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百花恋歌  作者: 妃蝶
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第十四話 其の人

 年内に完結予定だったのに、もう少し長引きそうです・・・

 二日後の昼休み、瑠南は教室の自分の席に座って、凜から昨日借りた太宰治短編集を熱心に読み進めていた。昨夜は遅くまでこの本を読んでいたので、現在は三分の一程度読み終えたところである。

 教室には彼女の他に数名の生徒しかおらず、静かで、時折網戸越しに吹き込む風が蒸し暑い教室に僅かな涼気をもたらしていた。

「その本、誰かから借りたの?」

 前の席に座っていた茅祐が、体を捻って瑠南の方を振り向き首をかしげた。瑠南は、本から目線を上げて頷いた。

「うん。バレエの先生から借りたの。」

「仲良いんだね。」

「うん。こっちの教室は、先生も生徒みんな仲良いよ。」

 瑠南の返答に、茅祐はさも羨ましそうに言った。

「いいなあ、そういう習い事。だって、ピアノとかはみんな個別指導だもの。・・・ところで、」

 言いかけた茅祐は、興味津々といったように先程よりも上半身を前に乗り出した。瑠南との距離が少し縮まる。

「その先生は、女の人?」

 茅祐の質問を聞いて、瑠南は思わず吹き出した。

「うん。当たり前じゃない。男の先生もいるけど、三人しかいないよ。それに、三人とはあまり話したことがない。」

 予想通りの返答だった、と言わんばかりに茅祐は数回首を縦に振った。

「だよね。瑠南が男の人とそんなに仲良くしてたら、私ビビるわ。いつの間にリア充になったのよ、っていう。」

 そう言って、彼女はいつものように愛らしい声で小さく笑ったが、瑠南は曖昧に微笑しながら幾度か軽く頷いた後、何も言えなくなった。

(─付き合っている人がいること、茅祐に黙ってたんだ。)

 瑠南は、いつだったか遠い昔に二人で指切りと共に交わした約束を思い出した。

(「好きな人ができたら、お互いにちゃんと教えあおうね。」)

 幼い、純粋な約束を破ったことを、瑠南はひどく後悔した。

 茅祐は今まで、二、三回瑠南に好きな人がいることを明かしたことがあった。瑠南の記憶上、茅祐が瑠南との約束を破ったことは一度もない。瑠南自身も、今この約束を思い出すまでは茅祐との約束を破ったことは一度もなかった。せ

 しかし、約束を破ったという事実は消える訳でもなく、瑠南の心はじわじわと罪の意識に(さいな)まれていった。

「瑠南?」

 茅祐に呼び掛けられて、瑠南ははっと現実に己を、目線は茅祐の瞳に戻した。茅祐は、瞬きをして、自分より座高の高い瑠南の目を覗くように見ていた。

「瑠南、大丈夫?ぼんやりしてたけど。」

 瑠南は、咄嗟に首を縦に振った。

「うん、ごめん、何でもないの。」

 彼女は、これが誤魔化しだと茅祐にばれてはいないかと心配になったが、要らぬ心配だったようで、茅祐は、

「それなら、私も安心した。」

 と言って、席を立った。

「私、トイレ行って来るね。」

「いってらっしゃい。」

 目の前から茅祐が去ったのを見届け、瑠南は、読みかけのページに栞を挟んで小説を閉じた。疲れた目と脳を落ち着かせるため、目を閉じて深呼吸を何度か繰り返すと、彼女の心に切なさが一気に沸き上がった。

 沸き上がると時を同じくして、彼女の脳裏には凜と初めて想いが重なった日に二人で交わした約束が甦った。

(「このことは、二人だけの秘密だよ。」)

 そう言って、瑠南の唇にそっと指を当てて妖しく笑んだ凜。思い返せば、彼女の指の感触まで唇にありありと感じられるようで、瑠南は思わず右手の中指で自らの唇に触れた。

(─親友をとるか、先生をとるか─。)

 昔、とある小説家が弟子に放った言葉のような思考が、彼女の脳内に血液の如く一瞬で巡った。どちらかを守ればどちらかを裏切ることになる。しかし、二つを守る方法は今の彼女ではどう考えても思いつくことができなかった。


 瑠南は、うつ向きがちに、バレエ教室に向かう足を一定のスピードで単調に動かしていた。

 今の彼女の気分は、昼休みからずっと悶々としていて、胸に何か蟠っているような鬱陶しい気分だった。人にはあまり会いたくない。

 しかし、よりによって今日は、昨日来る予定だったが来られなかった特別講師が来てレッスンを行うと聞いた。

(昨日来ればよかったのに。)

 瑠南は、来るタイミングの悪い、容姿も性格も知らない特別講師を恨めしく思った。

 そんな重苦しいような気分を振り払おうと彼女は、下がってきたリュックを肩に掛け直して前を向くと、歩くスピードを少し上げた。


 凜は、通い慣れた教室への道を普段通り歩いていた。彼女は覚悟を決めた。

 今日来る特別講師は、もう彼に違いなかった。昨日の帰り際、同僚にその講師の名前を尋ねたら、あっさりと彼と同じ響きの名前が返ってきたのである。

 でも、彼女にとってそんなことは今更特に憂うことではなかった。会ったら、普段人に接するように接しておけばいい話である。

 教室に到着した凜は、裏の入り口に回った。彼女たち講師は、よく裏側から中に入る。表の一般的な玄関からも入ることはできるが、凜は基本毎回裏側から入っている。

 ドアノブに右手をかけたとき、鞄の中からメールの着信音が聴こえた。間の悪さに少し機嫌を損ねつつ、彼女はスマホを取り出して受信フォルダを開く。それは友人からで、特に重要な事柄ではなかったので彼女は面倒に思ったが、全文を読んで返信をした。

