終わらせた二人の手には俺の持ってきたコートや鞄といった荷物があり、それを受け取って外に出る準備を俺も済ませる。

 最後にマフラーを…と桜丘先輩の手にあったそれに手を伸ばそうとしたが、それよりも早く彼女は俺の首にそれをふんわりと被せてくる。

「マフラー、まだ着けてくれてるんだね」

 嬉しさの潜んだような声が耳に届き、首に掛けられたマフラーが先輩の細くしなやかな指に綺麗な形を作り上げられていく。

「…せっかくくれた物、ですし」

「ありがとね」

 マフラーのために俯いてしまい表情こそ髪に隠れて見えないが、声音はとても弾んでいて、このマフラーを付けてきて本当に良かったと首以外もじんと暖まってくる。

 形良く出来上がったそれを桜丘先輩はぽんと叩き、見ていた矢波先輩が「オッケー?」と尋ねてくる。

「準備完了だよ、やーちゃん」

「よーし、行くよ灯くん、春!」

「…はい」

「うんっ!」



 先輩二人の親に暖かく見送られ、駅までの道のりを三人で歩いていく。俺自体は全然今日の試験とは無関係なのだが、もしかしたら俺も実は今日そうなんじゃ…と思うぐらいに見送りはとても手厚いものだった。

 そのお陰もあってか二人の表情は明るく、話も普段のように軽く交わされる。

 空には薄雲のかかった太陽が浮かんでおり、そこから広がる少し強い寒さは腕が当たるぐらいに三人の間を埋める。

 所々の分岐を右に左にあみだくじのように進んでいると、ふと矢波先輩が「考えてみれば」と口火を切る。

「こんな風に三人で朝からって、今日が初めてじゃない?」

「…確かに、そうですね」

 放課後は何度かあれど、朝からは本当に今日が初めて。

 試験が終われば卒業式までは登校の必要がなくなるし、その卒業式の日の登校時間は他学年より遅い。

 なら、今日のこれが最初で最後の三人での登校だろう。まぁ目的地が違う以上登校と言うのは間違いだろうが、とにもかくにも高校生という状態で尚且つ朝のは今日限り。

 だが、そうなったのには事情があるらしい。

 桜丘先輩がくすっと笑んで懐かしむような声を放つ。

「ほんとはね、誘おうかなって何回かやーちゃんと話したりもしたの。でもやっぱり朝だから色々忙しいかなって。ね、やーちゃん?」

 桜丘先輩が視線を向けるとこくんと矢波先輩が首を縦に振る。

「でもま、折角なら一回ぐらい呼んでみても良かったかもね。灯くん、呼んだら今日みたく来てくれた?」

 俺の制服の裾をつまんでくいくい引っ張り、俺の意識までも引き寄せる。

「…まぁ、大体どの時間も暇ですし」

「そっか。あーあー、損しちゃったなー」

「…だね」

 俺の登校時間は実際その日その日で眠気だったりやる気だったりに影響されてまちまちだし、何だったら固定化される分良い誘いだったのかもしれない。しかし、そんな事を思ったところでもうその誘いが来る日は来ない。

「…」

 詮無い話をしてしまったからか、少しばかり空気に後悔のようなものが混じり出していて、桜丘先輩の視線が自身の靴に下がってしまう。

 何かそれを上げるため話題を探していると、一つ、今まで迷惑をかけっぱなしだった頭が適当な話題を思い浮かばしてくれた。

「…そういえば、妹と、あと(はじめ)が受験頑張ってくださいって」

 するとこの空気にやはり先輩達も気付いていたのかすぐに話に乗っかってくれる。

「ほんと?」

「なら、帰ってきたらお礼の連絡、しとかないとだねやーちゃん」

「…それと、その」

「?」

「いや…どうせ俺いつも暇ですし、受験終わったら呼んでくれればいつでも付き合いますし…いやまぁ俺で良ければなんですけど…」

 …別に、こんな話わざわざする必要なんてなかった。

 けど二人が僅かに見せた寂しげな表情がこの後の俺たちの関係に何か響いてしまうんじゃないかと、そんな具体性の無い存在しているかも分からない恐怖を払うため、ほぼ無意識の内に形のあやふやな途切れ途切れの言葉を並べてしまった。

