R-20 天使
足が竦んで動かない。信じられない光景が目の前を占めている。
「……くそっ」
あたしを背にかばった彼の、らしくない悪態が事態の緊急性をよく示していた。
あんなに憧れていた天使様が目の前にいるっていうのに、どうしてあたしはこんなにも心の底から震えているの?
あの銀髪の人が『ミカエル』と呟いた刹那、目の前を銀の光が覆って、気が付けば――
「これが、美の天使ミカエル……」
大きな6枚の翼を持つ天使。純白の衣を身に纏い、頭上に金冠を湛えている。そればかりではない。ゆるく波打つ銀髪が彫刻のように整った頬を彩っている。哀愁に満ちた群青の瞳はこの世の理すべてを憂いているかのように沈んでいた。陶磁器のような肌は滑らかで、仄かに光を放っているようにさえ見える。
是も否も超え完成された美。
人は人である身を越えたそれを目にした時、全く動けなくなってしまうのだ。
銀髪のセフィラの背後に現れたのは、荘厳な美の天使ミカエル。人々の信仰を集め、敬い愛されるもの。そして――あたしが、ずっと憧れていた天使。
歓喜とも怒りとも怖れともつかぬ感情で心の底から打ち震えながらも、あたしはその美貌に釘付けになっていた。足が動かない。瞬きすらできない。呼吸すら困難になる。
「コレオプシス、ダリア! 二人はクラウドさんたちを!」
「遅いよ」
声とほぼ同時だった。
銀髪の人が動いた、と思った瞬間、一番近くにいたダリアが腹を折って地面に崩れ落ちた。腹部を押さえた手の間から、赤い液体が漏れる。
疾い!
目を見張った瞬間、大槍を構えたコレオプシスの背から血が噴き出した。
「うそ」
信じられなかった。
だって二人はたった今、20人以上の騎士を倒したばかりなのだ。それほどの腕を持つ二人がたった一瞬で……
「アメシェス、ミーナを頼む。シランはオレの援護を!」
きっぱりとした口調で指示したリッドは、腰の剣を抜いた。
冗談でしょう?!
彼は天使に戦いを挑む気だった。
「無茶よ!」
思わず叫ぶ。だって、背後にミカエルを従えた銀髪の人とはこれだけ距離があるのに、震えが止まらないくらいの圧力がかかっているのだ。それも、コレオプシスとダリアが一瞬でやられた。二人ともそれぞれ十人以上の騎士を倒す力を持っていたというのに!
そうでなくとも、天使に戦いを挑むのは論外だなんてこと、どんなに小さな子供だって知っている。何しろ相手は天使なのだ。万人が憧れ、敬う美しい有翼のモノ。
するとリッドはふっと振り向いて、微笑んだ。
これまで何度もあたしを安心させてきた、優しい笑顔だった。
「あ……」
声を出せないでいるあたしを背に、リッドは天使を従えた銀髪のセフィラへと向かって行った。
「行きましょう、ミーナさん」
黒衣を纏った隠密部隊メンバーのアメシェスがあたしの手を引く。
「でも」
「大丈夫です。アキレアは幹部であると同時にセフィラと単騎で戦闘できる数少ない戦闘員です」
頭と口元に黒い布を巻き、目以外の表情はほとんど読み取れないが、アメシェスが嘘を言っているようには見えなかった。
あたしが思っている以上に、リッドは強い。それは彼自身が言った事だ。
今だって、篭手から銀の刃を飛び出させて銀の光を纏ったセフィラに、臆する事無く立ち向かっている。それも、流れるように美しい剣の型で、舞うように。
あの笑顔は消えていたけれど、代わりに現れた彼の凛々しい横顔に釘付けになった。
なんてきれい。
「行きますよ、ミーナさん。早く!」
アメシェスが急かす。
あたしは、一歩後ずさる。
これでいいの? あたしは、またあの人を置いて逃げるの? 前回マルコを置いて逃げたように……
嫌だ。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
一晩中馬上で泣きまくって、この上ないくらいに後悔して、やっとここまで辿り着いたのに。
「嫌よ」
今度こそ、彼を助けたい。
それに、あたしを助ける、と言ってくれたコレオプシスが、ダリアが地に伏したのだ。あたしの為に。父さんを助けるために。
だったら、あたしは一人逃げるわけにはいかない。
「逃げたくない」
あたしを守ると言ってくれた人を、助けてやると言ってくれた人たちを守りたい。世界中の人すべてなんて言わない。目に映る人だけでもいい。それが無理だったら、自分の大切な人だけでもいい。
力のないあたしにも出来る事があるのなら。
「あたしは、守りたいの」
強い気持ち。強く激しく、そして穏やかな願いだった。
そして、それはあたしのすべて。
強い願いに、確実に反応するものがあった。本当の両親が名前と共に残したという羽根。今回の旅の最初からずっと腰のベルトに差し込んであった。
純白の羽根から光が漏れる。
力強い朱の光があたしを包み込んだ。