M-3 不安
ミーナに事の重大さを告げた瞬間、彼女は顔面を蒼白にして取り乱した。
馬車を止めろと叫び、窓を叩き壁を叩き、挙句の果てになんと馬車から飛び降りようとしたのだ!
「やめてよ、ミーナ!」
慌てて後ろから羽交い絞めにしたけれど、そんなことでミーナが落ち着くはずはない。
剣術と共に古武術も父さんから学んだミーナはむしろ接近戦でその力を発揮する。羽交い絞めにした腕を一瞬でひねり上げ、狭い馬車内で僕をくるりと床に伏せた。
壁に頭をぶつけて気が遠のきそうになる。
でもなんとかミーナの手を離さないでいた。
この手だけは離しちゃいけない。
「離しなさい、マルコ!」
「嫌だ!」
きっと頭がよくてよく気のつく父さんの事だから、僕が気づいちゃいけなかった事にいろいろと気がついてしまった事だって知っていたはずだ。それでも何も言わず送り出した。
だって父さんの翡翠の瞳は僕にこっそりとこう告げていた。
ミーナを頼む、と。
僕の双子の相方は凄まじく強い。剣術大会で優勝するくらいだからその辺の剣士じゃ相手にもならないだろう。それは騎士団長だった父さんの教えと、もって生まれた天賦の才があってこそのものだ。
でも、その分直情的で考えなしな所もある。時に周りが見えなかったりもする。
僕は確かにミーナに言わせるとボーっとしているかもしれないけれど、彼女よりは周囲を観察していろんな事を考える能力に長けていると言えた。
「父さんはすごく強いよ。きっと僕らや父さんたちを捕まえに来る人にだってそう簡単に負けやしないだろう。でも、だからこそ、僕らがいると足手纏いなんだ!」
「でもっ、でもあたしは……!」
「ミーナ!」
ずきずき痛む頭を押さえて起き上がった。
ミーナの肩に両手を置いて、真っ直ぐに紫水晶の瞳を見つめた。すでに大きな瞳は少し潤んでいて、頬は激情で真っ赤に染まっていた。
「だいじょうぶ、父さんたちだけなら逃げられるよ。僕らが出来ることは足かせにならないように身を隠すことだけなんだ」
ゆっくりと諭すようにそう告げると、ミーナは少しだけ力を抜いた。
分かってもらえた。安心してミーナに微笑むと、その頬に雫が伝い落ちた。
「父さん……母さん……」
初めて見るミーナの涙だった。
何かが堰を取り払ってしまったかのように次から次に流れ落ちてくる。
ガラス玉のような雫に僕はすっかり動揺してしまった。まだ幼かった頃、余所見をして馬車と衝突しひどい怪我を負った時だって泣かなかったミーナが大粒の涙を流していた。
どうしようもなく見つめていると、ミーナは倒れこむように僕の胸にしがみついた。
その肩は思ったよりずっと華奢で、強く抱きしめたら折れちゃうんじゃないかと思った。
それでも涙と震えを止めてあげたかったからぎゅっと抱きしめた。少しでも落ち着いてくれるように。少しでも不安が消えるように。
「ミーナ、カトランジェの街で少し落ち着いたら父さんたちの様子を見に行こう。きっと父さんと母さんが待っていてくれるから」
返事はなかったけれど、ミーナは今すぐ帰る、とも言わなかった。
安らかな彼女の寝顔を見ながら、まだ涙の跡が残る頬にそっと唇を寄せた。
「だいじょうぶ、ミーナは絶対僕が守ってあげるから。」
ミーナを傷つけようとする何者からも。
だって僕らは世界に二人だけの兄弟なんだから。
いつしか周囲の景色は草原に変わっていた。朝日を浴びてさざめく草むらは朝露が光を反射してキラキラと煌いている。
その光は僕らへの加護を祈っているようで思わず微笑んだ。
マルコシアスという名に僕らの本当の両親が込めた願いを思いながら、未来への道のりを思い描きたかった。
馬車は次の日の夜まで走りとおした後、小さな街の宿に到着した。
御者さんはふわりとした茶髪と大きな栗色の瞳をした20歳くらいに見える若い男性だった。年上の女性に好かれそうな柔らかな笑みを湛えているが、腰には長剣を差している。いくらか武術の心得があることは動きの端々からも明白だった。
「宿を用意したから、どうぞ」
「ありがとう」
そう茶髪の青年に礼を言ったミーナはまだやっぱりどこか沈んでいる。
僕も御者のお兄さんにお礼を言うと、ミーナの後を追って宿に入った。
部屋は二つ取ってあってミーナと僕は別れて部屋に入ったけれど、考える事がたくさんあって何だか眠れそうになかった。
ベッドにごろりと転がって父さんがくれた二枚の羽根をランプの明かりに翳してみた。
鳥の羽根よりずっと大きなそれは光に透かすと硝子のように煌く。手に包むと少し熱を持っている気がする。
「天使の羽根?でも、父さんがそんなものくれるはずないよね」
父さんと母さんが今も悪魔を崇拝しているのは明らかだった。口にこそ出さなかったが僕らの両親を今も親愛していることは伝わってきたし、おそらく交流の深いじぃ様も同じようにグリモワール王国の忠臣だったのだろう。
じぃ様がこうなることを予想して僕らに知識を与えたという節は、無きにしも非ず、だ。
僕もミーナも父さんと母さんが大好きだ。たとえ血の繋がりがあろうとなかろうと本当の両親はクラウド=フォーレスとダイアナ=フォーレスしかいないと思っている。
レメゲトンの両親に興味がないというと嘘になるけれど、わざわざ探してまで会いたくはなかった。僕らを捨てた両親だ――とは言ってもその二人だって国に負われる身なんだから泣く泣く僕らを手放したのだろう、父さんの言うように。
だからって、何で僕らを捨てたんだ、なんて罵る気もない。捨てないで欲しかったという感情は生憎と持ち合わせていなかった。
いずれにせよ16年前に僕らを捨てた両親よりずっと育ててくれた父さんと母さんの方がよっぽど心配だった。
きっとミーナも同じ気持ちだ。
「父さん」
父さんは強かった。
最近背も伸びてミーナを相手にするときはちょくちょく手加減するようになっていたけれど、父さん相手には本気を出したってまだまだ勝てなかった。
いつもの優しい笑顔で僕を軽くいなして、強くなったね、と褒めてくれた。
父さんの翡翠の瞳を思い出して鼻の奥がつんとした。
目を閉じて気持ちを落ち着ける。でも父さんの面影は瞼の奥から消えてくれない。
「僕らはいったいどうしたらいいの……?」
カトランジェの街に行く。そして僕らはいったいどうするんだろう。
国から隠れて生きる?ずっと?一生?
父さんも母さんも傍にはいないのに?
馬車の中で口数少なかったミーナを思い出して、唇を噛んだ。もう二度とあんな顔を見たくはなかった。
「分かんないよ……!」
絶望が自分の中で膨らんでいく感覚に襲われて気持ち悪くなる。吐きそうだ。
それを振り切るように目を閉じてベッドに大の字に転がった。
もういい。今日はもう寝てしまおう。
そのまま眠りにつけるかと思ったのに、どうやら下の階が騒がしい。嫌な予感がしたので下りてみることにした。