第六話 メランコリック・ローズ
結構短いです。
「はぁ・・・。」
瑠南は、自室の東側の窓から、外の雨を見てため息をついた。
今は梅雨時。でも、瑠南の憂鬱の原因は、梅雨のせいではない。
(凜先生に会いたいなあ。)
瑠南は、前髪を留めるために着けていた、四本のピンのうちの一本を外して、寂しげな眼差しで見詰めた。
金色のアメリカピンで、上部には、ラメが薄く煌めく、小さな赤いバラの飾りが付いている。
実は、これを含めた、瑠南の前髪に付いている四本の同じデザインのピンは、去年のクリスマスに凜から貰った物である。(と言っても、バレエ教室のクリスマスパーティーで、プレゼント交換の時に、たまたま凜からのプレゼントが当たっただけなのだが。)
ちなみに、今日は発表会から二週間後の土曜日。だが本日は、凜も含めた夢花バレエのほとんどの講師達が研修のため、夢花バレエは休みである。
そのため、瑠南の心は、凜に会えない切なさで、今にも硝子細工のように壊れてしまいそうな状態に陥っていた。
そして、窓硝子の向こう側で、憂鬱そうに降り頻る鈍い銀色の雨が、彼女の心を、より一層脆くした。
(早く、この苦しさから抜け出したいよ・・・。)
抜け出す道は一つしかない事を、彼女は痛いほどに知っている。
でも、それが出来ずにいる彼女は、また一つ大きなため息をついて、指でつまんでいたピンを、縺れて落ちかかってきた前髪に戻すのであった。
「はあー・・・。」
二日後の月曜日、学校でも瑠南は、憂鬱な気分に溺れそうな位浸っていた。
今日は小雨。天気予報では晴れると言っていたくせに、瑠南の気持ちと一緒で、一向に晴れる気配は無い。(無論、空が晴れても、瑠南の気持ちは変わらないのだが。)
(憂鬱だなぁ・・・。)
そんな瑠南のため息に気が付いたのか、前の席にいた亜海が、くるりと瑠南の方に体を半回転させて心配そうに、
「ルナっち、大丈夫?」
と、尋ねた。瑠南は、第三者である亜海には心配をかける訳にもいかず、弱々しく頷いて、
「うん、大丈夫。なんか、ごめんね。」
と、素っ気なかったかもしれないが、そう答えておいた。
それでも亜海は、少し安心したのか、
「もし何かあったら、遠慮なく言ってね。」
と言って瑠南に優しく笑い掛け、また体を半回転させて前を向いた。亜海は、本当に優しくて気の利く少女である。もしも将来結婚したら、きっと、いいお嫁さんになれるだろう。
瑠南は、心の中で亜海に感謝して、
(なんでウチって、いつも自分の悩みに人を巻き込んじゃうのかなあ・・・。)
と思いため息をついて、外で厚い灰色の雲から止むことなく降る雨を、鬱陶しいような気分で、授業が始まるまでずっと眺めていた。
(あー、憂鬱。なんでなのかなぁ・・・。)
その頃、凜も憂鬱な気分に駆られていた。今彼女は、大人の趣味のクラスのレッスンが終わり、午後の、小・中学生のレッスンまで一旦家に帰るので、教室に一人残って午後の準備をしている。外では雨が静かに、でも止むことを知らずに降っている。そのせいなのか、凜は、自分の憂鬱な気分も余計に重くなる気がしてならなかった。
(私、本当に瑠南のこと・・・、)
凜は、自分の本当の気持ちを知りたくはなかったが、知ってしまった今は、ただ切なくて憂鬱だ。
そう、凜はどうやら本当に、瑠南に『恋』にも似た感情を抱いてしまったようである。
瑠南に会えない時は、なぜか寂しくて心が落ち着かなくなったし、その分、今日また会えると思うと無償に嬉しくなった。そして、気が付くといつの間にか、自分の心臓の鼓動が速まり、頬が僅かに熱を持っているのである。
(好きに、なっちゃったのかなあ・・・。)
自分が、異性だけでなく同性に恋愛感情(?)を抱いた事が、最初の内、凜はかなりショックだったし、認めたくなかった。
でも、これ以上自分の心に嘘をつきつづけると、自分がおかしくなってしまいそうで、凜は、自身の心の奥深くにあった瑠南への本当の想いを素直に受け入れた。
そして、受け入れたのはいいものの、受け入れると、瑠南へのたくさんの想いが、凜の心の中に雨のように降り注いだ。それはそれで、重くて憂鬱なものである。
(瑠南に、会いたいなぁ・・・。)
睫毛を伏せて、横目で窓の外を見た凜の瞳に、教室の裏庭にひっそりと咲く赤いバラが、虚ろに映って揺らいだ。
鮮血の如く真っ赤な花と蕾は雨に濡れて、メランコリック且つ妖艶な雰囲気を放っている。
普段、凜は、ずっと前から一本だけあるバラの木なんて、滅多に意識して見たことはなかった。しかし、今日の雨の中のバラは、彼女の心を抉る程に、残酷で美しかった。
赤いバラが雨に濡れる様はまるで、凜の今の複雑な心境そのものであった。
