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百花恋歌  作者: 妃蝶
8/15

第八話 初恋は朝顔と去って

 ちょっと長め、かも知れません(笑)。

「瑠南、夏休みの暇な時って、いつ?」

 こう凜から二時間程前に尋ねられたのは、七月中旬の土曜日のバレエのレッスン後の事である。

 実は、凜からこの一言を尋ねられる少し前に遡ってみると、瑠南は、凜と二人、更衣室でこんな会話をしていた。


「あー、今年はウチも受験生かぁ~。」

 瑠南は、レオタードを脱ぎながはーっと深くため息をついた。その様子を見た凜は、タオルで白く細い自身の首筋の汗を拭って苦笑した。

「そっかー。じゃあ、今年の夏休みも大変でしょう?」

「はい。何せ、学習会が多くて・・・。」

 受験生である東桜(とうおう)中の中三の生徒は、夏休みに登校日(学習会)が多く、それにしっかり通わないと志望校合格を左右しかねなくなる。だから瑠南も、志望校合格を目指して一生懸命受験勉強に励まねばならぬのだ。

「で、瑠南の志望校はどこなの?」

「桐ヶ崎高校です。」

 東京都立桐ヶ崎高校は、今年で創立九十年を迎える男女共学の高校である。普通科オンリーの高校ではあるが、毎年倍率が高く、バレーボールと吹奏楽の強豪校でもある。

 そのために、二週間ほど前から火曜日と金曜日の週二で、志望校が同じ璃華と一緒に近所の進学塾に通い始めた。その塾には、ルイスや、その他それぞれのクラスメイトも数名いて、二人はすぐに馴染むことが出来た。塾は面倒くさいが、友人がいることが瑠南にとってはせめてもの救いである。

「へぇ、瑠南、桐高なんだ!奇遇ねぇ。実は、私の母校も桐高なんだよね。」

「え?凜先生も、桐高だったんですか?」

 初めて聞いた新事実に、瑠南の大きな目は、更に二倍くらいに大きく開かれた。

「初めて聞いた・・・。」

 凜は、

「だって、瑠南にこの事言ったの、初めてだもん。」

 と、いたずらっぽく少し笑った。そして、瑠南の頭の上に優しく右手を置くと、

「じゃあ、一緒に頑張ろう。私なんかでよければいつでも相談にのるし、勉強にも付き合うよ?」

 と言って、瑠南と目線を合わせた。瑠南はコクリと頷いて、少し冗談も交えてこう言った。

「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、夏休みに先生のお家にお邪魔しちゃおうかなぁ・・・。」

 この言葉に凜は曖昧な感じに笑ったので、瑠南は、

(やっぱり、駄目だよね。)

 と、少しばかり残念に思いつつ、羽織りかけだった淡い黄色のノースリーブのブラウスのボタンを留めた。

 ところが数秒後に、凜の薄くて紅い美しい唇から、

「瑠南、夏休みの暇な時って、いつ?」

 という、予想外だったこの一言が発されたのである。

 そして、事の成り行きによって、瑠南は夏休み二日目の七月二十三日の木曜日、凜の家で彼女に勉強を教えてもらえる事になったのであった。


(ウチ、マジでラッキーじゃん!)

 すっかりテンションが最高点まで一気に上がった瑠南は、家に帰ってからもずっと落ち着きが無く、勉強中だった璃華に、

「ちょっと瑠南、ウザイくらいにうるさい。静かにしろ。」

 と、キレ気味に言われるまで、ずっと、一人で歌ったり踊ったりしていた。璃華にキレ気味に注意されてからも、瑠南は内心テンションマックスで、ずっと鼻唄を歌って塾の宿題である英語のプリントを仕上げていた。

