第五話 黒鳥と白百合(後編)
後編。短めです。
五月三十日土曜日、午後五時二十七分。夢花バレエ教室発表会開演三分前、舞台裏の控え室にて、瑠南は唯花と一緒に最後の振りの確認をしていた。
「ここ、もっと足上げた方がいいかな?瑠南。」
「んー、うん。唯花はアラベスクが見せ所だから、上げた方がいいと思う。」
二人共、衣装を身に纏い、トゥシューズを履き、いつもより念入りにシニヨンを結い上げて、舞台化粧も施した。『海と真珠』に向けて二人は、お揃いの淡いピンクの丈の長めの衣装を着ている。チューベローズの花のようなその衣装は、二人にとてもよく似合っていた。
今日は瑠南にとって、バレエ人生十一回目の発表会である。満四歳の頃は、まだ習い始めてまもなかったので見学だったが、それ以降は、毎年休みなく出場している。
まだ、おぼつかないリズムとステップで踊っていた幼稚園の年中の頃の初舞台から、瑠南の中では十年の歳月が過ぎ去ったのだ。今では、夢花バレエでは数少ない、教室の講師達の全ての期待を一身に背負った『夢花バレエの希望の星』な生徒となった瑠南。そのため、今日の緊張もひとしおだ。
「うー、緊張するなぁ。」
瑠南が、大きい目を更に大きく見開いて呟いた。唯花も、だいぶ緊張しているようである。
だが、始まりは、彼女達を待たずに突然やって来る。ブザーが鳴り響いて、アナウンスが会場に流れる。
「いよいよだね。」
唯花の囁きに、瑠南は首を縦に振った。
そう、舞台の幕開けだ。
『海と真珠』は、瑠南・唯花互いに、息を合わせて踊る事ができていた。半年前から、ずっと練習してきた甲斐があったようだ。
『ロマネスク』は、瑠南と唯花に加えて、同じくシニアBクラスの一部(六人)の、八人で踊った。タイトルにある通り、幻想的で夢のような世界観を、彼女達はバレエで見事に表現していた。
そして、本日のメインともいえる『白鳥の湖』の開始時間が、五分前に迫った舞台裏。瑠南は、黒鳥の衣装に身を包んで、鏡の前で振りの確認を念入りにしていた。オディールは、幕が開いてもまだ登場まで余裕があるため、瑠南はそこまで急がなくても大丈夫なのである。
ちなみに唯花は、二幕『白鳥達の踊り』の中で、ビッグスワン(二羽の白鳥)を演じている。そのため彼女は、他の場所で、もう一羽のビッグスワン役である女子高校生の生徒と、振りの確認をしている。
他、瑠南と同じシニアBクラスの友人達は、一幕や二幕に出演するので、すでに舞台に近い辺りで、踊りの最終確認をしていた。
その様子に、瑠南の心は、少しだけ孤独を感じた。同じクラスの他のみんなは、瑠南と比べるとそこまで目立たない役柄ではあるが、近くに誰かしら生徒が居て、一緒に最後の練習をしたり、緊張を解すために小声でおしゃべりをしたりしていて、楽しそうであったからだ。
一方、瑠南は、出番のほとんどの踊りがソロであるのに加え、一時の相手役である、ジークフリート王子役の夢花バレエ若手男性講師・柚木隼人がすでに舞台入りしてしまっているため、一人ぼっちである。
(なんか、寂しいよなあ・・・。)
凜に、自分の才能が認められたあの日は、天にも昇る気持ちであった。でもある日、みんなとどこか違うことに気が付いた瑠南。その日は、心の片隅にほんの少しだけ、孤独と戸惑いの混ざったような変な感情が感じられてならなかった。そして、認められるとはそういう事だと理解できてからも、変な感情は彼女の心から影を消してくれないでいた。
瑠南は、暗くなってきた気分を変えようと、鏡の前でピルエットをした。ピルエットを終えた時、
「うん、いい感じだよ。」
と、どこからか女性の声がした。瑠南が振り返ると、そこには凜がいた。
「凜先生!舞台の近くにいたのでは?」
「んー、そうだったんだけど、ちょっとこっちに戻ってきた。ホラ、ちびっこ達が騒いだらみんな困るでしょう?」
ちらり、と横を向く凜。彼女の視線の先では、すでに出番を終えた幼稚園児や小学校低学年の生徒達が、今にもバタバタ走り回りそうな勢いではしゃいでいた。
瑠南は納得して、思わず苦笑してしまった。
「なるほど。まぁ、ウチも小さい頃、同じような事してた記憶があります。」
「アハハ、そっか。多分、私も同じ感じだったと思うけどね、小さい頃は。」
凜も、右目元のほくろを右手の中指でなぞりながら、恥ずかしそうに笑んだ。そんな彼女の、軽く握られた左手の中で、何か小さい物が照明に反射してキラリと光った。
(何だろう?)
