鏡の少女
真っ白な空間があった。
前後左右なんてもののない、白だけの世界。そこにひとつ、四角の窓が現れる。
窓の中では、まるで古い映画のように色褪せた映像が流れている。
それは逆巻く炎を、聳え立つ氷山を、荒れ狂う嵐を、研ぎ澄まされた刃を、血塗られた銃身を映してゆく。
窓が中央に収束するように消え去った。再び空間は白に満たされる。
『Close Your Eyes……』
白い空間をキャンバスに、何処からともなく文字が描写されると。
世界は、唐突に虚無の黒へと閉ざされた。
「むきゅっ、かなめお姉ちゃん発見です!」
とん、と背中に飛びつく小さな身体に気付いて、私は振り返る。
「千里ちゃん! びっくりしたよ、おはよ!」
「おはよーございますっ!」
朝から元気一杯な白羽千里ちゃんの笑顔に、こっちまで顔が綻ぶ。やっぱり一日のはじめは元気な挨拶からだよね。
「もう体調は大丈夫ですかっ?」
「うん、もう平気平気! 」
「よかったですー! 慧愛ちゃんも心配してたから、帰ったら教えてあげなきゃ!」
昨日、千里ちゃんの住む孤児院に遊びに行った私は、疲れのせいか突然寝てしまったみたい。すぐ近くに住んでるから、目を覚ました後はちゃんと家に帰れたんだけど。
孤児院の院長さんで千里ちゃん達のお母さんみたいな存在である日向慧愛さんにも、心配かけちゃった。今日の放課後にでも、お詫びの挨拶に行かなくちゃ。
「あっ、恵莉ちゃんだ! それじゃかなめお姉ちゃん、また後でーっ!」
千里ちゃんは道の先に友達を見つけたのか、走って行ってしまった。私はそれを手を振って見送りつつ、後を追うように通学路を歩いていく。
ここ太刀川市の名物である太刀川、それを結ぶ鞘橋を渡って、私達の通う姫梨ヶ丘学園へ。
今日もまた、いつもと変わらない一日が始まるんだ。
教室は、いつにも増して騒がしかった。
「今日、ウチのクラスに転入生が来るみたいだよ」
友達からそんな噂を聞いて、この喧噪の理由がわかる。こんな時期に、珍しいな。
少し経って、ホームルーム始業のチャイムが鳴る。担任の先生が教室に入ってきて、黒板に文字を書き始めた。
『転入生紹介』
書き終えた先生が扉の向こうの影に入ってくるよう促すと、扉を開けて一人の生徒が皆の前に立つ。
一言で表してみるなら……鏡?
「ユエル・レグルスと言います。えっと、よろしくお願いします」
ちょこんとお辞儀をした生徒、ユエルちゃんは、顔を上げた時に私と目を合わせて。
「「ええっ!?」」
私と同時に声を上げた。
肌は褐色、黒い艶の髪を後ろに纏めた快活な雰囲気、だけど……私と同じ、顔をしていた。
「凄い偶然ってあるんだね……」
休み時間、隣の席になったユエルちゃんに早速話しかける。
一時間目の授業は隣が気になって全く集中できなかったし。
「私も驚きました。まるで鏡を見ているようで……」
「それ! 私も思った!」
転入生の物珍しさにクラスメイトが集まってくる。皆も私達の顔が瓜二つだと口々に言っては、感嘆の声を上げたり写メを撮ったりしてる。ってちょっとストップストップ!
あっという間に休み時間が終わって、次の授業のチャイムが鳴る。雲雀先生の数学の準備をしないと、と私が鞄を漁っていると。
とんとん、と肩を優しく叩かれた。振り向くとユエルが人差し指を唇に当てて、もう片方の手に持つ折り畳んだ紙を渡してくる。中身は内緒なのかな?
とりあえず受け取った私は、授業が進む中で先生が板書している隙を見つけて、机の下で紙を広げてみた。
可愛らしい文字とイラストでデコレーションされていたその手紙は、お昼ご飯を二人で一緒に食べよう、というものだった。
学校を案内してもらう、という名目でクラスメイトの囲いを振り切ったユエルちゃんと、ユエルちゃんに名指しで指名されて案内担当となった私。同じ顔二人が校舎を練り歩く途中、校舎と部室棟を繋ぐ渡り廊下に出た。
「ユエルちゃん、ひとつ聞いていい?」
「何?」
「何で、私にあんな手紙をくれたの?」
問いかけると、ユエルちゃんは立ち止まった。私も止まって、ユエルちゃんへと振り返る。
「私は、貴女に用があったの。千種かなめちゃんに」
ユエルちゃんは真っ直ぐ、私の目を見て答えた。彼女の碧い瞳は、唯一私の顔と違うパーツだろう。
でも、出会って一日も経ってない私に、用なんてあるのかな。
困惑する私を知ってか知らずか、ユエルちゃんはスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出して見せた。
「黒い、水晶……?」
それは、手のひらに収まるほどの大きさの黒水晶。光を通して少し緑色に光っているように見えるそれを、彼女は私に差し出している。
「この水晶、見覚えはない?」
「見覚え? えっと……心当たりはないけど、どこかのお店で売ってるのかな……?」
こんな綺麗な水晶、今まで見たこともない。ユエルちゃんは、私がこれを知っていると思ったの……?
