第十三話 月見草
かなり遅くなってしまいました。すみません。
二学期初日の朝休み、璃華は教室前の廊下に茅祐と並んで、女子中学生らしい他愛もない会話を交わしていた。
暦の上では今日から九月と言えども、夏の暑さは未だ止まることを知らず、射し込む日射しが二人の華奢な体をじりじりと焼かんばかりに直撃する。
二人は、眩しさのあまりに目を細めて、利き手で庇を作った。
「そういえばさ、」
茅祐はそのままの姿勢で、顔をほんの少しだけ璃華の方へ向けた。
「璃華は高校行ったら、部活とかやんないの?」
意外と素朴な疑問に、璃華は両腕を組んで横の茅祐を見た。
「ん~、やってみたい、かなぁ。・・・て言うか、何で中学校から部活やってなかったんだろう?なんかやってればよかった~。」
「本当だよ~!吹奏楽来ればよかったのに。璃華だったら、ホルンとか似合いそう!」
「ホルン、いいよね。音、柔らかくて綺麗だし、形もぐるぐるしてて可愛いし。」
「でしょ!?」
「うん。あー、でも、吹部(吹奏楽部の略称)もいいけどあれもいいかな、演劇部。」
「確かに!楽しそうだよね。」
楽しそうに相槌をうつ茅祐。
数分経って、演劇部トークで二人が盛り上がってきた頃、
「あれ?璃華、髪切ったんだ。」
と、リュックサックを背負ったままの純也が、今の話に関係のない話題で話に乱入してきた。
「あ、純也じゃん。おはよう。」「おはよう。」
璃華と茅祐の挨拶に、彼は「おはよう。」と返して話を続けた。
「璃華、髪の毛短くなってる。」
「うん、だって切ってきたんだもん。つーか、学習会で今の髪型のウチのこと見なかった?」
「ん~・・・、お前の後ろ姿らしきもんは二、三回見かけた・・・気がする。今、考えればだけど。」
「いやいや、気がするって何よ。」
茅祐が突っ込む。その後に続けて、
「正面から見てないの?」
と、璃華は純也に問い掛けた。軽く頷く純也。
「ああ。第一、見てたら今こんなこと言わねえだろ。」
「まぁ、確かに・・・」「そうかもね。」
女子二人は素直に同意した。
「そんで、」
純也は、改まったように璃華の顔に目を向けた。
「どうして、髪切ったの?」
何気ない純也からの疑問。しかし、璃華は一瞬黙りこんだ。─本当の理由なんて、口が裂けても言えるはずがない。
だから、彼女は咄嗟に、
「暑かったから、単なる思いつきだよ。」
と嘘をついた。
「思いつきって、その理由も何なの。」
茅祐が笑うと、純也も苦笑して両腕を組んだ。
「女の考えることって、本当によくわからねえな。あ、でもさ、」
「何?」
「なんか、もったいないな。」
「もったいない?」
「うん、なんっつーか、・・・お前の髪って長くて割と綺麗だったのにな。」
「きっ・・・、」
綺麗なんて、と口に出しかけて璃華は口をつぐんだ。
同時に彼女は戸惑いを隠せず、純也から目線をすっと反らして彼の横の空間に目線を移した。
璃華は、今までの人生、女子から「綺麗」と言われたことは幾度となくあっても、同じ年頃の男子─それも、男子の中でも特に子供っぽさが残る純也から言われたことは一度もなかった。不覚にも、彼女の頬はじわじわと中心から熱くなった。
今の場合は髪の毛を誉められたのだ、と璃華は咄嗟に自分に言い聞かせたが、それでも「綺麗」という何気ない風に言われた二文字が彼女の脳内に谺した。
それでも、彼女は今できる最大限の照れ隠しに、
「それは、どうも。」
と普段より若干低めな声で早口気味に言った。ついでに、純也の様子が気になって、璃華はちらりと彼を上目遣いで見た。