 しかし、瑠南の仕上げたプリントのニ十問中十ニ問が不正解であった事は、翌週の金曜日の塾の時間に明らかになるまで、瑠南はまだ知らない。


「おはよう、瑠南。」

 璃華は、母に言われたので、まだ眠っている瑠南を起こすために彼女の部屋のドアを開けた。只今、午前六時四十五分。今朝も太陽が眩しい快晴だ。

「さあ、起きて。朝ごはん、もうそろそろ出来るよ。」

 璃華が、ラベンダー色のカーテンをチャッと開けると、薄暗い眠りの色に閉ざされていた瑠南の部屋に朝陽の光がさあっ、と射し込んだ。

 一方の瑠南は、自分でタオルケットを剥ぐとやっと目を開いてベッドから起き上がり、璃華の方を半目の無表情でちらりと見ると、

「・・・おはよう。」

 と、いつもより若干低めの小さな声で言って、また顔を伏せた。彼女は、強制的に起こされるといつもこんな風に機嫌が悪いので、璃華も別に気に留めてはいない。

 璃華は、もう一つのカーテンを開けながら、

「今日、終業式だねー。」

 と言った。瑠南も、ベッドの上にある枕やシーツを直しながら、

「やっと明日から夏休みだわー。」

 と、璃華の声に応えた。そして応えると、さっきまでの不機嫌さが嘘だったかのように、明るく鼻唄を歌いだした。

 カーテンを開け終えた璃華は、その様子をしばらく静かに見て、少し前から気になっていた事を瑠南に聞こうと口をゆっくり開いた。

「あのさ、」

「何か?」

  瑠南が、手は動かしながらこちらを振り向いているのを確認して、璃華は浅く息を吸って言葉を発した。

「なんか最近、変わった事でもあったの?」

「え・・・?」

 この声と同時に、瑠南のベッドの上を直す白い手は動きを止めた。だが、彼女はすぐに笑いながら璃華の目を見て、首をかしげた。

「え~?変わった事なんて、別にないけど?」

 璃華は、そんな瑠南の言葉の中にどうも心につっかかる部分があって、思わず、

「本当に?」

 と、聞き返した。その声が、夏の朝特有の日射しのせいで暑くなってきた部屋の中に、璃華自身もびっくりしてしまうほどにはっきりと、そしてやや鋭く響いた。同じく驚いたような表情を浮かべてこちらを見る瑠南を見て、璃華は、少しばかり後悔しながら、瑠南にもう一度穏やかめな声で問い掛けた。

「本当になかったの?」

 璃華の一言に、瑠南は安心したようにまたベッドの上を直す手を動かして、頷いた。

「うん。特にこれといったことはなかったよ。」

「・・・そう。」

 璃華が、ほとんど納得して「先に行ってるね。」と部屋を出ようとしたその時、

「あっ!」

 という、瑠南の何かを思い出したような声が、璃華の両の耳に届いた。璃華は、手がかりをどうしても掴みたくて、手を掛けていたドアノブから手を放して、

「何?」

 と、体ごと後ろを振り返った。

 見ると、瑠南が手招きをしていた。璃華は、瑠南の(もと)へ駆け寄り、

「耳、こっちに貸して。」

 と言われたので、自分よりも背の高い瑠南に合うように背伸びをして、素直に耳を貸した。

 そして瑠南は、璃華の白く形の良い右の耳にこう囁いた。

「実はウチね・・・、凜先生と、付き合ってるの。」

「えっ・・・?」

 囁きを耳に入れた刹那、璃華は反射的に身を(ひるがえ)して、その大きな瞳は動かさずに瑠南をじっと見つめた。

 瑠南は、その視線を気にしていない模様で、少し照れたようにはにかんで璃華を見て、

「付き合ってるんだ。」

 と、もう一度小さい声で言った。

 その瞬間、璃華は頭の中が真っ白になり、何も言えなくなってしまった。

(嘘・・・、そんな訳・・・、訳わかんない・・・。)

 認めたくない事実と、目の前で幸せそうにはにかむ姉の姿の二つが、璃華の心の奥底に未だに残っていた『何か』を、残酷にも一瞬にして打ち砕いた。

(凜先生が、瑠南のものになった・・・。)

 璃華の心は、今にも全てが脆く崩れ落ちそうだった。今、もしも目の前から瑠南が居なくなったら、璃華はすぐにでも大声を上げて泣くだろう。とっくに捨ててしまっていた(はず)の、でもやはり心のどこかで期待していた、淡く儚い、凜への『想い』が、心の中で大きな音をたてて崩れていった事を哀れみ、悔やんで、璃華は泣いたであろう。

 でも、今、幸せそうに微笑する瑠南を見ると、璃華は胸が苦しくなって何も言えなかった。ただ一つ、唇から紡ぎ出された

「おめでとう、瑠南。」

 という、半分に割れた心の中の感情のうちの一つである一言と、機械的な微笑み以外、彼女はもう何も言えずに部屋を後にした。


「璃華、璃華。・・・ねぇってばぁ!」

「・・・あっ!ごめん、蓮奈(れな)。続けて。」

 蓮奈の声で、璃華はやっと我に返った。今は昼休み。朝のショックと午後の眠気も相まってか、今の璃華の耳には、隣で話す蓮奈の声もラジオかテレビの声のようにしか聞こえなかった。

(もう、またボーっとしちゃった。嫌だなぁ・・・。)

 璃華は、内心重苦しくため息を吐きながら、いつもの明るい声で喋る蓮奈の言葉に相槌を打った。

「うん、うん。」

「そんでさぁ、ママったら何て言ってきたと思う?」

「ん?う~ん、何だろう・・・。」

 璃華は、蓮奈の言葉をほとんど聞かずに適当に相槌を打っていたので、さすがに蓮奈も話を止めて、璃華を窺うようにじっと見た。

「ねぇ、璃華、大丈夫?」

 璃華は、蓮奈の方に体を向けて躊躇(ためら)いがちに首を横に振った。その反応に、蓮奈は、

「へっ!?璃華、ぐ、具合でも悪いの?ガチで大丈夫?」

 と慌てふためき、璃華の華奢な肩に手を掛けて軽く揺すぶった。

 璃華は、苦笑して静かに頷くと、小さく口を開いた。

「うん、大丈夫だよ。・・・本当にごめんね、蓮奈。」

 その言葉に、蓮奈は、はーっ、と長いため息を吐いて璃華の肩からゆっくりと手を放した。そして、その手を璃華の頭にそっと置いた。

「あー、よかった~。でも、マジでちょっと心配したよ?」

「本当、ごめんね。」

「まぁ、いいんだけどさ。大丈夫なら、あたしも安心したし。・・・ところで璃華、何かあったの?」

 蓮奈の最後の言葉で、璃華は、今朝の出来事の一部始終を鮮明に思い返し、何も言えなくなった。今すぐにでもここを飛び出して、どこか静かな落ち着く場所で一人、人知れず泣きたい気持ちが、彼女の体の中を一瞬駆け巡った。

