R-10 決意
それを聞いて、さすがにあたしも一瞬口を噤んだ。
『セフィラ』とは、この国が崇拝する天使を召喚する神官に与えられる称号。国に10人しかいないという彼らは、過去を捨てて天使と契約し、その力を使役するという。それは学校で最初に習う事で、全国民が知っている事だ。
もし彼らに反抗するならばそれはすなわち天使への背徳――あたしは、とんでもないものに喧嘩を売る事になる。
何より、あたしは天使が好きだった。もちろん悪魔も好きだけれど、荘厳で流麗、華美な天使たちにだってずっと憧れていたのだ。
「あの銀髪の人は、美の天使ミカエルを召喚する第6番目のセフィラ、ティファレトと呼ばれる神官の一人だよ。昨日は夜だったから天使の力を使う事は出来なかったけれど……次に会えば、きっともう命の保証はないから」
そう言うと、リッドはずっと隣で話を聞いていたマルコのマントをさっと取り払った。
「あっ……」
マルコが焦った声を出す。
あたしも声を失ってしまった。
マントの下に隠されていたのは、すでに乾いてしまった赤いモノ――それは、マルコの服の全面にべっとりとついた血だった。量が半端ではない。いったいこれは、誰の血なの?
マルコは、慌ててもう一度マントをはおり直したけれど、もう遅い。その光景はあたしの目にしっかりと焼きついた。
「これが、銀髪の彼に戦いを挑んだ結果だよ。一歩間違えば、マルコは……もうここにはいなかったかもしれない」
「いったい何があったの、マルコ。怪我したの? 今は大丈夫なの?」
ざっと血の気が引いた。
マルコはじっと口を噤んでしまったけれど、代わりにリッドが口を開いた。
「グレイスの……君らの母親の残した羽根が、マルコの命を救ったんだよ。マルコの羽根が一枚なくなってるでしょ?」
マルコは返事をしなかった。ただ、ぎゅっと唇を噛み締めて俯いた。
こんなマルコは初めてだ。
「だから、君たちはまず自分の命を守るのが最優先。その他の事は、まだ先に考えるべきことなんだ」
リッドの声はあたしたち二人の心の奥底まで沁み込んでいった。
彼は必死でマルコとあたしを守ろうとしてくれている。もちろん、父さんと母さんもそうだった。この羽根をくれた本当の両親だという人たちもきっとそうなんだろう。
戦う相手の強大さが分かっているから、その無謀さも困難もすべて承知しているから、こんなにも真剣に向き合ってくれるんだ。
でも、違う。
あたしは、そんな事を聞きたいんじゃない。
胸に刺さるほどの優しさを知っても、あたしは自分の中の想いと周囲の矛盾を消化できなかった。
ひとつ、深呼吸するとひんやりとした朝の爽やかな空気が体中を駆け巡る。朝日は既に山を離れて真っ青な空への階段を登り始め、少し離れた街道を人が行き来し始めた。
世界は、あたしの事になんて興味ない。
これから人生最大の我儘を通そうとしているって言うのに、あたしの心はこの上なく凪いでいた。静やかで穏やかで、どんな言葉でも受け止められる気がした。そして、どんなことを言われても絶対に揺るがない気がしていた。
この穏やかな心を見守るのは天界の長メタトロン? それとも悪魔の王リュシフェル?
あたしには分からない。
天使の事も悪魔の事も好きだけれど、もしかするとこの気持ちは信仰とは少し違うのかもしれない。東の方の人たちみたいに、天使を崇め奉り、絶対的なものとして妄信することはないし、毎朝祈りを捧げるわけでもない。それどころか、困った時に口から洩れた名は悪魔のものだった。
あたしにとっての天使や悪魔は、もっと身近なものだ。強いて言えば、大空を翔ける鷹を見て心躍るような。
どうして、人は他人の信じるものを受け入れてあげられないのだろう。なぜ天使も悪魔も認めることができないのだろう。
あたしの事を守ろうとしてくれた二人を、まっすぐに見据えた。
「ねえ聞いて、リッド。マルコも」
何となくマルコに対して抱いていた違和感。リッドの言葉に頷けない自分。
その葛藤の理由がようやく分かった。
「あたしはね、守られたいわけじゃないの」
どういうわけかあたしは女の子に生まれてしまったから、世間一般的には守ってもらうのが自然なんだろう。
でも、あたしはそれを望んでいない。
「マルコには前にも言ったでしょう? あたしは……強いの。でも、何の力も持ってないわ。セフィロト国に楯突くどころか、父さんや母さんを救うことだってできない。でもね、あたしは守って欲しいなんて思ってない」
これはきっとあたしが騎士になりたい、と願った時に気持ちに似ている。
「何の力もないのなら、これから手に入れるわ。弱いって言うならこれから強くなる。でも、その可能性を試す前に『守る』なんて言う体のいい名目であたしの事を囲って、閉じ込めないで! どうせならあたしを『助けて』よ。強くなるために、力を貸して」
やっと分かった。あたしがずっと望んできた事。
先ほどと同じように、二人揃って呆けた表情でこちらを見ている様はどこか滑稽で……あたしは思わず笑みを漏らした。
「お願い。あたしは逃げたくもないし隠れたくもない、守られたくもないのよ」
とてつもない我儘を言っている事は分かっていた。
でも、ここを譲ったら、あたしはあたしでなくなってしまう。それじゃ、生きているなんてとても言えない。今度父さんに会えた時、胸を張れない。母さんに笑顔を向けられない。
人生の意味、なんて大層な事を言うつもりはない。
ただそれだけがあたしの中の真実で、望みで、すべてだっただけ。
「街に戻りましょう。あたしはどんなに苦労しても、たとえ命が危険だって父さんと母さんの傍にいたい」