世界の歪み
「おはよう、かなめちゃん」
教室にはもうユエルちゃんが来ていた。普段そんなに早い登校ではないけど、今日は少し早めに行ってユエルちゃんを待とうと思っていたんだけど。
教室にはまだ人が少ない。それでも、昨日のことをここで話すのは気が引けた。
「学校、案内するよ。ユエルちゃん」
「うん。お願いします、かなめちゃん」
私達は教室を出て、まだ静かな廊下を歩いてゆく。
「昨日、あの後、変な影に襲われたの」
「え……影? それってまさか……」
ユエルちゃんの声が震える。やっぱり、恐ろしいモノだったんだ、あれは。
「かなめちゃん、無事、なんだよね? どうして……」
「能力者の男の子が、追い払ってくれたんだ」
「そ、そうだったんだ……よかった、怪我もなくて」
「……ユエルちゃん。あの影のこと、知ってるんだよね。あれは一体何だったの?」
問いかけると、ユエルちゃんはくっと息を飲んで俯いてしまう。昨日、志輝の世界を壊すことについて訊いた時と同じ反応だ。
「あの影の中から、化け物も出てきたんだよ。それも、前に陽祐が倒したって言ってたやつ」
「……アルーフも……見たんだね」
「それにさ、そもそもこの世界は志輝が創った戦いのない世界なんだよね? なのに、化け物だけじゃなくて能力者も存在しているのはどうして? 能力者って、戦いをするためになるモノなんでしょ?」
「……ひとつずつ、答えるから。ごめんね、ちょっとだけ、待って」
ユエルちゃんは彼女の中で何か整理を付けているみたいだった。話せることと、話せないことがあるのかな。私は、全ての答えを知りたいんだけど。
「まずね、かなめちゃんが言ってた化け物。あれはアルーフって私は呼んでる。アルーフは私と同じように、星の意志が姿形を持ったモノなの」
星の意志……ユエルちゃんと同じ。
「ずっと気になってたんだけど、星の意志って、何なの?」
「星の意志は、この世界のありとあらゆるモノを“現象”として存在させるモノ。見えるモノも見えないモノも全部星の意志だって言い換えられるし、星の意志が集中すれば物理法則だって覆す奇跡を起こせるくらい絶対的な影響力を持っている。……貴女がこの世界に見える“色”そのモノって認識が近いのかも」
私が見る色、色として目に映る全てのモノに、星の意志は関わってくるってこと、なのかな。
「人は皆、星の意志を知覚できるし、日常的に星の意志を利用しているの。意識してないだけでね。そんな中で、普通よりも多くの星の意志を意識的に操って、自分の好きに奇跡のような現象を起こせる人が、能力者と呼ばれる人達」
「志輝たち、それに昨日の桜井くんが……そうなんだね」
「彼らは通常知覚できる以上の膨大な星の意志に触れることで、特別な能力に目覚める。だからきっかけさえあれば、誰でも能力者になれてしまうの。そこで、昨日話した朔来志輝の世界の歪みと、遭遇したって言う能力者に繋がるんだけど……」
そこまで言って、ユエルちゃんはまた口を閉じて立ち止まった。
続きを促そうとした私は、彼女がスカートをきゅっと握りしめていることに気付く。何かに、怯えているの……?