瑠南が、不思議に思って首をかしげた時、凜が、左手を少し挙げてそっと開いた。
「かわいい黒鳥のお嬢様、落とし物ですよ。」
凜の掌の中で輝いた物、それは、瑠南が先程まで左耳に着けていた筈のイヤリングであった。瑠南は、今更ながら、左手で触れた左耳に違和感を感じた。きっと、さっき、ピルエットの練習をした時に飛ばしてしまったんだろう。
「右耳にはちゃんと着いてあるのに、おかしいなぁ・・・。」
そう呟いて、赤い口紅の着いた唇を突き出す瑠南。凜は、笑って瑠南の左耳にイヤリングを着け直してくれた。ついでに、緩んでいた右耳のイヤリングも、凜は着け直してくれたようだ。瑠南は、両方の耳の凜に触れられた箇所に熱を覚えた。
「舞台では、飛ばしたら駄目だよ?」
いたずらっぽく笑った凜に、瑠南は、深々と頭を下げた。
「はい。本当にありがとうございます。もしもこのまま気付かないでいたら、大変な事になってました。」
「いえいえ、どういたしまして。あ、頭上げて、瑠南。」
瑠南は、そう言われてやっと頭を上げた。凜も安心したのか、にっこりと、淡い桃色の唇を三日月形にした。この笑顔は、美しい凜が更に美しく見える、魔法のような笑顔だと瑠南はずっと前から思っている。そして、この笑顔を見ると、いくら不安な時でも、瑠南は心の奥底から安心することができた。
(なんか、すごいホッとしたぁ・・・。)
そう心が思ったよりも速く、瑠南の唇は、気持ちを言葉にしていた。
「凜先生、ウチ、なんかすごく安心しました。」
「えー?どうして?」
「だって、ウチ、今一人ぼっちでなんか心細かったし。それに・・・」
「それに?」
片方の眉をクイッと上げる凜。よく、聞き返す時に、彼女がする表情だ。
瑠南は、思わず口走りそうになった言葉を、呑み込んだが、危うく、言葉にしてしまうところであった。どうしても、この言葉は、凜の前では言葉にできなかった。
(舞台に上がる前に、大好きな凜先生の笑顔がたくさん見れて、ウチ、幸せです。)
でも、言葉にならない分、瑠南は最高の笑顔を、凜に向けた。
「いえ、何でもないです。ウチ、緊張すると、なぜか思ってないこと喋っちゃうんで。」
「そう。なら、良かった。」
凜は、淡い、優しい笑みを浮かべた。そして、自分の腕時計を見て、
「そろそろ時間だよ、瑠南。」
と言った。瑠南は、凜を安心させるように、笑顔で手を振った。
「じゃあ、行ってきます。」
「はい、頑張ってね!瑠南なら、絶対大丈夫。」
凜も、少しガッツポーズをして、瑠南に手を振り返した。
瑠南は、どんどん離れていく凜の笑顔を、胸に写真か絵画のように鮮明に刻み、早足で控え室を後にした。
舞台の上で、ライトを全身に浴びながら、高貴に舞い踊る黒鳥。黒い衣装を美しく煌めかせながら、ジークフリート王子と二人、優雅に踊る悪のヒロイン-。
そんなオディール、いや、瑠南は、舞台を流れる音楽に合わせて踊りつつも、懸命にオディールになろうと必死だった。
(ウチはオディール、黒鳥のオディール・・・。)
急にドッと押し寄せてきた緊張のせいで、瑠南は内心、オディールになりきっている気持ち半分、素の自分の気持ち半分で、混乱していた。今、自分と共に踊る隼人に、なぜか少し申し訳なくなりながらも、瑠南は、自分の一つの心の中の二つの気持ちを抱えて、必死に踊った。
