第十一話 向日葵に口づけを(後編)
長らくお待たせいたしました。(てか、私なんかの小説を待っていてくださった優しい方はいるのでしょうか?)
今回はやや濃密な(?)シーンがあります。
「─というわけよ。これで私の昔の話はおしまい。」
凜は、三日月の夜に追憶した過去を全て話終え、少し疲れたように目を閉じて息をひとつ細く吐くと、ソファーの背もたれに力を抜いて頭をもたせ掛けた。
瑠南は、凜の今までずっと己の中に秘めていた過去を聞いて、思わず自らの膝をソファーの上に抱え込んだ。右膝に右の頬を押し付けて、横目でちらりと凜の様子を窺う。
凜は、うっすらと目を開けて、何を考えるでもなくぼんやりと虚空を見つめていた。規則的な浅い呼吸と瞬きを繰り返す以外は、特に動かずにいる。
その様子が、なぜだかよくはわからないが妙に切なく哀しく、そして無情にも美しく映り、瑠南の心に黒い暗い雨雲のような今まで味わったことのない感情を掻き立てた。
(なんだろう、この気持ち・・・。生まれて初めてかも。)
この不可思議な感情は、今にも言葉ではない別の何かとなって瑠南の口から滑り落ちそうだった。
瑠南は、その込み上げてきた感情を懸命に堪えるように、ぐっと下唇を噛み締めた。上の前歯が下唇に食い込んで痛いはずなのに、凜の過去を思うと、痛みなんて思考の彼方だった。寧ろ今の瑠南にとっては心の方が、ナイフで切りつけられて赤い血を流す真新しい傷口のようにズキズキと痛んだ。
一方の凜は、ソファーにもたせていた頭を気だるげにゆっくり起こすと、ふっ、と不適な笑みを右片方だけ吊り上げた唇から漏らした。それは、自らと自らの封印した暗い過去を疎ましく思った故の、自嘲的な薄く冷たい笑いだった。
今まで、きっと誰にも見せたことがないであろう凜の冷笑に、瑠南はゾッとして長い睫毛を伏せた。
(凜先生が、怖い・・・。これは、いつもの先生じゃない。)
こう思った途端に瑠南の心拍数は急上昇し、身体中に悪寒が走り、ゾワゾワと鳥肌が立ち始める。肩も俄に震えだし、白いうなじを冷や汗が一筋伝い流れた。滴が背中を伝う感触が、彼女にはやけに生々しく感じられた。
とにかく今の瑠南は、目の前にいる凜に底知れぬ静かな狂気と恐怖を感じずにはいられなかった。更に言えば、自分の最愛の恋人である凜が一気に知らない人になってしまったかのように、瑠南には思えてならなかった。
そんな瑠南の内心にはお構い無しに、凜は未だ自分を嘲笑いながら、ゆっくりと口を開いた。
「あーあ、馬鹿みたい。せっかくいいところまでいけたのにねぇ・・・。笑っちゃうでしょう?」
当たり前なことに瑠南は笑えなかった。寧ろ、先程の雨雲が心の中にどんどん立ち込め、今にも何かが自分の内から音を上げて溢れ返りそうだった。
しかし凜は、冷笑を浮かべたまま、更にその後の出来事を簡単に語り始めた。
「退団するのと同時に、私は彼氏とも別れた。同じバレエ団のダンサーで、日本人で同い年の人だったんだけどね。まぁ、三年くらいは付き合っていたし、私はまぁ、同時は彼のこと、・・・こう言うのも恥ずかしいけど愛していたから、モヤモヤ悩んだりしたけどさぁ。でもやっぱり、彼の将来を考えてみたら私は、・・・バレリーナじゃなくなった私なんて彼にとっては単なる足手まといにしかならないわけだし。だから、別れた。彼も私と話し合って『凜と自分の未来を考えたら、その方が二人的にもいいのかもね。』って言って承知してくれたしね。円満的な別れだったから、後悔はしてないんだ。
そしてその頃、私の母さんも乳癌で死んだ。母さんが自分で自分で気づいて病院に行った頃にはもうかなり進んじゃっててさ・・・。手術や治療もしたけど、もう手遅れだった。せめて、あと何年かだけでも良かったから、一緒にいたかったなぁ。
・・・あ、そうそう、妹と叔母さんについてね。
茜は、普通にOLしながらピアノ教室で臨時の先生してたけど、去年の秋に友達の紹介で出会ったアメリカ人の男の人と結婚した。だから茜、今はアメリカのコロラド州にいるの。それに、今ちょうど茜のお腹に赤ちゃんがいてさ、来年の一月に産まれる予定。私もついに叔母さんになるってことだね。
とにかく、茜にはもう一年近く会ってない。電話は一週間前にしたんだけどね。でも、やっぱり普通に会いたいな。せめて、甥っ子か姪っ子が産まれてからでもいいからさ。
叔母さんの方は、母さんが死んで以来、確かずっと会ってない。やりとりも年賀状とか暑中見舞いとか、たまに送られてくる手紙くらいだね、ここ三年は。電話も半年近くしてない。昔は頻繁に往来があったんだけど・・・。第一、叔母さんはまだ助産院やってて忙しいから、会いたくてもなかなか都合が会わなくてね。ほら、お産って昼夜を問わないものでしょ?