「……かなめちゃん。私に、ついてきてくれる?」
恐る恐る、といった様子でそう言うユエルちゃんは、私の先を行き階段を登っていく。そうして辿り着く場所は、屋上だった。
ここに来ると思い出す。外が暗くなって、学校中から人がいなくなって、響いてくる物音を頼りにここに来て。この扉を開いた時、そこには志輝と陽祐とアエリアちゃんが居て、戦っていた。
私がかつて彼らの戦いを直に見た場所、非日常の存在を私に教えたこの屋上に、ユエルちゃんは私を連れてきた。
「この世界には、歪みがある。でも、それをただ野放しにしないように、世界には自ら歪みを正すための自浄機能が働いているの」
言いながら、ユエルちゃんは何かを取り出した。昨日私に渡したモノとは別の黒水晶だ。幾つあるんだろう。
黒水晶はまるで呼吸しているかのように淡い光の点滅を繰り返している。生きてるみたいで、ちょっと不気味だ。
「自浄機能が齎す作用として出現するのが、アルーフ。アルーフはこの世界の歪みを喰らい、この世界を正しい形に戻そうとする。けれどこの世界自体が歪んでいるから、アルーフが喰らって直した歪みが新たな歪みを作ることになる」
ユエルちゃんは黒水晶をここから離れた屋上の中心に向かって投げる。コンクリートを跳ねた水晶は破片を散らしながら転がってゆく。すると、水晶を囲むように、二つの人影が揺らめき立ち上った。昨日見たモノだ。
私は昨日の恐怖を思い出して逃げ出したくなるけど、ユエルちゃんが私の前に出て壁になるように立つと、小さく大丈夫と囁く。
二つの影は水晶を挟み込むように重なりひとつの深黒になると、再び揺らめいて姿を消した。
そこにあったはずの水晶は消え、代わりに一輪のタンポポがそこに咲いていた。
「あの“絶対”の欠片を歪みと認識した世界は、アルーフを使ってその存在を元からこの世界に存在するであろう別の存在へと変換する。そうして成り代わった存在はこの世界では元から有ったモノとして世界も認識するの。たとえ、私達から見てそれがどんなに歪んでいたモノだとしても」
一連の流れを観測していた私だから、水晶が花になったこと、ここがコンクリートの屋上で花が咲く場所ではないことに違和感を覚えるけれど、この世界を生きる人々はきっと、ここに花が咲いていることを当然のことだと認識する。そういうこと、なんだ。
だから、慧愛さん……いや、ケアちゃんたちが別人として私たちの世界に溶け込んでいても、誰もが当然と思っていたんだ。だって、他の人にとっては最初からケアちゃんは慧愛さんだったんだから。
「ただ、そうして修正された歪みは別の歪みを生み出す。布を引っ張って皺を伸ばせば、また別のところが皺を作るみたいに。それだけじゃない、修正されて新しく作られた“正しいモノ”にこそ、膨大な星の意志の集中が起こるの。それは、極端なモノであれば、触れれば人を能力者に目覚めさせるくらいに強力な影響力を持つモノとして、この世界の自然に溶け込む事になる」
じゃあ、桜井くんは、いや他にももし能力者になってしまった人たちが居たとして、彼らはこの世界の修正された歪みに触れたことがきっかけになって能力に目覚めたというなら。
「もしかして……私も、能力者になっちゃってるの……?」
だって、何に触れて能力者になるかわからないってことでしょ? ということは、既に私もそうなってる可能性はあるよね……?
ユエルちゃんは少し焦ったように首を横に振った。
「ううん、かなめちゃんは能力者じゃないよ。そこは安心してほしいな」
「そ、そうなの……?」
「かなめちゃんが能力者だったら、私がここに居る必要ないもの。私は、貴女の力になるためにいるんだよ?」
そうだ、ずっと気になってた、彼女のこの言葉。
「どうして、ユエルちゃんは私を……私を助けようとしてくれるの?」
「えっ……それは……」
度々口に出すその言葉は、私にはとても心強い言葉だけれど。ユエルちゃんが私によくしてくれるだけの理由を、ユエルちゃんという星の意志が私に力を貸してくれるだけの理由を、私は知らない。
ユエルちゃんの言葉を待っていると、後ろで、扉が開く音が聞こえた。誰かが屋上に来たんだ。
「うーん、やっぱり屋上は風が気持ちいいよねー」
「ちょっ、待って、明日香、はや、速いよ……」
女子と男子の二人組みたい。女の子を追いかけてきたのか男の子は息が上がっているようだ。