純也も、璃華から目を逸らして、彼女の隣辺りの空間にぼんやりと目をやっていた。女子を素直に誉めたことが恥ずかしいのか、特徴的な少し尖った唇を少し曲げて、頻りに頬のにきびや頭を掻いている。
「じゃあ、俺、教室戻るわ。」
彼はそう言い残して、二人の許を去った。
「綺麗だってよ。」
フフフ、と鈴を転がしたような可愛らしい声で笑い、隣の璃華を見上げる茅祐。
璃華は、未だに頬を薄紅くし、さっきの場所から目線を動かさないまま、
「髪の毛が、ね。」
と、小さい声で訂正した。
「今日も、もうすぐ終わるね。」
凜が歩きながら、独り言のように呟いた。
瑠南も、腕時計を見て、
「あと、五時間くらいかな。」
と答えた。
午後七時少し前、瑠南は凜と共に帰り道を歩いていた。人通りのあまりない、瑠南と凜の家へと続くこの道を帰る時間は、彼女たちが付き合うようになってから格好のおしゃべりタイムになっている。ちなみに、凜は瑠南を家の近くまで送り届けた後、更に十分近く歩いて家であるマンションまで帰っている。凜が一人で夜道を歩くのは一見危険に思えるが、人通りの少ない道は瑠南の家の辺りで切れて、人通りのそれなりにある道になるので、凜のような女性一人でも割と安全である。
今日は本来、瑠南たちはレッスンのない予定の日だが、瑠南は来年の四月にコンクールを控えているため、今日も、同じくコンクールに出場する他数名の生徒と特別にレッスンを受けていた。
「大変だよね、受験生なのに。」
心配そうな顔で瑠南を見る凜。
瑠南は、首を横に振り、彼女の白い左手を自身の右手でとって、安心させるようにぎゅっと握った。
「ううん、全然大丈夫です。・・・寧ろ、嬉しい。」
瑠南が凜を見ると、彼女は不思議そうな顔で瑠南を見ていた。瑠南は、「もう、」と少し膨れて笑って言った。
「凜先生と、他のみんなよりずーっと長く一緒に居れて、嬉しいってことです。」
「っ・・・!」
率直な瑠南の告白に、凜の頬の色が、チークをつけたようにさっと朱に変わる。
「あ、先生ほっぺ赤い。可愛い。」
いたずらっぽく笑う瑠南。
凜も、少し笑って、自身の赤い頬に右手で触れた。
「だって、瑠南、ストレート過ぎるんだもん。」
その恥じらう姿が、瑠南の瞳には自分と同じ年頃の少女のように可愛らしく映り、普段の大人の女性の色気漂う凜とのギャップを、彼女はたまらなく愛しく感じた。
幸福な気持ちで、瑠南は夜空を仰いだ。
美しい三日月が、先程よりももう少し暗い夜の色に染まった広い空で、ぽっと優しく白い光を放っている。
「今夜は、月が綺麗ですね。」
瑠南は、自分でも思いがけなかった言葉を溢してから、恥ずかしくなってうつ向き、首筋を掻いた。
一方の凜は、少し吹き出した後優しい顔で空の月を仰いで、
「私、死んでもいいわ。」
と答えた。
瑠南は、うつ向き加減の顔のまま、上目遣いで隣を歩く凜を見た。そして、はっと息を呑んだ。
凜は、全身に月の光を浴びながら歩いていた。彼女の美しい顔が、長い睫毛が、大きな瞳が、黒い髪が、白い首筋が、彼女の美しさの全てが白い月光に照らされている。その姿は、この世のものとは思えないくらい神々しく、儚く、瑠南は、彼女が月の光に溶けて消えていってしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。
「凜先生、」
瑠南は、ぼんやりとした鈍い不安に襲われ、凜を見て彼女の名を呼んだ。
凜は、すぐに彼女の方を見た。
「どうしたの?」
瑠南は、こちらを見た凜の美しさに、また心を奪われた。─まるで、初めて会ったあの日のように。