だから、二人共今は滅多に会えないの。だから、寂しくないって言えば嘘になる。
それに、私にはその寂しさを紛らわせられる時間を一緒に過ごせる親しい友達が、日本にはいない。そりゃ友達はいるけど、なんでも心置きなく相談できる仲って訳じゃないし。私、高校の頃はバイト浸けの毎日だったって話したじゃん?だから、友達もほとんどが中学一緒だった人だけだったし。
アリーナにも、バレエ団退団してから一度も会ってない。手紙は一年に二、三回やりとりしてる。元気にしてる、って毎回書いてはあるけど、アリーナは少し体が弱いから心配なんだ。だから、会いたい。まぁ、アリーナは今も現役だしプリンシパルも夢じゃない地位にいるから、忙しい盛りなんだけど。
だから、私はバレエ団を退団してから、・・・ずっと一人ぼっちだった。心を許せる人はみんな─」
言いかけた途端、凜の言葉が途切れた。いや、正確に言うと、瑠南が言葉の続きを遮ったのだ。
瑠南は、しなやかな猫の如く凜の唇を奪って、そのまま凜の嫋やかな白い首と背中に腕を回した。
唇と唇がぴったり合ったのを感じて、瑠南はややぎこちなく、自分の舌を凜の僅かに開いた唇の隙間に挿し込み、歯列の奥にあった彼女の舌へとそれを絡ませ、凜の口内を隅々まで貪った。
凜は、最初のうちこそ戸惑い固まり気味であったものの、すぐに瑠南の背中と後頭部へと手を回して、自分の唇の奥へ入ってきた瑠南の舌に自分の舌を絡ませた。
互いの舌が、互いの口内で唾液に溺れながら絡まり、重なり、縺れあう。
夏の光が射し込む部屋で、可憐な美少女と端麗な美女が抱き合い、静かに熱い接吻を交わす様は、どこから見ても妖艶で背徳的で厳かで、そして、汚れなく澄んでいて美しかった。言葉で表すならば、『神聖』という言葉がまさしくぴったりと当てはまるだろう。
いよいよ二人とも息が継げず苦しくなってきたところで、瑠南は舌をほどき、紅く染まった唇を名残惜しげに凜の唇からゆっくりと離した。最早どちらのものかわからなくなった透明な唾液が、離れていく二人の唇を甘く濡らす。
瑠南は、荒くなった呼吸を整えながら、ソファーの上に膝を立てて座り直すと、その両腕でできるだけ優しくそっと、凜の頭を胸に抱きよせた。瑠南の大きな目から、一筋の光る滴が零れ、薄紅く蒸気した頬を伝う。
「凜先生、先生は一人じゃないよ。・・・ウチが、いつでもいるから。そりゃ、ウチは頼りないかもしれないけど・・・。でも忘れないで、ウチはいつも凜先生の味方です。だから先生は、いつも絶対に一人ぼっちなんかじゃない。」
瑠南の腕の中でその言葉を聞いた途端、凜の心の奥底から、今までずっと暗く黒く燻っていた何かが、まるで雪解けのように融けて消えた。
その瞬間、凜の視界はぼやぼやとぼやけ始め、目から熱い涙が止めどなく溢れ出た。その涙が、瑠南の、少女らしいふっくらとした柔らかい胸を濡らす。その胸から波のように伝わる鼓動に頭を預け、自分の腕を瑠南の背中と腰に回して、凜は静かに号哭した。
(こんなに泣くのは、何年振りだっけ・・・。)
ここ数年、彼女はほとんど泣いていなかった。いや、泣けなかった、という方が正しいだろう。泣くと、自分の中にある脆い何かが壊れて、それを境に自分が自分ではなくなってしまいそうな気がしたからだ。安易に泣くことは、彼女のプライドが許さなかった。だから、泣きそうになったことがあっても、目を瞑りぐっと堪えて乗り越えた。たまに、どうしても我慢が出来なくなり思わず涙が一つ二つ零れてしまったときも、急いで涙を拭い唇を噛んで、常に気丈でいようと努めてきた。
でも、今は違う。彼女は、瑠南の胸で声を上げずに、でも今日まで泣けなかった分思う存分泣いた。もう、それを責める自分も、彼女の中には存在しない。