「朝から元気だね、明日香は……」
「だって、せっかく自由に身体が動かせるんだもの、走れるってほんと楽しい! 零志だってそう思うでしょ?」
「そりゃ、そうかもしれないけど……って」
足に手を付け、肩から呼吸していた男の子は顔を上げる。あまりに賑やかだからつい声のする方を見た私は、その男の子と……昨日の能力者、桜井くんと目が合った。
「……えっ、き、昨日の……桜井くん……?」
「あ……ど……どうも、じゃなくて、その……はは」
桜井くん、同じ学校だったんだ。
「んー? ……零志、知り合いなの?」
「えっ、あ、いや、えーと、なんて言ったら……知り合いというか、昨日会っただけというか……」
一緒の女の子に凄まれて、桜井くんは挙動不審気味に声も身体も縮こませていく。あちゃ、はっきりしない態度だから勘違いさせてるかも。
でも、すぐに昨日の事が言えないのって……多分、昨日彼が言ったことに関係するんだろうな、この子に。
「あの、昨日私、道に迷っちゃって。その時に偶然、桜井くんに助けてもらったんだ」
当たり障りのないような言葉を選んで声を掛けて、彼女さんの誤解を解こうとしてみる。うん、助けてもらったのは嘘じゃないし。
「……そーなの? 零志」
「あ、そ、そう。迷ってたの、助けて、うん、それだけ」
「……ふーん。なら、いいけど」
ちょっぴり不機嫌そうなままだけど、一応納得してくれたみたい。なんだか微笑ましいかも、この二人。
「私、雪平明日香。零志の幼なじみで、二年生よ」
「私も二年生なんだ。千種かなめ、よろしくね、明日香ちゃん」
「よろしくね。そっちの子は?」
「……ユエル・レグルスです。よろしくお願いします」
ユエルちゃんは少し余所余所しい感じで応えた。緊張してるのかな。
「え、二人とも顔そっくりだね、姉妹なの?」
私とユエルちゃんの顔を見比べて、明日香ちゃんは興味津々みたい。活発だなぁ。
「いや、違うんだけどね。すごい偶然だよね」
「偶然でここまで似るなんてそうそうないよ、ね、ほら見て零志!」
「そ、そうだね。本当にそっくりで……いててっ」
見ると、桜井くんは明日香ちゃんに脇腹を抓られていた。
「女の子をじろじろ見ない!」
「えー、ちょっと今のは理不尽ないててっ」
「むー!」
桜井くん、尻に敷かれるタイプなんだろうなぁ。
なんて思っていると、ホームルーム始業のチャイムが鳴った。しまった、思わぬ遭遇でユエルちゃんの真意を訊くタイミングを逃しちゃった。
「かなめちゃん、早く戻らないと」
「う、うん。急ご、みんな」
ユエルちゃんも露骨に急かしてくる。話題を逸らされちゃったのは残念だけど、仕方ない。
廊下を走ってるところを見つかった私達四人は先生に注意を受けつつ、それぞれの教室に戻っていった。
学生達が授業に勤しむ正午前の穏やかな街。
太刀川市を二分する太刀川に掛かる鞘橋の上で、ひとつ、大きな爆発が発生する。
橋の中央で横転し燃え盛るトラックにぶつかるまいと、後続の車両が急停車し、それによってさらに後方の車両に突っ込まれて……事故は連鎖してゆく。
潰された箇所が悪かったのか、トラックに近い別の車両も爆発を起こした。炎が巻き起こり、広がっていく。
川を渡る橋は、瞬く間に炎が支配する地獄へと姿を変えてしまった。
「アァ……真昼に望む花火もまた、美しい」
その光景を目前に、橋の歩道から惨状を見渡す人影が存在した。
「この美しい景色、いつまでも眺めていたい。いたいのに、のにのにのにいッ!」
瞬間、橋の端から端までを覆い尽くす巨大な闇が現れ、深黒に飲み込んでいく。
次にこの影が晴れた橋は、ここで事故があったことなど最初から無かったかのように綺麗な姿を取り戻し、車両の通行も滞りなく行われていた。
「壊れたモノを直す? ありのままを維持する? ふざけるんじゃあない、破壊あってこその美、完成された終末こそ真理であろうにッ! “この世界”のシステムはナンセンスだッ!」
男は叫ぶ。猛る。憤る。
「破壊してあげようじゃないかァ……この世界の「要石」ってやつをさァ……!」
歩き出す男は、地面に足跡を残していく。
それは靴が踏んだ跡に炎が立ち上り、外の空気に冷まされて残る焦げ跡である。
しかし次の瞬間、その跡は影に挟まれて世界の修正を受け、何も残らない。
ただ歩くだけで世界を修正させる男は、真っ直ぐ橋の先にある姫梨ヶ丘学園を目指した。