凜は、さっき月を見ていたときと同じような優しい顔で瑠南を見ていた。まるで、慈愛に満ちた聖母マリアのように静かな美しい微笑みに、瑠南の心臓はドクドクと騒いだ。自分の頬が熱く紅くなっていくのを、瑠南ははっきりと覚った。
でも、凜には悟られないように、瑠南は睫毛を伏せて首を横に振った。
「ごめんなさい、なんでもないです。ただ、ちょっと不安になっただけなの。」
「どうして?」
「先生がね、月の光を浴びている先生があんまり綺麗なものだったから、その光に溶けこんで、先生、消えちゃうんじゃないか、って。・・・変な不安ですよね。ちっちゃい子が感じる不安みたい。」
瑠南が苦笑すると、凜は彼女の肩を抱くような形で、瑠南の左肩を宥めるようににポンポンと優しく叩いた。
「大丈夫、私は消えないよ。ずっと、瑠南のそばにいるから。」
「ずっと?」
「うん、ずっと。」
「約束ですよ。」
瑠南は、右手の小指を凜に差し出した。凜は、微笑んで
「約束ね。」
と、左手の小指を、瑠南の小指に絡めた。ぎゅっと繋がれた小指と小指に、瑠南は刹那の永遠を感じた。
この恋は、況してや女同士のこの恋に永遠がないことは瑠南も薄々気づいていた。いや、凜と付き合い始めたあの日から、痛いくらいにわかっていた。
でも今は、少なくとも今だけは、この恋は永遠に続くのではないか、と盲目的に思ってしまうくらい、瑠南は幸せの真っ只中にいた。
(これで、いいんだ。)
瑠南は、安心しきった気持ちで小指を解いた。
「月も綺麗だけど、」
しばらくした後、少し歩みを遅くして、凜が道の横を見た。つられて瑠南も凜が見ている方を見た。
「月見草。」
そこには、アスファルトの隙間から逞しく伸びた月見草が、何メートルかバラバラに並んで続いて、淡い黄色の花を咲かせていた。
その花の姿を見て、凜はまた歩くスピードを戻した。
「富士には月見草がよく似合う、か。」
「太宰治ですよね?富嶽百景。」
「よく知ってるね。小説、好き?」
「ん~、漫画よりは好きですかね。といっても、」
友達から借りて読むことが多いですね、と瑠南は言った。事実、富嶽百景も、夏休みにルイスから借りた太宰治の文庫本の短編集で読んで、たまたま気に入って何回か読み返していくうちにいくつかの文章を暗記していた、ということである。
「それでも、いいじゃない。」
凜は、何回か頷いた。
「小説を読んで文章を暗記することは、受験の対策にもなるし。」
「それなら、よかった。あ、先生は好きなんですか、小説?」
「うん、大好き。特に、太宰治と芥川龍之介の作品は。」
「おすすめの作品とかって、あります?」
「ん~、おすすめ、かぁ・・・、」
凜は、右手を顎にあてて首を捻った。数秒後、ぱっと思い出したように
「太宰治の『葉桜と魔笛』、かな。」
と言った。
「長編ですか、そのお話?」
瑠南が訪ねると、凜は「ううん、」と言った。
「短編だよ。姉妹のお話。─今度、よかったら貸そうか?」
「ありがとうございます。でも、ウチ、読むのかなり遅いですよ?」
「それでも、全然大丈夫よ。ゆっくり読むのは、じっくり読んでる証拠だから。」
「ありがとうございます。」
それから一分も経たずに、瑠南の家のすぐ近くに二人は来た。
「じゃあウチ、この辺で。今日は、本当にありがとうございました。」
「ここで、大丈夫?」
少し心配そうな凜に、瑠南は笑いかけて頷いた。
「はい、ありがとうございます。先生も、気をつけて。」
「うん、ありがとう。じゃあ、さよなら。」
「さようなら。」
瑠南は、長い間、遠くなる凜に手を振った後、我が家へと歩を進めた。
帰宅して、夕食と入浴を済ませた凜は、自室の本棚から瑠南に貸す予定の小説を探していた。
(どこだったっけなあ?)