今まで、身の内にずっと重く溜まっていたものが、涙と共に流れていく。同時に、凜は自分の中に埋まっていた鉛のようなものが、いっぺんに取り浚われたような感覚に陥った。それは、体が内側から次第に浄化されて軽くなっていくような、すっきりと心地好い感覚であった。
(体が軽くなっていく・・・。)
凜は、その安らかさと安堵感のままに、瑠南の胸へ顔を埋めた。そのまま息を吸うと、瑠南のほのかに甘く優しい、花のような匂いが凜の鼻腔へと送り込まれる。
(ずっと、こうしていたいな。)
凜は、瑠南の温もり、柔らかさ、匂い、全てを己に刻みつけるように、もう一度瑠南を強く掻き抱いた。瑠南の肉付きの薄い背中に、凜の長い指と切り揃えられ磨かれた桜色の爪が浅く食い込む。
しばらくした後、二人はどちらからともなく相手の体から自分の体を解いた。
二人の目線がまっすぐに重なりあう。
少しの間、二人の目は合ったままであったが、それがだんだん恥ずかしいやら可笑しいやらで、二人はやがてくすくすと笑いだした。
「っ、フフフ・・・、先生、そんなにウチの目じっと見ないでよ。ウチ、いくら家族とか友達とか、大好きな凜先生だろうと、人とずっと目合わせてるの苦手なんだけど。」
「私だって、人とずっと目を合わせてるのは得意じゃない。いくら瑠南であっても、なんか恥ずかしい。」
凜が照れたように笑う。笑うと、目の縁に残っていた最後の涙が、彼女のやや切れ上がった目尻からころりと零れた。
瑠南は、その涙を人差し指でそっと拭った。
「先生にはやっぱり、笑顔が一番似合いますよ。笑うととっても綺麗。」
「そんな、綺麗だなんて・・・。でも、ありがと。それに、瑠南だって、笑った顔が一番素敵よ。夏のお日様の下で咲く向日葵の花みたいで。」
凜は、瑠南の向日葵の輝きにも負けない笑顔を間近で見て、心からそう思っていた。黄色い太陽の花の姿に、自分の傷だらけの心を癒してくれた瑠南の笑顔をいつの間にか重ねていた。
瑠南は、首をかしげてはにかみを浮かべ、睫毛を伏せて目線を左右させていた。
(瑠南・・・。)
凜の、長年に渡って心の奥に重ねられていった歪んだ傷は、今日瑠南の手によって癒され浄化されて、生まれたての心のように傷から解き放たれてゼロになった。
彼女は今、とても満ち足りた気分であった。心はもう決して重くはなく、寧ろ羽のように軽い。
(私は瑠南に救われたんだ。)
目の前にいる、自分を心の闇から救ってくれた天使をそっと自分の肩に抱きよせる凜。天使─瑠南は少し驚いたように凜をちらりと見上げたが、すぐに穏やかな表情を浮かべ頭を凜の肩へと預ける。
「瑠南、」
「んー?」
身を起こし、少し上目使いで自分を見上げる瑠南の額に凜はそっとキスをして、そのまま唇を可愛らしい耳元によせて囁いた。
「本当に、ありがとう。」
耳に触れた凜の唇がくすぐったかったようで、瑠南はクスッと笑い、小さく頷いた。そして一瞬の内に凜へ身をよせて、彼女の右の頬に優しく触れる程度のキスを返した。
その優しい感触を忘れたくない凜は、ずっとこうして瑠南と二人で微睡んでいたかったが、いつまでもこうしている訳にもいかない。
「よし、瑠南!」
凜は、瑠南の体から腕を解いて、手をパンと一つ叩いた。
「勉強しよう!桐ヶ崎、合格したいでしょ?」
凜がすっかり忘れていた今日の本当の目的を瑠南に伝えると、当の彼女自身も目的を忘れかけていたように目を大きく見開いて凜を見た。
「あっ、そうだ!勉強しないと。」
瑠南は慌ててソファーから降りると、テーブルの前に座り直してリュックから勉強道具を取り出し始めた。
凜もその様子を見て微笑むと、
「私も、昔のだけど参考書とか取ってくるからちょっと待っててね。」
と、言って、ソファーから腰を上げた。
外から聴こえる蝉の大合唱が、夏の盛りの訪れを東京に告げている。
部活や期末テストに追われ、次の投稿はいつになることやら・・・。