M-19 魔界
じぃ様は杖を使って地面に模様を描いていった。
二つの三角形を互い違いに重ね合わせた星の中央にコインと同じ悪魔の紋章。さらに周縁部には古代語を書き連ねていく。直径が僕の身長くらいありそうな大きな魔方陣だった。
「魔法陣は魔界とつながる。コインを握ったまま悪魔の名を呼べ。そうすれば契約の場へと自然に導かれる。そこで悪魔と対話し、契約を成立させろ」
「……? よく分かんないよ、セイジ」
「まあ、実際やってみろ。悪魔との契約に必要なのは強い意志。ただそれだけだ。特にフォカロルは強い意志を秘めた願いしか叶えんと聞く」
「うん、わかった」
こくりと頷くと、セイジは微妙な顔をしてため息をついた。
「本当に大丈夫だよな……? 俺、不安になってきたよ、ウォル先輩……」
「大丈夫。きっと、悪魔と契約してくるよ」
だってミーナを守るために、父さんたちと一緒に暮らす為に、僕は力が必要なんだから。
それより何より、もう負けたくない。僕は、強くなりたい。
「無事で帰ってこいよ、マルコシアス。作戦決行まで2日しかないんだ、それに間に合わなければ意味がない」
「分かってる」
準備が出来た、というじぃ様の声で、僕はコインを手にしたまま魔方陣の中央に入った。
大きく、一つ深呼吸。
「気を付けてな」
「ありがとう、じぃ様、セイジ」
ドキドキする。目の前に、新しい世界が広がっていくのはどうしてこんなにも気持ちを高揚させるのだろう!
掌のコインをぎゅっと握りしめた。
ゆっくりと息を吸い込んで。
「フォカロル!」
その瞬間、目の前を黒い霧が覆った。
魔方陣の外縁を渦巻くようにして現れた黒霧は、数秒後に霧散した。
そして霧の向こうに広がったのは、これまでと全く違う光景だった。
足もとはごつごつとした岩で覆われている。そんな大地に生命の兆しはない。
それより何より、足元の地面が途切れて崖になった向こう、目の前に広がっていたのは――暗黒の空と暗黒の海だった。とはいっても、内陸に住んでいた僕は海なんて見た事がないからきっとこれは海だろう、と思っただけだ。
「すげえ……」
遠くは霞がかっていて空と海の境界がはっきりしない。ここに立っていると自分の上下も分からなくなってしまいそうだ。
そうしてぼんやりと佇んだ僕の耳に、静やかに澄んだ声が届いた。
「客とは珍しい。すでに時代は終わったはずだったが」
はっとすると、目の前には大きな茶色の翼が浮いていた。その翼に包まれるように、線の細い青年が首を傾げている。教会の曖昧な海と空を背景に、第41番目の悪魔フォカロルは空に浮いていた。
ぼろぼろになった短いタンクトップを来ただけの上半身は、線が細いとはいえ、病的な感じのしない褐色の肌だ。淡い金髪を長くのばして後ろで緩く括っている。細くつり上がった目にはめ込まれた光の加減で緑にも見えるセピアの瞳に、特別な感情は見られなかった。
ふと視線を足元にやると、膝までしかないズボンからのびる彼の足は人間のものではなかった。しいて言うならネコ……いや、豹のように走ることに長けた大型肉食獣のものだ。羽根と同じ色の毛がびっしりと覆い、先には鋭い爪も付いている。
手にしているのは細く長い槍。黒塗りのシンプルな柄を持つそれからは禍々しい気が発せられていた。
「はじめまして。フォカロルさん?」
ぺこりと礼をすると、彼は驚いたように目を見開いた。
「その瞳――黄金獅子か。見違えた」
「おうごんしし?」
僕が首を傾げると、その悪魔は表情を変えずに淡々と述べた。
「お前の前世、遠い昔の血だ。我らを創り、秩序化し、すべての根源となった『人間』」
「僕の名前はマルコシアスだよ、フォカロルさん」
「あの剣士と同じ名を語るか、黄金獅子」
「両親が僕にくれた名前だ」
「そうか」
刹那、目の前に何かが飛んできた。
黒塗りの柄の細長い槍の切っ先――それが僕の鼻先に突きつけられたのだ。さすがに悪魔の速度は段違いだ。僕は眼がいいけれど、それでも全然見えなかった。
でも、その攻撃に殺気は全くない。
「臆せぬな。それは血が成す業か? それともお前自身の意思によるものか」
少し難しい問いに、僕は首を傾げた。
考えてからゆっくりと返答する。
「ええと、怖がらないのはだって、フォカロルさんからは怖い感じがしなかったからだよ。それに、僕は貴方に助力を仰ぎに来たのであって、戦いに来たわけじゃない」
僕は腰に差していた刀を鞘ごと引き抜いて、地面に放り投げた。
「僕、強くなりたいんだ。この間、すごく強い人に会ってどうしようもなくやられたんだ。でも、次に会う時は、絶対に負けたくない」
真っ直ぐにセピアの瞳を見つめ、揺るがない瞳の中に強さの欠片を求めた。
「お願いだよ、フォカロル。力を貸して。僕は強くなりたいんだ」