 相変わらず下手な言葉並べに唐突の割り込み、慣れない事への反動で視線の先が定められず、落ち着いたのは先輩達が視界に収まらない斜め下。

 二人の行動が全く窺えず、だから不意に自分の手に触れた誰かの指は心を大きく跳ねさせた。

「ありがと、灯くん」

 包み込むような優しさを纏った矢波先輩の声。指を触れさせてきたのもこの人。

 からかったり茶化したりする感じはせず、下に落としていた視線を二人に向ける。

 足はいつの間にか俺のせいで全員止まってしまっていた。

 声を出さずにいた桜丘先輩はまるで撃たれたように目を見開いたまま無言で俺を捉えていて、自分の胸を両手で抑えて口は半開き。

 なんて、まじまじ見ている場合じゃない。

 勝手な行動を先輩は受け入れてくれたのだ。まずはお礼を言うのが先決だろう。

「まぁ…どうも」

「…でもね」

 その矢波先輩の言葉で身体が凍りつく。でもから始まるのなんて、否定や反論しかない。

「…すみません」

 先に謝って何とか許してもらおうかと思ったが、先輩はそれを軽く笑い混じりの声で否定する。

「いや、違くて。嬉しかったんだけど、出来ればそれ、試験が終わった後に言ってほしかったかなぁ…って思ってさ、そうじゃないと…」

 気になる話の終わり方に疑問の目を向けると、言わなきゃダメだよねと俺の手に触れていない手で、先輩ははにかむ自分の頬をかいた。

「そうじゃないと、その…せっかく今日のために詰め込んだ頭の中がごちゃごちゃになっちゃいそうで…。春なんか固まっちゃってるし」

 矢波先輩の顔が右隣で固まる桜丘先輩の方へとくるっと向き、俺からは後ろ姿しか見えなくなる。触れていた温かな指もその際に俺の手から離れていった

「ほーら、春帰ってきて!」

「ひゃっ!」

 ぱちっと目の前に手を伸ばして猫だましをすると、びくっと身体を跳ねさせて桜丘先輩が意識を復活させる。

「あ…やーちゃん…」

「大丈夫?答え、忘れてたりしない?」

「うん、大丈夫…だと思う」

「ならよし」

 うむと頷いて矢波先輩は止まったままになっていた足を動かして、俺と先輩もそれに遅れて続く。朝もそろそろ良い時間になってきたのかもしれない。

 道に少しながらも人の往来が発生し、ぽつぽつと出来上がった集団の中には仕事のためであろう黒の革鞄や、遠くには馴染みのある俺も着ている制服がちらほら見掛けられた。

 …と、矢波先輩が俺たちから数歩先を歩きながら、落ち着きを取り戻した声だけで俺の名前を呼んだ。

 それにはいと返事をすると、変わらず声だけが言葉を並べ、話を作り上げた。

「…あのさ、試験、終わったら行きたいところがたくさんあるんだけど。それに前に話したホワイトデー、とか…君の春休みが潰れちゃうかもしれないくらいたくさん」

 それに対しての答えならもう少し前に出している。なら、これは答えを求めているのではなく普段と同じ、決定事項の確認だろう。

「…分かりました」

 付き合いますとは返さずにそう俺が言うと、矢波先輩はふわりとスカートをはためかせながら半回転して、俺と桜丘先輩の真ん中の位置に戻り更に半回転して正面を向いた。

「春も?」

「私も大丈夫だよ」

「ふふ…言ったね?」

 俺と先輩が了解したのを確認すると矢波先輩は不適な笑みで不気味なことを言う。何事にも限度と節度は守ってもらわねばこちらが大変になる。

「…節度は守ってください」

 しかし、俺の言葉は「やーだ」と軽く弾かれる。

「もうあれだ、春休みだけじゃなくて明日から早速呼んであげるから。僕と春、受験終わったら卒業式まで休みだし」

「俺普通に学校あるんですけと…」

「放課後からなら大丈夫だよね?」

「桜丘先輩…」

 まさかの味方だと思っていた人が矢波先輩の援護に回り、戸惑って反論の言葉を失ってしまう。2対1となってしまえばもう迎えるのは負けだけ。例え1対2でもこの人なら当たり前に勝ちそうな気がするし、というか実際勝つが、逆の状況になってしまえばもう無敵。

 反逆の意志は存分にあれど、ペルソナを持っていない俺には手も足も出ない。

「まぁ放課後なら…」と降伏宣言をすると、やったっと嬉しそうに二人はハイタッチをぱちんと交わした。

 …そろそろ結構な距離を歩いていきた。

 遠くに駅の姿が見えてきたが、二人は特別緊張はしていないらしい。いや、あるにはあるのだろうが、俺をからかったりする俺を除いてとても楽しい会話のお陰で余裕が持てているのだろうか。

 まぁ年明けに二人の合格を祈った身。

 緩衝材のような役割を得られたと考えれば、何とか耐えられそうな気がする。

 目の前に駅が迫ってきた。

 入り口からは俺達と同じ制服が出てきていて、逆に駅に入っていく制服もいる。後者は先輩同様にこれから運命を決める大事な一日が始まるのだろう。

「…それじゃ」

 駅の前で矢波先輩と桜丘先輩の足が止まった。二人は俺から数歩前に出ると、かつかつと靴を鳴らして俺の真正面に凛々しく立つ。

「行ってくるね、灯くん」

「行ってきます、灯くん」

「い、行ってらっしゃい…」

 大事な場面でさえ上手くならない俺の会話に、二人はくすくすと微笑を浮かべる。

 苦い表情の俺に二人は「じゃあね」と手をふりふり振って駅の方に歩いていく。

 と…ふと、思い出した。妹や(はじめ)からの応援は伝えたが、俺は今日二人に受験への応援の言葉を掛けただろうか。それに気付くと同時に、言いそびれたものを言う為に身体が勝手に動いていた。