 しかし、友達の手前そんなことをする訳にもいかず、璃華は、

「瑠南と喧嘩してきた。」

 と、小さくため息混じりに言った。

 それには蓮奈も納得した模様で、ふーん、と唸って両腕を組んだ。

「瑠南と喧嘩、ねぇ・・・。てか、二人って喧嘩とかするんだ。」

「いや、双子と言えども普通に姉妹だからね。喧嘩はするよ。」

「まぁ、そうだよね。あたしも恵路(けいじ)優大(ゆうだい)、─兄貴達とよく喧嘩するしね。でも、璃華達は仲良いから喧嘩とかしないイメージがあるんだけどなぁ。」

「それは、あくまでもイメージだからね。・・・仲は悪くないけど。」

 璃華が、あくびをしながら苦笑いすると、蓮奈はくすりと笑い、桃色の唇を開いた。

「いいよなぁ、双子って。─あ、でもさ、」

「でも、何?」

 璃華は、蓮奈の横顔を見た。蓮奈は、璃華の方に体を向けると、なぜか少し心配そうにこう言った。

「もしも、二人が同じ人に恋しちゃったら、どうすんの?」

「・・・はい?」

 蓮奈の唐突な疑問に、璃華は、目を丸くした。刹那、彼女の脳内に走馬灯の如く、凜の姿が鮮やかにフラッシュバックした。

「ど、どうって・・・、」

 籠り気味に璃華が呟いたとき、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。同時に、蓮奈が、璃華の頭をポンポンと優しく撫でて、口を大きく開けて笑った。

「アハハハ、ゴメン!ただ、ちょっと言ってみただけだから。そんなに本気にしないで!」

「・・・あぁ、そうか。」

 心ここに在らずな状態の璃華は、蓮奈の話なんか上の空でこう言って頷いた。蓮奈は、璃華が自分の話に上の空なことには気付かず、

「うん。ただ二人って仲良いからさ、ちょっと気になっちゃって。─あ、あたし席戻るわ。」

 と、言い残して、自分の席に戻っていった。

(ウチも席戻ろ。)

 席に座った璃華ではあったが、授業中、彼女の頭から凜の残像が離れることは、一瞬の間もあるはずはなかった。


(凜先生は瑠南のものなのに。ウチったら、どうしちゃったんだろう・・・。)

 黄昏に染まる高原家の庭で、璃華は一人縁側に座り、庭に訪れた夏をただ黙って、虚ろな暗い瞳で眺めていた。

 彼女は昔から、誰にも言えない嫌なことや悲しいことがあると、よくこうして縁側に座って庭の草花を静かに眺めて、沈んだ自分の心を慰めていた。

 しかし、今日の璃華は、いつものように縁側に座っていても、自分の心にできた傷の痛みを癒すことはできないでいる。忘れようとしても、その度に、

(「もしも、二人が同じ人に恋しちゃったら、どうすんの?」)

 という蓮奈の言葉が蘇って、心についた傷はより一層痛みを増した。

(凜先生・・・。)

 うつむきがちだった顔をふと上げてみれば、璃華の目に、庭の一角でひっそりと何輪かの花をつけた朝顔が映った。どこからともなく蒔かれた種が偶然芽を出し、落ちていた石や小さな木に蔓を這わせ、今はこうして淡い青紫の花を咲かせていることに、璃華は、自分の恋を重ね合わせた。

 ある日偶然凜に出会い、ほんの一瞬で凜に心奪われ、『恋の花』が芽を出し花を咲かせ、そしてほんの一瞬で散っていった。

(そういえば─、)

 朝顔の花言葉は『儚い恋』だったっけ、と思い出した璃華は、束の間の恋煩いに浸っていた自分自身を嘲笑するかのように、右の口角を少し上げ微笑した。

 その時、一陣の風が庭を吹き、朝顔の花を一輪、くるりくるりと舞い落として去っていった。

 同時に、璃華の儚い恋も、散った朝顔と共に、風に拐われて去っていった。

(今度こそ、本当にさようなら。)

 失恋の痛みにに終止符を打った璃華は、すっきりとした心で立ち上がり、縁側を後にした。

 廊下を歩く彼女の顔には、もう何の苦悩も後悔も迷いもみられなかった。ただ一つあるものは、心が少し大人になった璃華の、黄昏色の光を宿す強く澄んだ美しい瞳だけである。

 朝顔の花言葉には『儚い恋』の他にも、『固い約束』や『愛着の絆』があります。

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