凜の心の雨は、彼女の心の中には収まりきらなくなって、目尻から一筋伝い落ちた。
(この気持ちを瑠南に伝えられたらなあ。)
でも、それが叶わない望みだと知っている凜は、また一人、脆い気持ちを抱えて、午後のレッスンの準備を続けた。
この日のバレエのレッスン後、未だに浮かない気分の瑠南は、更衣室で一人着替えをしていた。他のみんなは、瑠南がトイレに行っている間に着替えて帰っていったようだ。唯花は今日、風邪で休んでいるためここにはいない。
瑠南が、一人で黙々と着替えていると、そこへドアのノックの音がして、
「入ってもいい?」
という凜の声がした。瑠南が、
「どうぞ。」
と返事をすると、凜がスッと入って来てドアを閉めた。閉めた後、彼女は自分の荷物をロッカーから取り出して、持っていたレッスンファイルに何かをペンで記録していた。でも、しばらくした後彼女は、ふと手を止めて顔をあげて、瑠南を何か言いたげな瞳で見て、小さく薄紅色の唇を開いた。
「ねぇ、瑠南、」
「はい?」
「瑠南、今日元気無かったね。」
「え・・・?」
瑠南は、驚きのあまり全ての動作を止めて、凜の二つの目をじっと見た。凜は、どうやら、自分の気持ちを察していたようである。
でも、瑠南は、いつもの癖が出てしまったようで、
「いえ、そんなことありませんよ。」
と答えてしまった。内心、言いたい事は山程あったが、本人である凜には言う訳にもいかず、瑠南はぐっと呑み込んでおいた。
しかし、女の勘は鋭いもので、凜は瑠南の目を見て、ペン回しをしながら意味深な笑みを浮かべた。
「何か、あったんでしょ?」
瑠南の目が一瞬、一・五倍位に見開かれたのを見て、凜は続けた。
「言いたくない事なら、いいけどね。もしも、瑠南が悩んでる事があるんなら、私なんかで良ければいつでも相談に乗るよ?」
「・・・。」
瑠南は、何も言えなくなって、凜から目を逸らして、そのまま目線を床に落とした。照明に照らされたアイボリーの床が、彼女には、いつもより妙に光って見えた。
沈黙が何秒か続く。目線を床に落としたままの瑠南も、ペン回しを止めて瑠南を見る凜も、黙ったままである。
ついに、凜が堪り兼ねたように、こう言った。
「なんか、ごめんね。言いにくい事だったんでしょ?」
「・・・ええ、まあ。はい。」
ゆっくりと、瑠南は、目線を上げて凜を見た。逆に凜は、睫毛を伏せて目線を泳がせていた。
「なら、本当にごめん。私、空気全然読めなくて。あ、私がさっき言っちゃった事は忘れて。本当、気にしないでね。」
気まずそうに苦笑してファイルを閉じた凜を、瑠南は伏し目がちに見た。その時唐突に、彼女の心の中に一つの決意が浮かんだ。そして、その決意を無くさない知らず知らずの内に、瑠南の唇は勝手に言葉の糸を紡いでいた。
「あの、凜先生、さっきの事なんですけど、一ついいですか?」
凜は、ペンをペンケースにしまった後、それをバッグにしまって、瑠南に顔を少し向けた。
「どうしたの?」
「実は・・・、」
どうしたものか、言葉が詰まる。目の前の凜をまっすぐに見ると、鼓動が速まって、目線がうまく合わせられなくなってしまった。
でも、この詰まりさえ出てしまえば、瑠南の心には太陽と青空が戻って来るだろう。
瑠南は勇気を出して、首をかしげてこちらを見る凜の目を、ドキドキしながらもまっすぐに見て言葉を押し出した。
「笑われるかも知れません。いえ、変に思われるかも知れません。でも、ウチはそんなことどうでもいい。だから今、ちゃんと言います。」
瑠南は、一つ息を吸って吐いて、気持ちを言葉にして放った。
「凜先生、ウチ、先生の事が好きです。」
しばらくの間、更衣室は静寂に包まれた。
凜は、その静寂の中で目を張り裂けそうな位に大きく見開き、漠然と立っていた。そして、彼女の目の先に居る、頬を紅く染めながら大きな二つの目で彼女の目をじっと見詰める瑠南を見ていた。
凜の心の中に、様々な感情が溢れ返った。先程までの苦悩の代わりに、色々な想いが洪水のように心に溢れた。
(私の、さっきまでの悩みは無くなったの?そして、報われたの?・・・ということは、瑠南も私のことが好き、私も瑠南が好き・・・!)
凜がそう確信した刹那、いつの間にか彼女の唇は瑠南の唇と重なっていた。凜は自身の唇を、知らぬ間に自ら瑠南の唇と重ねていたのだ。瑠南の目が更に大きく見開かれたのを、見えないながら凜は感じてとった。
二人は、互いの体をしっかりと抱きしめ合って、互いのついに重なり合った想いの喜びを、互いの重なり合った唇の熱情でしかと感じた。
今宵の口づけは、外の雨も、その雨に濡れた赤いバラも、誰も知らない二人だけの秘め事である。
予告通り『春』章は今回でおしまいです。
次回からは新章に入ります。