「…あの」

「んー?」

「どうしたの?」

 振り向いた二人はどらちも表情が不思議に満ちている。

 喉を動かすのを邪魔してくる羞恥ともどかしさを投げ捨て、そんな二人に応援をした。

「が…頑張ってきてください。芽野先輩、春先輩」

 頑張って。なんて、これまでずっと今日のために時間を費やしてきた二人を傍で見てきた俺が言うのは酷く無責任で勝手で軽薄な押し付けがましい言葉。

 けれど、例えそうであっても無意味ではないとそう信じたくて声にした。

 しかし結局それも俺が一方的に思っていることでしかない。これが間違いかどうか判断するのは目の前の二人に任されており、俺のこの考えなんてのは所詮自分を慰めるための保身でしかない。

「…」

 どれぐらいか、正確には分からない沈黙が流れ、居心地の悪さが胸を圧迫してくる。

 だけど、視線を逸らすことはしない。

 せめてこの時間だけは二人の事を見ていたかった。

 二人の見惚れてしまうぐらいに朗らかな笑顔を。

「…うん!私も、やーちゃんも受験、頑張ってくるね!」

 むんと胸の前で両手を拳に変え、やる気十分と意気込んだ桜丘先輩とは反対に、矢波先輩は笑顔を止めたかと思うと、はぁぁとまるで疲れたような息を吐いた。

「もー、やっと言ってくれた…長かったぁ…」

 頑張っての言葉に向かってではないその発言に、はてなと首を傾げる。すると、そんな俺の理由を知らない顔を見て矢波先輩はむっと睨むように目付きを鋭くする。

「君、僕たちのために色々してくれてはいたっぽいけど、直接『頑張って』なんてほとんど言ったこと無かったでしょ?ずっとそれ待ってたのにー…。灯くんはついさっきのも含めて、色々言うタイミングがズレてる気がする」

「…それは」

 言葉を発しはしたが、先を考えていない事を矢波先輩が分かったらしく、俺との距離を詰め、指をぴんと立てて、立て続けに問いただしてくる。

「それに、聞いたぞー?お参りの時、僕たちの受験の事をお願いしたって。妹ちゃんに言えるのにどうして僕たちには言えないの?」

「な、なんでそれ…」

 妹と俺の二人だけの秘密に留めていたそれがさらっと暴露され、目を丸くし動揺して間抜けな声が漏れ出る。あの時は本当に二人きりだけだったはず。回りに矢波先輩に伝わるような人がいたような記憶もない。となれば、伝えたのは妹で確実になる。仲良くなってきたと思っていたのに突然の裏切りで心が痛くなってくる。

「あ、灯くん、違うの!妹ちゃんが悪いんじゃなくてね」

 心の苦が表にも浮かび上がっていたらしく、桜丘先輩が慌てて割り込んで事の真実を話し出す。

「えっとね、前にちょっと買い物してた時なんだけど…偶然あの子に会って、それで何となく、なにお参りしたの?って話になって。ついでにもしかしたら知ってるかなって灯くんのも聞いてみたら…」

 困ったような笑みで瞳を矢波先輩のいる方に向けると、その事情の話はむーっと不満げに唸っていた矢波先輩へと渡される。

「なんか隠してる感じがするって春が見抜いて、それを僕が吐かせた」

「そんな…」

 一役買ってた桜丘先輩を見ると、鞄の後ろに鼻辺りまでを隠してすいーっと視線を横にどんどん逸らす。鞄の奥に逃げた口が小声で「ごめんなさい…」と謝っていたのがほんの僅かに聞こえた。

 しかし良かった…妹は裏切ってなかった…。

 矢波先輩に捕まってしまったのなら無罪が妥当。誰にも責任はない。台風や嵐に訴訟は起こせないのだ。

「まぁ、だからやっと今日言ってくれて凄く…だ、ダメ。頭の中がまたごちゃごちゃしてきてる…は、春。もう行こっ、灯くんといると色々抜けていっちゃう」

「あ、やーちゃん…!じゃあ灯くん、今度こそ行ってきます!」

「…はい」

 俺が深く頷くと、桜丘先輩は髪と鞄を大きく浮かせるように揺らして踵を返し、早歩きで先を行く矢波先輩の後を、名前を呼びながら小走りで追いかけていった。

 改札を抜けて、電車の停車位置に通じる階段を上っていけば二人の姿が俺の目に写ることはなくなる。

 まぁあれだけ頑張った先輩達だから…と楽観的に考えたくもなるが、俺が知らないだけでそれ以上に頑張っている人は無数にいる。知らないからと言って勝手な希望を持つのは酷く滑稽でしかない。ただ、滑稽であったとしても俺が……なに、信じてしまった二人なのだ。その努力も俺は信じてみたい。

 …とかなんとか、恥ずかしい自分の本心を露呈させている場合ではない。

 鞄を背負い直し、じきに始まる高校を目指した。

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