私がそんな反応を示していると、ユエルちゃんは少し顔をしかめて、手の中の黒水晶を握った。
「ううん、貴女は知っているはずなの。この“絶対”のこと……「星の意志」朔来志輝のことを……!」
彼女がその言葉を口にした瞬間、私の身体に電流が走ったかのような衝撃が駆け巡った。
聞いたことのないはずの単語の数々、頭ではそれを知らないと認識しているはずなのに。何故か、それを昔から知っているような気がして。
自分の中で渦巻く齟齬の気持ち悪さに、覚束無い足取りで廊下の壁にもたれ掛かると、すとんとその場に座り込んでしまう。
ユエルちゃんは私の目の前に来ると、私の手に黒水晶を握らせた。
「私は、貴女の願いを叶えに来たの。貴女の力に、なるために来たの」
私の手に握られた黒水晶。まるで呼ばれているかのように、抜けた腕の力でも引き寄せられるように持ち上がって私の眼前に掲げられる。
黒水晶を覗くと、透き通る緑色の奥に、ひとつの光が見えた気がした。そして、その光がこちらに向かっている……そう感じた時には、私は黒水晶から放たれる眩い緑光に包まれていた。
目が眩む光が埋め尽くした視界、閉じた瞼の裏に、映像が映る。
絵に描いたような、穏やかな島。暖かくて、心地よくて、波の音がする。そんな島に、自分が立っているかのような感覚。
その島に伸びる一本の大きな樹の根に、誰かがいる。そこに立って、島の外に広がる海を見ている。
その誰かを、まるで私は知っているかのようで。
ふと何故か、私はスカートのポケットに手を入れる。何かが触れると、それを引っ張り出す。
それは、一本のクレヨンだった。何故自分のポケットにこんなモノが入っているのか、わからないけれど。
そのねずみ色のクレヨンこそが、私の中の齟齬を掻き消した。全てを、繋げた。
私は映像の先に見える誰かを、彼を、呼ぶ。
「志輝ぃいいいいいいいっ!!」
私の叫びを合図に、光が、映像が、消えていく。
はっと気が付く。目を閉じて座り込んでいた状態から急激に覚醒し、壁に背を滑らせながら立ち上がる。私は……気付かないうちに、涙を流していたみたい。
「志輝……思い出した……この水晶も……」
いつかレジストさんが、私に使った黒水晶と同じモノ。志輝たちが巻き込まれていた「戦い」の、能力に関わる大事なモノ。
黒水晶を掴む反対の手には、ねずみ色のクレヨンがある。昨日、志輝の部屋で見つけたモノ。
そう、昨日だ。昨日私は、私以外が変わってしまった世界が怖くて、消えてしまった志輝を探して。
光の中に見えた島で、一度私は志輝に出会えて、でも志輝は私を追い返して……そこで、今の私の記憶にある「昨日」に繋がったんだ。
「志輝が言ってた……この世界は志輝が作った、最善の歴史を歩んだ世界……志輝は、この世界の歴史には存在しないって……志輝のいない世界が現実で、真実だって……」
思い出されてゆく、私の今までの「本当の記憶」。志輝、陽祐、アエリアちゃん、レオ、時雨さん達能力者と、そのパートナーの実行委員の人達。行われていた「戦い」。
でもこの記憶は、この世界では通用しない。この世界では、「戦い」も志輝たちも元から存在しないことになっている。存在して死んだわけじゃない、存在そのモノが無くなってしまったから、いなくなったのに誰にも気付かれないままで。
涙が溢れる。気付いてしまった、気付き直してしまった私は、また世界と切り離されてひとりきりになってしまった。私以外、志輝たちを知らない世界で……
「泣かないで、かなめちゃん。私が、いるよ」
両手を包み込む温もりに気付いて、顔を上げる。ユエルちゃんが、私の手を優しく包んでくれていた。
「かなめちゃん。貴女は、何を願うの?」
その碧い瞳が、慈しむような眼差しが、私の視線を捉える。
私が、願うモノ……?
「志輝……志輝に、陽祐に、アエリアちゃんに……皆に、もう一度、会いたい……」
涙と嗚咽と、込み上げる想いとで、拙く吐き出される私の願い。それを受け止めてユエルちゃんは、優しく頷いた。
「その願い、私が叶えるよ。私が、貴女の力になって」
「ユエルちゃんが……?」
「うん。絶対にかなめちゃんを、皆に会わせてあげる。だから……これから、よろしくね」
二つの手を左右合わせるように包み込んで、ユエルちゃんは笑顔でそう言った。