M-18 契約
僕はミーナに何も言わず、セイジに連れられてトロメオを離れていた。こんな事は生まれて初めてだった。自分の願望を優先してミーナと離れ離れになるなんて。
セイジは鮮やかな紅髪をターバンのような布で隠している。すごく綺麗だから見せたらいいのに。
それも、馬を進めるうち、だんだんと見覚えのある風景が見えてきた。
「セイジ、もしかして、帰ってない?」
「ん、まあ、お前にとってはそうなるだろうな」
セイジが向かうのは明らかに故郷の街だった。
「大丈夫なの?!」
まだ聖騎士団や追手がいるんじゃ……
「何も街に入るわけではない。街はずれに墓地があるだろう、そこで待っていてくれ。すぐに連れてくる」
「連れてくる? 誰を?」
セイジはくるりと振り向いて笑った。
「お前もよく知っている人だ」
僕は追手がいるであろう場所を避け、街はずれにある墓地に向かった。
ここは街の人でも滅多に来ない。墓場独特の冷たく陰鬱とした空気が辺りを満たしていた。街の規模に比べて墓地が異常に広いのは、戦争中にこの辺りで亡くなった人が非常に多かったからだ。戦場となった旧東都トロメオからほど近い場所にあるこの街では負傷者の手当てが行われたりもしていたらしい。
馬を下りて、墓地の地面を踏みしめた。
足元でかさかさに乾いた土が舞う。
僕は墓地の中央のぽっかりと開けた場所に腰を落ちつけた。この地面も乾いていて、指でなぞると簡単に黄土色の土が剥がれた。
これから、僕は悪魔と契約するんだという。
全然実感が湧かなかった。
でも、僕は悪魔の事を軽く見ているわけじゃない。むしろよく知っている分、その恐ろしさだって人より分かっているつもりだ。契約に失敗すれば命を落とす事も、その力が制御しきれなければ何が起こるのかも。
それなのに全然怖くなかった。
むしろこれから悪魔に会える事が楽しみで仕方がない。僕がこれから会いに行くのは、いったいどの悪魔なんだろう?
「炎だったら断然フラウロスだな」
僕は灼熱の毛並みを持つという豹、炎の悪魔フラウロスが大好きだった。
最後にフラウロスを使役したのは、戦争の直前にレメゲトンに就任したというグリフィス家の末裔にあたる女性レメゲトンだったという。これまで名前すら知らなかったのだが、ふと気づけば最も身近な存在と化していた。
「ラック=グリフィス、か――」
僕の本当の母親だというその人は、稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスの子孫だ。十代のうちに何年も契約者のいなかった炎の悪魔フラウロスと契約し、戦争でも多大な活躍をしたという。
すべて文献には残っておらず、じぃ様に聞いた話だった。
もしかすると、じぃ様が敢えてその人の名前を教えてくれなかったのは、僕がその女性の子供だと知っていたからなんだろうか?
ああ、でももしその人が生きているのなら、今でもフラウロスを使うんだろう。僕が契約をすることは不可能だ。
じゃあ、いったい誰だろう。
ぼんやりと青い空を見上げていると、ふと人の気配がした。
「待たせたな、マルコシアス」
セイジの声がして、足音が二つ、近付いてきた。
「ううん、全然」
そう言いながら振り向くと、セイジはすっかりやせ細った褐色の肌の老人を連れていた。
「あっ、じぃ様! 無事だったんだね!」
いつも僕らに悪魔の事を教えてくれたじぃ様。もしかすると、僕らの煽りを受けて捕まっているかもしれない、と危惧していた僕はほっとした。
家から出ると、じぃ様の小ささにびっくりした。思った以上にじぃ様は弱っているみたいだ。
「マルコシアス……こんな時が来るやもしれんと、危惧しておったよ」
じぃ様は皺の奥に刻まれた青い瞳を悲しそうに歪めた。
「自ら戦いの中に身を投ずるのじゃな。まるでお前の両親がそうして来たかのように」
「うん、だって僕は――強くなりたいから。ねえ、じぃ様ももしかして、レメゲトンだったんでしょう?」
「ああ、そうだ」
僕の質問には代わりにセイジが答えた。
「ヨハン=ヴァイヤー老師。グリモワール国のレメゲトンの長老だったお方だ。王国時代にも、多くのレメゲトンの契約に立ち会っていらっしゃる。現在では魔法陣を書く事の出来る数少ない生き残りだ」
「そうだったのか」
にこりと笑いかけると、じぃ様はもう一度悲しそうに微笑んだ。
「何度経験しても慣れることなどできぬ、若い者達が命を賭して魔界へ向かうを見送るなど」
「老師、今回はマルコシアスの強い希望です。また、私自身も彼にその力があると判断しました。この時代、彼が自身で生き抜くには力が必要なのです」
「分かっておる」
じぃ様はそう言うと、ずっと支えてしていた杖を僕に向けた。
まるで何かを確かめるように。
「マルコシアス。調べるまでもなくお前は十分な悪魔耐性と並はずれた親和性を示すだろう。だが、慢心するでない。悪魔はいつ人に牙をむくや知れん」
僕はこくり、と頷いた。
「うん、でも、何より僕、悪魔に会ってみたいんだ」
そう言うと、じぃ様は微かに笑んだ。
「ああ、いいじゃろう。すぐに魔方陣を用意する――お前が契約するのは、風を操る事が出来、また海を統べると言われる第41番目の悪魔フォカロルじゃ」
「フォカロル!」
フォカロルは大きな鷲の翼を持つ人の姿をして現れるという。海を自在に操るだけでなく、風をも手中に収めている。比較的人間に有効な悪魔で、堕天であるという説と堕天ではないという説の二通りがある。
セイジに手渡されたコインをぎゅっと握りしめ、未来を見据えるように前を向いた。