そして、オディールの見せ場である三十二回転。
(一、二、三、四・・・)
瑠南は、回っているうちに先程までの 二つの気持ちの葛藤が、どんどんどうでも良くなって来ていることに気付き、自分のことながら不思議に思った。同時に彼女は、自分が、『瑠南+オディール』から、『黒鳥のオディール』へと移り変わっていくような感覚に捕らわれていった。
(自分 は瑠南じゃない。黒鳥のオディールなんだ。オディールなら、瑠南の事なんてどうでも良いじゃないか。)
その調子で、オディールの見せ場・三十二回転は美しくきまり、その後も順調に進んだ瑠南は、最後まで、オディールとして舞台の上で華麗に踊っていた。
最後、カーテンコールで、瑠南が客席にお辞儀した時には、ヒロインに退けをとらぬほどの盛大な拍手喝采が、彼女に贈られた。瑠南は、最後の最後のお辞儀で、みんなの拍手に応えるように、深く深くお辞儀をした。
そのお辞儀は、自分がオディールになるまでを支えていてくれた凜と、そんな自分をいつも影で応援してくれていた璃華への、瑠南からの最高のお礼でもあった。
そして、夢花バレエ教室発表会は、午後九時十分、大成功の中で幕を下ろした。
「瑠南、お疲れ様。」
瑠南が衣装や化粧を全て落とし、片付けも終えて、集合写真も録って解散した午後十時五分、璃華は両親と三人、会場のロビーまで瑠南を迎えに行った。璃華の両腕には、可愛らしく上品に包まれたカサブランカの花束が抱えられている。
「はい、瑠南、お疲れ様。黒鳥、ステキだったよ。」
璃華が、花束を瑠南に手渡すと、瑠南は「うわぁ、すごい綺麗!」と歓声を上げて、嬉しそうに花束を受け取った。
「ありがとう、璃華!すごく綺麗な百合だね。」
璃華も、喜ぶ瑠南を見て、嬉しくなった。両親も、娘達の様子を見て、終始にこにこしていた。
「その百合、実は璃華が選んだんだよ。綺麗でしょ、瑠南?」
母が、璃華の右の横から、瑠南に笑い掛けた。瑠南が頷くと、璃華の左隣にいた父も頷いて、
「なかなか大きくて、見事な白百合だよねぇ。」
と言った。
そのやり取りに、口を出せずにいた璃華は、両隣にいた両親を交互に見て、不服に頬を少し膨らませた。
「あー!ちょっと二人共!それ、ウチが言おうとしてたのに。」
「ハハハ、ごめん。」「つい、うっかり。」
両親は、璃華の顔を見て、苦笑した。瑠南も、つられたのか笑っている。その様子に、璃華も、だんだん怒っていることが可笑しくなってきて、思わず笑ってしまった。
「でも、どうして白い百合?」
璃華が、一旦笑い終えて瑠南を見ると、瑠南は不思議そうにカサブランカを丹念に色々な角度から見ながら、璃華にそう尋ねてきた。
璃華は、瑠南には自分で知ってもらいたかったため、
「花言葉。意味は、自分で調べて。」
とだけ小さな声で言っておいた。瑠南は、一応小さく頷いて、今だ不思議そうに、「花言葉、かぁ。」などと呟いている。
「さ、帰ろうか。璃華、瑠南、ママ。」
父の言葉で、三人は会場を後にして、車に乗った。
璃華が、走る車の窓から見た夜空は、黒鳥の衣装のような深い黒色で、オディールのティアラのような白銀の月が、ぼんやりと、鈍く優しく輝いていた。
次の話で、多分、『春』の章が完結します。