 スマホを鞄にしまい、今度こそ中に入ろうとドアノブにもう一度手をかけて回したとき、

「あの─、」

 と後ろから声がした。

 いきなり話しかけられて一瞬驚いたが、─耳に覚えのある声だ、と彼女は感じた。なので、

「はい?」

 と彼女は後ろを振り向いた。そして、息を飲み込んだ。

 そこに立っていたのは、凜よりも少し背の高い色白で細身の男性。

 端整な顔立ちは俳優にも負けず劣らず、とでもいう感じで、単に「かっこいい」というよりかは、「美しい」という言葉が似合う風貌である。形の整ったたれ目がちな目や色素の薄い茶色がかった猫っ毛からは、柔らかく優しい印象を与える。

 そんな男性も驚いたように、血色の良い薄い唇を僅かに開いて、

「凜、」

 と、容姿と調和する柔らかい声で彼女の名前を呟いた。そして、顔に穏やかな笑みを浮かべた。

「久しぶり。」

(和真・・・!)

 今、彼女の目の前で微笑んでいる男性、─彼こそ、凜のバレリーナ時代の恋人で今日特別講師として招かれたバレエダンサー・羽鳥和真(はとり かずま)である。


「ありがとうございました。」

 声を揃えた挨拶の後、生徒たちはそれぞれに着替えや帰り支度をするために教室を出ていった。窓の外の六時の空は、陽が傾いて美しい茜色に染まっている。

 室内は、生徒が一人出る度に徐々に静かになり、一、二分後には凜と和真の二人だけになった。

 凜は手近に置いてあった白いハンドタオルを手に取り、額と首筋にうっすらと浮かんだ汗をさっと拭いて、教室の後片付けを始めた。

「俺も手伝うよ。」

 残り少ないペットボトルのお茶を飲み干し、手の甲で口元を拭って、和真は今日使ったCDを片付けだした。

 凜も手を動かしながら、

「ありがとう。」

 と素直にお礼を言った。

 和真は手を休めずに、上がり気味の口角を更に少し上げた。

「なんかさ、練習の後って片付けないと落ち着かないんだよね。」

「それは、私も同じ。和真も、昔からそうだよね。」

 昔、と自分で言った後で、凜は内心苦笑した。

(昔、って言ってもまだ三年か。)

 彼女にとっては、とても長かった気がした。バレリーナを辞めて、ロシアを離れて、出身教室であるここへ戻ってきて、講師なって、瑠南に出会って─。とても濃い三年間だったから、長く感じられたのかもしれない。

 彼女はふと、あることが気になって彼の方を見た。

「ねえ、」

「ん?」

 和真は片付けを終えたようで、空になったペットボトルを左右の手で弄びながら反応した。

「ロシアの方は、変わりない?」

 和真は、手の動きを止めて頷いた。

「うん、変わりないよ。みんな元気。」

「アリーナも?」

 ずっと気になっていた、唯一無二の親友のことも彼女は尋ねた。

 彼は、

「うん。この間の講演の『眠れる森の美女』はリラの精役だったし、そろそろプリンシパルも夢じゃないのかもしれない。」

 と嬉しそうに告げた。

 思いがけない吉報に、凜の顔は嬉しさで綻んだ。

「そっかー。アリーナにも頑張って欲しいな。アリーナに伝えといてね、頑張ってって。」

「わかった、伝えておくよ。─ところでさ、」

「何?」

「凜って、これから何か予定ある?」

 唐突に問われて、凜はきょとんとして首をかしげた。いきなり予定を聞くなんてどうしたのだろう、と彼女は疑問を感じた。

 しかし、特にこれといって予定も無く帰宅するだけだったので、凜はそのまま首を横に振った。

 和真は、「だったら、」と何か提案しようとするように凜の方を見た。

「久しぶりだし、もしよかったら、これからどっかで何か食べない?俺、奢るよ。」

 今日は何事にもそこまで乗り気ではない凜は、どうしようか迷ったが、久しぶりに会うし奢ってもらえるということで悪くはないと思い、

「じゃあ、ご馳走になります。」

 と承諾した。

 二人は和真のレンタカーに乗って、そのまま食事に出かけることにした。


 母と璃華と一緒に夕食を食べている瑠南は、食欲が湧かずあまり箸が進まないでいた。

 彼女は茶碗によそった白いご飯を箸で口に運びつつ、先程教室からの帰り際、凜が特別講師の和真となにやら親しげに会話していたことを気にしていた。

(あの二人、知り合いなのかな?)

 噛んだご飯をお茶で胃に流し込む。

 瑠南は、和真は凜が昔所属していたバレエ団に所属しているダンサーだと聞いていた。凜と和真はおそらく歳も同じくらいだろう、と瑠南は会話する二人を見て察した。

(もしかして、凜先生がこの前話してくれた元彼とか?)

 サラダに入っていたレタスを、まるでうさぎかモルモットのようにちまちまとかじる彼女の脳裏に、ふとこんなことがよぎった。レタスをそのまま口に入れて粗嚼し、飲み込む。

(まさかね、元彼ならあんなに親しげにしないよね。)

 瑠南は、心配し過ぎかもしれない、と自分に言い聞かせて食事を再開した。

 寒くて執筆意欲が湧かない私。情けないったらありゃしない・・・

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