この部屋には、大きめの本棚が一つと小さめの本棚が二つある。凜は本、特に小説が大好きなので、大きい方の本棚には、たくさんの文庫本や小説が所狭しと並んでいる。そのため、その中から「葉桜と魔笛」が入った文庫本の太宰治短編集を探すのも一苦労である。
(あ、あった。)
凜は、ほっとして腕を伸ばし、上から二段目の右から三番目にあったその本を取り出した。上に埃が乗っていないか心配になって、彼女はとりあえず本全体を手で軽く払った。
(懐かしい・・・。確か、私が高一のときに買ったんだっけ。)
一、二年振りにその短編集を開く凜。パラパラとページを捲って、「葉桜と魔笛」のページを開いた。
(せっかくだし、もう一回読もう。)
彼女は、本棚に背をもたせ掛けてその話を読んだ。
余命僅かな妹と、彼女を看病する姉、そんな姉妹に起こる不思議な奇跡をミステリー風に綴った物語。文庫本で十ページ程度の短い話ではあるが、凜はこの物語が大好きだった。
六、七分して、読み終わった凜の長い睫毛には、涙が滲んでいた。彼女は、右手の甲で涙を拭って本を閉じた。
彼女は、初めて「葉桜と魔笛」を読んだとき以来、この短編を読む度に胸の奥がきゅっと絞られるような切ない気持ちになった。
本当の恋がしたくてもできなかった病身の妹と、彼女を看病しつつも彼女を不憫に思い失望させまいと人知れず苦悩する姉、本当に辛かったのはどちらだったのか、凜は読む度に考えた。ところが結局、両者とも苦しかったのだから、ということではっきりとした結論は出ずに、ぼんやりとその考え事は終わるのである。
凜は、しゃがんで近くにあったバッグに本を入れた。
(明日、瑠南に渡そう。)
その時、机の上に上げておいたままだった彼女のスマートフォンから、メールの着信音が鳴り響いた。
「はいはい。」
立って机の上からスマホを取りメールを開くと、それは夢花バレエの講師仲間からのメールだった。内容は、明日のレッスンに特別講師として来る予定だったプロバレエダンサーが、飛行機が間に合いそうにないので、急遽明日ではなく明後日のレッスンに来ることになった、とのことであった。ちなみに、そのプロバレエダンサーは、凜がかつて所属していたロシアのバレエ団に所属するダンサーである。
(こんなに遅くくれるんなら、明日私に直接喋ればよかったのに。)
内心、遅めの時間帯に、特別重要ではない事柄をわざわざメールで送ってきた友人に少し呆れつつも、
『了解です。』
と短く返信して、スマホをもとあった場所に戻した。
凜は、コーヒーが飲みたくなってキッチンへと向かった。
インスタントのコーヒーを、瓶からティースプーンで掬って愛用している赤いマグカップに入れる。そこへ、ポットから熱湯を注いでよく溶かすと、淹れたてのコーヒーの良い香りが凜の周りに湯気と一緒に漂った。
(良い匂い。)
凜は、幸せな気分になって思わず頬を緩めた。熱いコーヒーの中に、彼女はスティックシュガーを一本入れてよくかき混ぜ、味わうように一口口に含んだ。
「ん、おいしい。」
なかなかおいしく出来上がったコーヒーの入ったマグカップを片手に、彼女は部屋に戻り、白いソファーに腰を下ろした。
(そういえば・・・)
特別講師は男の人だったっけ、と凜は、帰り際講師仲間から聞いたことを思い返した。講師仲間によると、その男性─プロバレエダンサーは日本人らしい。確か、三十歳くらいだ、とも言っていた。
(もしかしたら、知ってる人かも。)
もう一口、コーヒーをすすった途端、彼女は危うくそのコーヒーを口から戻しそうになった。決してコーヒーが熱かった訳ではない。ただ、一人、その情報全てに当てはまる彼女のよく知る人物を思い出したのだ。
(危な・・・。)
マグカッブをテーブルに置いて、凜はティッシュで唇を押さえた。
(てか、何故?)
何故もさってもないようなことであることは、彼女も理解出来ないほど混乱してはいない。しかし彼女は、そう自問自答せずにいられなかった。
聞いた条件にぴったり当てはまるのは、彼女が知る限り「彼」しかいない。いや、ほぼ間違いなく彼だろう、と彼女は思った。
(でもさあ、どうしてあの人かなぁ・・・。)
彼女は、目を閉じて両腕で膝を抱え込んだ。閉じた瞼の裏に、その人の姿が浮かんだ。思い浮かんだのは三年前の姿のままの彼だが、何か変化はあるのだろうか、と彼女はそれとなく考えた。
これからの人生を彼女が歩むにあたって、もう二度と会わないだろう、と思っていた人。会いたくない、という訳ではない。しかし、会いたいと思う訳でもない。ただ、─もう会ってはいけないような気がしていた。
しかし明後日、二人は嫌でも会わさってしまうことになってしまったのである。
(もう、どうにでもなればいいさ。)
いつまでもうじうじしているのにいい加減嫌気が差してきた凜は、顔を上げると、マグカップの中の少し温くなったコーヒーを、まるで男が酒を煽るようにぐっと一気に飲み干した。
葉桜と魔笛は、太宰治の作品の中でも私が特に好きな作品の一つです。凜さんと同じで、私も読む度に泣きそうになります。




